名誉の負傷
悠然と夜空を航行する龍はやがて飛行速度を弛め始めた。
「これはどういうことだ─────」
眼下に臨むキャンベルの中央区画は、俺とサルが出発した時よりも多くの人でごった返していた。
「チッ。自警団の連中、避難場所を中枢に移しやがったみてェだな」
本部が仮設置された中枢区画に難民を集めた方が指揮を取りやすいからだろうか。ともかく団長自ら前線へ足を運ぶ程だ、人手が足りていない事は確かだ。
高度はみるみる下がり、黒龍が地上からも視認されたことにより中枢区画は騒然とし始め、蜘蛛の子を散らしたように民衆が中心地から逃げて行こうとしている様子が窺えた。
「大将、降りるぜ。そこの軒の上だ」
俺達が飛行している数メートル先に、軒に布が張られている建物があった。ここへ飛び降りて、軒をクッションに衝撃を減らそうという試みだろう。
「い、いや、十メートルはあるぞ……」
「これからワイヤーロープを出来るだけ伸ばすから安心しろ」
何の合図をするでもなくサルは直ちに行動に移した。
「あっ、おい!まだ心の準備が……」
「ンなこと言ってる間に通り過ぎちまうぜ」
限界まで細くなったワイヤーロープが意図的にぷちんと千切れると、俺とサルは足の裏から落下した。火事場から飛び降りるような気分だった。
軒の布は加速度がついた大人二人の体重を支えきること叶わず、縁に固定されていた部分を引きちぎってたわみ、俺達を包み込むように地面へと落下。
重傷は免れないと覚悟した刹那、何かが腹に巻きついて俺の身体を吊り上げた。そして再び落下、また吊り上げられる。その繰り返しで、落下する時間はだんだん短くなっていった。
俺の胴体にはサルの彫金魔法と思われる金属製のロープが巻きついていた。
はて、と思った。このロープが俺を救ってくれたことは確かなはずだが、こんな細く食込みそうなロープ一本では、落下に伴う加重がかかった時に内臓が破裂してしまうはず。
身体にまとわりついた軒の布を払い除けて上を見上げた時、疑問は解決した。俺とサルの腹に巻きついたロープは頭上に伸びていて、軒の骨組みを支持物として俺達の身体を吊り下げている。特筆すべきはその弦にあたる部分が螺旋を描いていたことだ。
この男は咄嗟にワイヤーロープをサスペンションのように変形させ、落下のエネルギーを弾性力に昇華させてしまったのだ。さながらバンジージャンプのゴムのように。
「────お前ってもしかして天才か?」宙吊りのまま俺は相棒に賞賛を贈った。
「盗賊時代はこれくらい機転が利かねェと追手に捕まっちまう生活だったからなァ」サルは得意げな顔をした。
盗賊としてのキャリアが為せる技かと一瞬感心したりもしたが、よくよく考えるとこいつは十一回も捕まっているわけで、その点言葉に説得力は無かった。しかし、状況判断力と決断までの速さだけは超人的なものである。
身体を起こすと、逃げ惑う民衆達が波のように押し寄せ、脇を通り抜けていくところだった。その奔流を遡上し、肩と肩をぶつけながら黒龍が狙いを定めたと目される中枢区画の中心地へ急いだ。
ふと夜空を見上げると、未だ黒龍は翼を羽ばたかせたまま空中へ留まっていた。ただし先程尻尾にしがみついていた時には見えなかった部分、すなわちブラキオサウルスのように長い首のあたりに変化が生じていた。
「ありャァ……熱を蓄えてンのか?」
首元のあたりに熔鉄を彷彿とさせる赤熱の光が灯っている。
「あの頭の向きはまずい!」
路地を抜け、やっとのことでフルール商会の正面玄関を視界の真ん中にとらえた時、災いは空から降ってきた。まるで小さな太陽の如き大火球が黒龍の口から吐き出され、四階建てのフルール商会はその照準をもろに受けた。
一人称的な時間がゆっくり流れる。酷く緩慢にしか動かない脚。いや、この歩みが間に合ったところでどうなる。このままではこの世界で出会った友人を一度に二人も失ってしまう。
覚悟をするのには十分な時間だったのかもしれない。つまり、何を失っても全て巻き戻す覚悟をだ。
四階建てのフルール商会に小さな太陽が直撃する瞬間、正面玄関の脇に蒼色の淡い光が二つ灯るのを俺は見た。炸裂によって弾けた火球は目も開けていられないほど凄まじい熱波と爆風を生み出し、周囲を吹き飛ばしていく。
次に俺が双眸を開いた時、爆煙の向こうに瞳が捉えたのは、額に黄金の大輪を誇示する無傷の建屋だった。
さらに煙が散り、正面玄関の様子が顕になると、そこには重なり合う蒼翼が姿を見せる。こちらに背を向けて立ちはだかった二頭の飛龍は大火球を重なり合った翼で受け止めていた。俺が身勝手にもこのフルール商会の守護を命じた姉妹は、それに従って健気にも身を呈してこの場を護っていてくれたのだ。
「ブレア!アソール!」俺とサルは正面玄関へ駆け寄る。
それとは反対に、その場に残っていた民衆達は中枢に現れた新たな二頭の飛龍を目撃して、一人残らず散り散りにどこかへ退却して行った。
二人が正面玄関の姉妹へ駆け寄ると、妹だけが竜人の姿に戻り、その右肩は熱傷によって焼け爛れてしまっていた。翼を交差させた時、上側になったのがアソールのものだったのだろう。
「ごめん、ごめんなアソール。俺があんなことを言ったから……」
今にも倒れそうなアソールを両手で支えると、彼女は腕の中で「最後の砦……だからねっ」と痛みに歪む顔で弱々しく呟いて親指を立てた。
この姉妹は俺のいいつけの為に自分たちが竜人であると明かすことも惜しまず命を懸けてくれた。未だに世間体や打算に拘って力を出し惜しみしている自分は酷く醜い存在に思えた。報いねばならない、そう思った。
傷つけられた妹の姿を見たブレアは悲しみに暮れるように甲高い声を上げた。
《─────ブレア、聞こえるか》魔法力を込めて俺は彼女の脚に触れた。
《ショウ様、あれはなんなのです!?私達の一族にはあのように巨龍に姿を変える者は居ないはずです。私の妹を、アソールを…………許せません》憤りに満ちた思念だった。
《信じられないかもしれないけれど、あれはシーズだ。経緯は後で説明する、ブレアに頼みがあるんだ。俺達を翼で覆い隠してくれ、アソールを助けるためなんだ》と俺は求めた。
《よくわかりませんが、これでいいでしょうか?》ブレアは俺達三名を翼で包むようにして抱え込んだ。
それはほんの十秒ほどの出来事だった。
《よし、もういいぞブレア》
「あれっ?痛くない……えっ、ウソ。あたしのお肌つるつるなんだけどっ!ショウさん何したの!?」アソールは嬉しそうに自分の右肩を摩った。
「後できちんと話すよ。今はあの"悪い龍"をやっつける方が先だ。協力してくれるか?」
「なるほど。オーダー承りましたよお!てか"善い龍"としては絶対見逃せないし?」アソールはいつもの調子を取り戻したみたいだった。
《私の傷まで…………一体何を……》
「ケッ、最初は俺だけしか知らねェ秘密だったのによォ」サルは少し不満そうな顔をした。
竜人姉妹との共闘が決まった折、改めて標的を見据えると、それはすでに第二射の準備に取り掛かっているところだった。