グリンパーチ植物大学
ハイランド北部の白銀世界にひっそりと佇む街インパネス。
規模としてはコットペルよりもさらに小さく、旅行や観光には無縁そうな街だった。建造物同士の間隔は広く、すべての壁は除雪した雪をべったりと押し付けられて鍾乳洞のように塗り固まっていた。
そんな余白の多い街並みの一角に、明らかに他とは違う趣の建造物群があった。
金属製の柵で囲われた広大な面積の内側に、背の高い建物が三つ。その脇には倉庫と思しき六つの平屋が立ち並んでいる。グリンパーチ植物大学、俺達がここへ来た理由はハリスが書いてくれた紹介状に記された人物が勤めているからだ。
「みてみてショウさん!ずぼぉっ!!」路肩の雪目掛けてジャンプしたアソールは腰まで雪に埋もれてけたけたと笑った。
「犬が生まれて初めて海に来たときみたいだな……」
「こらアソール、はしたない真似はやめなさい」姉の方は路肩の雪を懸命に手で丸めながら言った。
「テメーもだよ」とサルは突っ込みを入れた。
「あー!!なにこれ見て!!」溶けた雪でびしょ濡れになったアソールの下半身から濛々と湯気が立ち昇っている。
体内暖房の熱によって気化した水分が温度差によって可視化した、ということはわかっていてもあまりに見慣れない光景だった。
「はいはい、すごいすごい」子供をあやすように俺は言った。
「なあ相棒、なンであそこだけ雪がねェんだろうな」騒がしい姉妹を無視してサルは言った。
サルの指さした方向にあるのは六つの倉庫と見られる建物だった。確かに屋根の上にも壁面にも雪は見当たらない。
「よし、行ってみるか」そう言って俺は倉庫へ歩みを向けた。
「さすがに勝手に嗅ぎまわンのはまずいンじゃねェか?」
「アソール、ブレア、あの建物にだけ雪が積もっていないんだ。不思議だろ?」
「変ですね」
「ほんとだ!なんで!?」
「それをこれから見に行くんだ、一緒に来るか?」
「行く!」「行きます」
「なンであんたまで馬鹿になる必要がある……」
そんなことはわかってる。だけれど悪いなサル、集団行動はいつだって多数決なんだ。この場における常識人が前科十一犯の男だけになってしまうとしても、好奇心の獣達は止まらない。
靴の中に雪が入ってくるのもかまわず倉庫へ近づき、俺はその壁面に触れてみた。
「──────やっぱりだ、温かい」
倉庫の壁面はほんのりと人肌程度に温かかった。
「ほんとだあ。なんだろこれ」
「こらあっ!!貴様ら何者だ!!」別の倉庫の陰から姿を現した男は言った。
俺はその声に驚き、振り返ってその風貌に再び驚いた。
彼は半ズボンにタンクトップというこの場に相応しくない格好をしていて、長靴だけがかろうじてここが雪国であることを示していた。
そして驚くべきはその肉体で、熊のように大きな上背に筋骨隆々の逆三角形。頭髪は一本もなく、上腕二頭筋の太さは竜人姉妹のウエストに比肩するのではないかと言うほどだ。
『お前こそ何者だ』と言ってやりたいくらいだったが、なんとかそれは引っ込めた。
「勝手に歩き回ってすみません、クロードという人物を探していて……」
「ん?クロードは俺だが」黒々とした顎髭を触りながら彼は答えた。
「あなたがここの教授のクロード・グリンパーチさんですか?」あまりにイメージと違うので、俺は咄嗟にもう一度訊きかえした。
「そうだぞ?俺に何か用か?」
「キャンベルのハリス会長からあなたのことを紹介していただきました」俺はクロードに紹介状が入った便箋を差し出した。
「あの銭ゲバか……儲け話なら間に合ってるぞ」クロードは先回りするように言った。
「いや、そうじゃなくて、ある植物の分布について─────」
「いいぞ教えてやる。一から十まで教えてやる。ついてこい!」俺の言葉を遮ってクロードは言った。
話が早いのは嬉しいが、どうも嫌な予感がした。
そしてそれは見事的中し、俺たち四名は教室に座らされ、植物の基礎教育をこの熱血教授直々に施される運びになってしまった。
ブレアだけは教授の話を真剣に聞き入り、与えられたノートに筆記用具で講義内容を書き留めていた。
講義を中断して本題に入ろうかとも考えたが、へそを曲げられても困るといことで俺とサルはじっと耐え忍んだ。アソールに至っては開始五分で可愛らしいご尊顔で寝息を立てていた。
「よし、今日はこんなところでいいだろう。それにしてもこんな時期に入学志願とは珍しい奴らだ」とクロードは見当違いのことを言った。
「いや、違いますって!!」
「む?では何しに来た」
「ですから、ある樹木がどんな地域に自生しているかを教えていただきに来ただけなんです」と俺は説明した。
「ん?そうなのか?なんの木だ!言ってみろ!」
「名前は分からないんですが、見た目なら」
「よしわかった、今図鑑を持ってきてやる!それは針葉樹か?それとも広葉樹か?」
「多分、広葉樹です」と俺は答えた。熱血授業が一応にも功を奏した瞬間だった。
本当のところその樹木の名前は分かっている。俺が元々生きていた世界で言うところの"ナラの木"だ。ウイスキー業界ではこれを"オーク"と呼んでいた。ただしこの世界での名前が分からない以上こうする他ない。
それからクロード教授は血管が浮き上がってエッジの立った腕で十数冊の本を抱えて戻ってきた。
「ようし、探すぞ!」クロードは力強く言った。
それから図鑑に描かれた葉の形を見て正否を判断して、目的の樹木を探した。途方もない作業に思われたが、それはあっさりと見つかった。
「────これだ!」俺は図鑑のページに記載された葉の絵を指さした。
そのページに描かれた葉は、両端が波打つように広がっていて、先端各部は丸みを帯びていた。
「これはファニスだな。家具によく使われているぞ」とクロード。
その点も同じだった。地球におけるナラの木も同じように家具材として使用されることがある。
「この樹木はどこに?」
「いや待て、まだ断定するには早い。こいつは特徴的な実をつけるが、見たことがあるか?」とクロードは図鑑の端を指さした。
そこにはとても馴染みのある形の実が描かれていた。
「ある!間違いない、この木だ!」俺は嬉しくなって声を荒らげた。
その理由はクロードの人差し指の先にある絵がまさしく『どんぐり』だったからだ。
「む。ならば間違い無さそうだな。残念だがファニスの木はここいらにはないぞ。比較的暖かい場所に自生する樹木でな」
クロードは一緒に持ってきた地図を引っ張り出して、何やら丸を描き加え始めた。
「南の方ならだいたいどこにでも自生しているが、産地として有名なのはこことここ、それとここと、それからこのあたりだな」
地図を見て俺は目を丸くした。地図にマーキングされた地域は全部で四つありそれが全てローランド地方だったばかりでなく、俺が知っている場所にも丸が付けられていたからだ。
それはコットペルから南西の地点、アイラの村周辺だったのだ。
「──────あっ!!!」その時俺の脳裏に薄暗い森が蘇った。
タリスという青年が立小便をしていた森。彼と共に祭事であるグレンの篝火に焚べる枝を拾った森。そして、俺自身がこの世界に生を受けた森。
当時は邪魔くさいとしか思わなかったが、そこには枯れ枝と落葉に混じって無数の『どんぐり』が落ちていたはずなのだ。
「ぷっ……!ははははは!」俺は自虐的に笑った、笑うしかなかった。
「ショウ様?」
「なンだよいきなり気持ちわりィな」
これが笑わずに居られるか。遥々こんなところへまで来て、探し物はご近所にあったなどということが解っては。俺は既に判断材料を持っていたんだ、灯台下暗しとはまさにこのこと。
「クロードさん、ありがとうございます。この地図は頂いてもいいですか?」
「おう、持ってけ!」教授は嬉しそうににっこり笑った。
植物に興味を持ってくれたことが嬉しいとでも言いたげな笑顔だった。
「あ!ねえ、クロードさん。結局あの生暖かい建物ってなんなの?」アソールは忘れかけていた疑問を持ち出した。
「ありゃ野菜を育ててんだ。発光温室栽培っつってな、発光石で作った部屋を遮光版で覆ってある。内側じゃお日様さんさんのぽっかぽかよ」
俺が倉庫と思っていたものはどうやらハウス栽培のようなものだったらしい。
「何故わざわざこんな寒い土地で栽培を?」疑問をそのまま俺は投げかけた。
「温室を保つのは発芽から数週間までだ、そっからは外の空気を入れて過酷な環境で育てんのさ。そうすると一部の野菜は栄養と一緒に微量の魔力を蓄えるようになる。それが結構美味いんだぞ。フルール商会とはこいつの出荷で取引がある」とクロード教授は説明した。
それは確かにこの土地ならではの栽培方法だ。日本で言うところの雪中に保存したキャベツが甘みを蓄える雪野菜のようなものだろうか。
「今日一日でとても賢くなった気がします、クロード様ありがとうございます」ブレアは畏まって頭を下げた。
「なあに俺も楽しんだからおあいこよッ!また分からねえ事があったら何時でも聞きに来い」
こうして俺は後にファニス・オークと名付けることになる木材の所在を確かめることに成功したのだった。