酒の素
「─────ただいま」俺とサルは小振りな木樽をふたつずつ抱えて住処に戻ってきた。
「おぉ、戻ったか、おかえり。随分とまあ可愛らしい樽じゃの」出迎えてくれたカリラが言った。
『おかえり』
この言葉を聞くと少しだけ胸の辺りがじんわりと暖かくなる。どんな間柄にしろ"ただいま"に"おかえり"が返ってくる環境というのは、自分が子供でもない限りは、ありふれているようで案外手に入れ難い。前世では俺が手に入れられなかったものだ。
「これくらい小さい方が試作には向いてるよ」
「なあ、ショウ。ずっと気になってたんだがよォ、酵母はどうするつもりなンだ?」樽を床に下ろしながらサルは訊ねた。
「お前から酵母なんて言葉が飛び出すとは驚いた」
「起きて寝るまで毎日四日間、頼ンでもいねェのに四六時中酒の作り方を語られりャ誰だって厭でも覚える」
拘留という名の軟禁を受けた四日間、何もすることが無かったためにサルに俺が知る限りのウイスキーの知識を叩き込んでいた。
「はは、悪かったな。酵母はもう宛がある。カリラさん、頼んでおいたものは見つかりましたか?」
「ふむ、前に市場で見かけたことがあったから、簡単に見つかったぞ。どれだけ必要かわからんかったから山ほど買っておいた、あの籠に入っておる」カリラは机の上にある、布が掛けられた籠を顎で差した。
布を外すと、籠の中には紫と茶を混ぜたような色の房になった果実がいくつも折り重なって入っていた。
「これが酵母のもとになる」そのうちのひとつを摘んで、俺はサルに見せた。
「そりャ葡萄か?」
「ああ、そうだ。陰干しした葡萄、つまり干し葡萄だよ。こいつ自体が酵母の住処になっているんだ。これを培養して酵母の数を増やす、まずはそこからだ」
酒を作るためには『水分』と『糖』、発酵によってそれをアルコールと炭酸ガスに分解する『酵母』の存在が必要不可欠だ。ところが葡萄を初めとする一部の果実は、何も手を加えずとも元々その三要素を実に宿している。潰して清潔な密閉容器に入れておくだけで、暫く経ってから見てみるとワインが出来ているのだから、何者かに設計されているとすら思えてしまう。
"御神酒あがらぬ神はなし"。まるで神が温情で人間にもその恵みを味わう権利を与えてくれたかのようだ。ならば報いねばバチがあたるというもの。
「わしには何が何だかよくわからん話しじゃの。小僧はなんでそんなことを知っておるんじゃ?」
「えー、と…………昔知り合いに聞いたんだ」
否、そうではない。母さんがレーズンの自然酵母を培養してパンを焼いてくれたことがあったからだ。その時の俺はまだ小さくて、瓶の中にぷかぷかと浮かぶレーズンをいつまでも見つめていたことをよく覚えている。
「なんじゃその顔は」
「いや、ちょっとその知り合いのことが懐かしくなってな」
「そうか、もう居らんのじゃな……」
一瞬にして俺の寂寥の念を感じ取ったカリラは流石だった。厳密に言えばまだ存命なのだが、俺にしてみれば亡くしてしまったのと同じ。二言目には『結婚はまだか』と口やかましいあの人にはもう会えないのだから。
「えー、………話が脱線したな、とにかくこの干し葡萄で上手いこと酵母になる菌が培養出来たらハリス会長に連絡を入れて、ウイスキーの試作を始める!」
こうして自警団の借上げ住宅は夜な夜な怪しい菌の培養を行う研究室になった。
煮沸した瓶の中に一度沸かして冷ました水、大量の砂糖、そして干し葡萄をひとつひとつもぎ取って詰めていく。
「アクセラ」瓶に手をかざして詠唱した。
培養期間はとりあえず三日間に設定し、その分だけ時を加速させる。
───────ポンッ
「痛ッ!!」瓶の蓋になっているコルク栓が飛び、俺の額を打った。
「ヘハハハッ!こいつァなかなか面白ェ芸だな」とサルは俺を笑った。
「う、うるさい。しまった、瓶の内部で発生する炭酸ガスの事を考慮していなかった……コルクに小さな穴を開けてやり直そう」
失敗することはあっても、失敗に終わることは無い。何故なら成功するまで時魔法が何度も巻き戻すからだ。
逐次ガスが抜けるように針でコルク栓に小さな穴を開け、再び最初から同じ手順を行った。
「うっ……本当にこれでいいのか?」汚れたものを見るような目でサルは瓶を見つめていた。
干し葡萄が水を吸ってぱんぱんに膨れ上がり、培養液の方は茶色く濁っていた。
「開けてみよう」
俺がコルク栓を引き抜くと、干し葡萄のもったりとした香りの中に、わずかに感じられる酒精が鼻をついた。
「うん、まだ少し培養が進んでないみたいだけれど、上手くはいっているな」
「この匂い……もしかしてこれが葡萄酒か?」とサルは言った。
「葡萄酒なんてものがあるのか!?」
「あるにはある。見たことも飲んだこともないがなァ」
「は?」
「わしはあるぞ、確かにこの香りは近いものがあるかもしれんの。個人的には喉越しが爽快な麦酒の方が好きじゃが」
「法律じャ葡萄酒は俺達一般人が飲めねェようになってて、一部の上流階級や貴族の連中以外は口にしたことすらねェはずだぜ。密造すると結構重い罪に問われるらしい」とサルは説明してくれた。
優れたものを独占したい気持ちはわからないでもないが、それなら経済的に優位な者しか手が出ない値で流通させるだけで十分だ。庶民が『特別な日だから』と奮発して、年に一度や二度葡萄酒を舌の上で転がす楽しみを奪った罪は重い。
「はあ……クソみたいな法律だな…………サル、これは確かに葡萄の成分を含んだ酒には違いないけど、貴族の連中が飲んでるものとは似て非なるものだよ」
「ふーん、そうなのか」
ガラス瓶を持ち上げ、俺は底の辺りを下から覗き込んだ。
「沈殿している固形分がまだ少ない、もう少し時間が必要みたいだ」
再びコルク栓を閉め、もう二日ほど時を進めると瓶の底に白い澱のようなものがこぞんで層を成しはじめた。
「─────よし、これで完成だ」
「これでか?」カリラは不思議そうに首を傾げた。
「俺にァただの腐った水にしか見えねェがなァ……」
「見た目は悪いけれど、内側ではアルコール分が他の雑菌の繁殖を防いでいるから、仮にこれを飲んだとしても腹を壊すことはないはずだ」
それから二人は色んな角度から瓶を見つめて、やっぱり不安そうな表情を浮かべていた。