臨死ロープ体験
キャンベルへ戻った頃に暮れそうだった陽光はすっかり地平線に姿を潜め、月と星が綺麗に見える夜になった。
真ん丸な月から放たれた光が滑らかで微細な鱗を照らし、白く照り返った境界を縁取る輪郭が、その巨大さを一層際立たせる。
それは竜人の姉妹が変身した姿よりも二回りは大きい黒々とした龍。初めて見る友好的でない飛龍、それは悪魔的脅威であり、また何故か神々しくすら思えた。
「────あまりの美しさに声も出ないかしら?」とボウモアは勝ち誇った。
否だ。俺が考えていたのは、このスケールの前では誤魔化した"腐敗剣"では些か戦力に欠けるという懸念であり、つまりいよいよ他人の目の前で時魔法を披露せざるを得ないかもしれないということだった。
このチカラは生物である以上避けられぬ『老い』を与えられる性質上、対象の巨大さに力負けしたりはしない。ただ、俺の悲願であるところの酒造りを営むためには、決して人に見られてはならないというだけだ。
「そいつはお前の意のままに動くのか?」
一度は俺達を威嚇した黒龍だったが、襲いかかるでも暴れるでもなくその場に留まっていた。
「もちろん。飼い犬に噛みつかれる飼い主なんて格好がつかないでしょう?あなた達人間と同じじゃない。家畜を飼い慣らして、さんざん可愛がったあと、最後には食べてしまう。せいぜい栄養価の高い餌になってこの子を肥え太らせてちょうだい」
「じゃあ肝心なテメーが死ンだらどうなンだァ?」
「ウフフ……どうかしらね」ボウモアは不敵に笑う。
サルの意図するところにも一理ある。しかし根本的な解決にはならないと俺は思った。さっきの糸が飼い犬と飼い主を繋ぐリードだとしたら、飼い主が死んだところで飼い犬は自由に振る舞うことができるようになるだけだ。
「可愛い子、さあこの羊達を鏖殺してしまいなさい──────と言いたいところだけれど、勝ち目のない闘いに我が子を差し向けるほどアタシの母性本能は希薄じゃないの」
不意に突風と砂埃が巻き起こる。黒龍の強靭な下半身は網目状のひび割れを作るほどに力強く大地を踏みしめた。
黒龍の巨体は翼の羽ばたきが生み出した強力な浮力によってみるみるうちに浮き上がっていく。
「せっかくこんなところまで来たんだから、なるべく多く収穫しなくちゃ割に合わないわ」黒龍の背に乗るでもなくその場に残ったボウモアは言った。
その間にも黒龍は手の届かない高さまで上昇し、真北へと飛んで行ってしまった。
「あの方向は……!!」ダリウスの恐ろしい形相は、これから起こる事象の深刻さを示唆していた。
「さあ、どうするかしら?アタシを捕らようと息を巻くのもいいけれど、有象無象がどうなっても知らないわよ。それじゃ、賢明な判断をすることね」紫紺の髪の女は手をひらひらさせて、露天商のテントを飛び越えて逃げて行った。
「ど、どう─────」すぐさまダリウス団長がみなに選択を迫ろうとした時、俺はそれをかき消すように「北だ!俺は北へ行く」と表明した。
悔しいがボウモアの二者択一の策に対して後手を踏んでしまったことは認めなくてはならない。
恐らく襲撃があったフルールモア・マーケットの南側と対角の北側に露天商や住民達は避難しているはずだ。奇しくもというか、ボウモアの意図による必然なのだろうが、あの巨大な黒龍が飛んで行った先で暴れれば未曾有の大虐殺は目に見えている、止めなくては。
以上はキャンベル自警団の連中がおっとり刀で駆けつける理由に挙げそうな、いわゆる大義名分だ。でも俺の思惑とは必ずしも重ならない。
俺は中央区画にあの愛らしい姉妹を残してきてしまっている。黒龍が何処へ降りて暴れるか分からない以上、捨てておく訳にはいかない。自分にとって彼女らはすでに掌から取りこぼしたくない存在になっていることを、この時になって俺は理解した。
「─────思い出した。ショウ、どこかで聞いたことがある名だと思ったんだ。お前、竜人の里とコットペルの間を取り持った男か!?」俺の肩を握ってダリウスは言った。
「だったらどうだって言うんだ、そういうのは後に────」
「聞けッ!!」俺の言葉を遮ってダリウスは言葉を強めた。
「なんだよ、手短に頼むぞ」
「今からその脚で走っても奴に追いつけるかは疑問だ。少し手荒くなるが俺の魔力ならお前たち二人を高速で移動させることができる。どうだ、乗るか?」
サルに目を合わせたが、奴は『勝手にしろ』とでも言うように夜空へ目線を外した。
「……やってくれ!」
「よく言ったッ!すぐにやる、二人そこへ背中合わせで立て」
ダリウスがこちらへ手をかざすと、螺旋を描いた風が足元から吹き始めた。
「チッ、そういうことかよ。厄日か今日は……」とサル。
「行くぞッ!死ぬなよォッ!!」
俺達が察した通り、足元から吹き荒れる風は爆発的に強まり、瞬く間に二人を上空へ吹き飛ばした。
やがてその放物線が頂点に達した頃、俺とサルは本日二度目の下降を始めたが、残念ながら今度は安全装置が無い。
空中でじたばたしても仕方がないと思考を諦めかけた時、俺の胴を何かが絡めとった。空中で俺を引き寄せたのはサルの彫金魔法だった。
「サルっ!!どうする!?」
「るっせえ、黙って見てろッ!」
流動するアコタイトの一部はサルの背中に空気を受ける薄い翼を作り出し、俺達はさながらグライダーのように滑空を始めた。
「はぁ…はぁ…今日ほどお前の魔法が便利だと感じた日はないよ」と俺は称賛を送った。
「安心すンのはまだ早えぞ相棒。落下が滑空に変わっただけだ、慣性は死んじャいねェ」
滑空というのは、言い換えるならば緩やかな落下だ。真っ逆さまに墜落するよりはダメージは少なくなるかもしれないが、このままだと着地する時にただでは済まないことはわかりきっている。
それにしても何が『死ぬなよ』だ。大概は死ぬだろうが、こんなもの。ダリウスの野郎に潰れたトマトみたいになった自分自身の亡骸を見せてやりたいところだ。
「いたっ!!」
悠然と北方へ進路を取る黒龍の背中を視界に捉えた。少しだけ高い所を飛んでいるが、今ならどうにか接触出来ないこともない。
「────なあ、サル」
「…………テメェ馬鹿なこと考えてンじゃねェだろうな?」
「頭ごなしはよくないぞサル、人に反論する時は代案が必要になるんだ」
「あァ!?」
「じゃあこれよりも他にいい方法があるか?」
「チッ…………テメェ絶対に死ぬンじゃねーぞ」
「なんだ、心配してくれるのか?」
「テメーが死ンだら誰が俺を治す」
「なるほどね、そりゃあ責任重大だ。というわけでサル、ここいらで滑空は終わりだ」と俺は促した。
サルは彫金魔法で拵えた翼を解体し、せっかく手に入れた一時の安全を放棄した。滑空がまた落下へと移行する刹那、黒龍の尻尾目掛けて彫金魔法で作ったワイヤーロープが蛇のように食らいついた。
「捉えたッ!」
黒龍の尻尾にはアメジストのように硬質化した宝石がへばりついていたことが幸いし、ワイヤーはそれに引っかかってどうにかふんばりが利いているみたいだった。
サルはワイヤーロープ先端の形状を操作して、アコタイトを結晶と結晶の隙間へ深く潜り込ませて完全に固定。しかしほとんどの質量を使ってしまったせいか、こちら側はロープと結合した持ち手を練成するのが精一杯だったようで、俺達は今それに掴まって宙ぶらりんになっている状態だ。
「────反撃してこねェな」
「気づいていないのか?それとも全く意に介していないのか。尻尾の先には神経が無いのかもしれない。何にしろこれで、地面と激突することはなくなったな」
念の為、遠心力が最小になるように、サルはロープの長さを短く縮めて二人はしばらくの間、巨龍の尻尾の一部として振る舞うことを決めた。