兄弟分
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定期会合から十数日が過ぎた頃、里の西側に建設予定だった落石避けの防壁も完成し、コットペルから出張していた職人達の仕事も一段落ついた。
木で組まれた二メートルほどの防壁のすぐそば、土砂によって押し流された家屋達の再建築も終わって、住処を追われていた住民にも日常が戻ってきていた。
今日はカリラと共に、修復された一群の内の一軒を訪ねていた。
「─────小僧、見ろ。これが"リュウゼン破精"だ」シマキは言った。
サウナのように蒸し暑い蔵の中、木製の洋服箪笥に似たものの引き出しが開かれると、薄く敷き詰められたリュウゼンの実に綿毛のような菌糸がびっしりと生えていた。
「破精というのは?」と俺は訊ねた。
「破精ってのはな、こんなふうに蒸したリュウゼンの実にカビがもさもさっと生えてきた状態のことをいう」と蔵の主は説明した。
「ほう、これが酒になるというのか。腹を壊さぬのか?」とカリラは心配そうな面持ちで質問した。
「カビっつうのは身体に悪いイメージがあるけどな、害があるのはカビが作った毒素の方よ。こいつは毒を作らねえから安全なんだよ、ねえちゃん」とシマキは言った。
「俺の故郷にも似たような製法の酒があって、それにもカビが使われていました。けれど、どういう理由かまでは見当もつかない。シマキさん、どうしてこの工程が必要になるのか教えてくれますか?」気が短い造主の逆鱗に触れぬよう、言葉を選んで俺は訊ねた。
「そこんとこ俺もよくわからねえんだがよ、もうちっとこっちに来て匂いを嗅いでみろ」とシマキ。
促されるままに引き出しへ近づき、身をかがめた。
「─────砂糖みたいな甘い香り…………あと、酸っぱいような匂いもする」
「その酸っぱい感じがしねえと酒が上手くできねえのよ。腐って駄目になっちまう」
「酸味か……」
この時、俺の脳裏に日本人なら誰しもが食べたことがある発酵食品が頭をよぎった。
────それは糠漬けである。
糠漬けは冷蔵庫など存在しない時代から行われてきた、乳酸菌の働きを利用して野菜を腐らせずに食べることが出来る調理法。これは糠に加えた塩分と、乳酸菌が作り出す酸のおかげでその他の雑菌が繁殖しにくくなり、乳酸菌のみが生き残れる土壌となって"腐敗"ではなく"発酵"が行われるからだ。
おそらく、それと同じようにリュウゼンに散布された"特別なカビ"は周囲を酸性に保つことにより腐敗を防いでいるのだ。
「これはこの後どうなるんですか?」
「おう、仕込み水へ漬けて何日か熟成させる。隣の蔵に何日か前に仕込んだやつがあるから着いてきな」とシマキはカビ蔵を出ていった。
この後も龍酒造り講座は続いた。この間とはうってかわって協力的なシマキの態度には理由があった。
アラドから聞いたのだが、リュウゼンの実は発光石などと同じように微量の魔法力を帯びる自然物なのだそうだ。それによって極小量で大量のカビを育むことが出来るらしい。
あにはからんや、俺が半年分には全く満たないだろうと見積もったリュウゼンは十分にそれを満たすだけの量があったというのだ。
とどのつまり、龍酒造に大きな実利をもたらしたという非常に利己的な評価の上書きによって彼は心変わりをしたらしかった。
別段俺はこの扱いの変化を陳腐なものだとは思わない。もともと植え付けられた印象や固定概念など、自分のために時間を使ってくれる存在の前では煙のように頼りないものだとわかっているからだ。
「さっき熟成させた液体を、蒸した"ツルイモ"と一緒にこの釜へ突っ込んで二度目の熟成をするわけだ」とシマキは説明した。
「もしかしてその芋は─────」
「おう、アラドんとこのチビと蒸留塔を見に行ったそうだな。その道中にいくらでも生えてるやつだ」
里を探検していた時に『根っこが食べられる』とアルムが教えてくれた、樹木に巻きついた無数の"つる"を持つ植物を思い出した。
「ほほう、やはりりゅうとつるは切っても切れぬ関係じゃのう」とカリラは親父ギャグならぬ、おばばギャグをぶちかました。
「いや、カリラさん、その"つる"じゃあ……」
「ワハハハハ!うめえこと言うな、ねえちゃん!ま、俺もいつまでも頑固じゃいけねえかもしれねえな」とシマキは竜頭蛇尾に言った。
「あ、あの、このツルイモが独特の風味を?」話が重苦しくなりそうな雰囲気に耐えられず、俺は話の筋を元へ戻した。
「おうよ。こいつを北の蒸留塔へ持って行って、蒸留することで龍酒は完成する」
「やっぱり。北の高台にある蒸留塔を見て気になっていたことがあるんですが、天井の冷却釜は水を溜めて使うんですよね?」
「おう、そうだぜ。なんだ小僧、おめぇ結構理解がいいじゃねえか」
「ははは……あれよりもずっと小さいんですが、故国に同じような蒸留機がありましたから。でも温まってしまった冷却水の交換はどうやって?」
「このあたりは山脈の影響で定期的に大雨が降る。蒸留はその時にだけやるんだよ」
「まさか雨水で冷却を!?」
「ああ、そうだ。龍涎浜から吹き付ける湿った暖かい空気が雲を作り、山脈の尾根にせき止められてこのあたりで雨になるのさ」
シマキの言葉を聞いて、俺は胸が熱くなるのを感じた。
気候、収穫できる作物、土地の文化、そこへ住む人々の作り出した風土、酒はそういった複合的な要素を全部一纏めにして舌で味わえるように抽出したものだと俺は思っている。
そして、これは俺が支持するところのウイスキー達にも言える。
海を臨む蒸留所で熟成されたウイスキーからは塩味が感じられたり、島で採れる特殊な炭を利用して原材料を蒸し上げることによって独特の風味を持つもの、コーンベルトと呼ばれるトウモロコシの栽培が盛んな地域のウイスキーは糖類が入っていないのに甘ったるく舌を包み込んでバニラのように芳醇な香りを余韻に残す。
「─────す、素晴らしい……!」俺の身体は感動にうち震えていた。
「な、なんでい気持ちわりいやつだな……そんなに酒の事が好きならエルギン家に弟子入りでもすりゃいいじゃねえか」
「エルギン家?」
はて、どこかで聞いたことがある気がする。
「小僧、エルギン家はコットペルの麦酒を製造してる元締めじゃぞ」とカリラは反応した。
「麦酒…………あっ!思い出した!!あの時、定期会合の時に麦酒を差し入れてくれた男がそんな名前だった!」
「今の造主の名前は知らねえが、厳密に言うとうちもエルギン家の酒造業の遠縁にあたるんでい。もう死んじまったが、まだ人間と竜人が棲み分けされてない頃に、うちの爺様が当代の造主のところで働いていてな」とシマキは語った。
「それじゃあ、龍酒のルーツはコットペルの麦酒造りにあったってことですか!?」と俺は興奮気味に訊ねた。
「ま、そういうことだ」
─────龍酒と麦酒は兄弟分だった。
ベンネ・ヴィルスに降り注ぐ雨水は蒸しあがった酒を雫に変え、この大地に染み入り、やがては清流となってコットペルへ注いで麦と酒を育んでいるというのだ。
こんなにロマンチックなことがあるだろうか、と不覚にも俺は思ってしまった。
思えばこの時だったのかもしれない。俺がこの土地でウイスキーを造るのだと断定したのは。