デビルズ・ウィスパー
扉をノックすると、内側から小さく返事があった。
「ばあさん、入るぞ」俺は鍵がかかっていない扉を開ける。
お世辞にも広いとは言えない部屋だったが、すぐ脇にある台所には調味料や香辛料の類いが整頓されて並んでいたし、食器棚にはデザインが統一された食器たちがクレアの性格を示すように綺麗に陳列されていた。
「ショウか?こっちじゃ」声は引き戸の奥からだった。
声の導きに従い、引き戸を開けると彼女はそこに居た。木製のベッドの上、脚を怪我して自力で歩行が出来なくなってしまってから二日と経っていなかったはずなのに酷く痩せたような印象を受けた。
「ばあさん……今までが元気過ぎたんだ」俺はクレアが横たわるベッドへ近づいた。
「儂もいよいよかもしれんの」何度か混浴風呂で話した彼女とは別人かのような口ぶりだった。
聞き上手で、エネルギッシュで、お喋りなクレアはもう何処にもいなくなってしまうかもしれないことがただただ悲しかった。
「そんなこと、言うなって」
口ではこう言ったが、俺は思い出していた。自分自身の祖母のことを。
祖母が無くなったのは、俺が十九の頃だった。田舎に住んでいた祖母は農地を持っていて、日頃野菜を育てる農作業に勤しむ元気な老人だった。
しかし、それも永遠に続くことじゃない。ある時、腰を患った彼女はクレアと同じく寝たきりになってしまった。
それからはもう早かった。社交的で元気な老人が部屋に閉じ込められると、外部からの刺激が殆ど無くなってしまい、すぐに脳は年齢に追いついていく。驚くほど早く痴呆が始まってしまうのだ。そうして祖母はやがて俺を忘れたまま死んでしまった。
「食事は、どうしてるんだ」
奥歯になにか挟まったみたいにたどたどしくしか言葉が出てこず、いつもの小気味よいラリーは期待できなかった。
「今はご近所さんになんとかお願いしているよ、心苦しいがねぇ」とクレア。
それから自警団訓練生としての初任務のことを話すと、クレアは少しだけ笑ってくれた。
「そうかい、人間と竜人が手を取り合う姿を儂も見てみたかった……お前さんには不思議な魅力がある、きっと上手くいくじゃろう」とクレアは笑った。
しばしの静寂を越えて、俺は口を開いた。
「────なあ、ばあさん。もし悪魔と契約したら今すぐ若返れるとしたらどうする?」
自分でもどうしてこんなことを口走ってしまったのかわからなかった。いや、違うな。わかりたくなかったんだ。
それは紛れもなく"悪魔の囁き"であり、俺は悪魔なのかもしれない。
「ヘンなこと言う子だねえ、そんなの契約するに決まっとるわい。相手が悪魔じゃろうが化け物じゃろうがの」とクレアは一笑に付した。
「もし…………俺がその悪魔だとしたら?時を戻す魔法を使えるとしたら?」もう止まらなかった。
「時を、戻すじゃと…………?やれるものなら、やってみい」真面目くさった俺の態度に彼女もまた呼応した。
もともとクレア宅へ自分が足を運んだ理由はこんなことではなく、さりげなく彼女の脚に巻き戻しの魔法を施し、怪我を無かったことにするためだったはずなのに。
クレアの身体へ向けて掌をかざし『リワインド』と唱えた。
すると、クレアの骨と皮だけの身体は熟した果実のように内側から肌を押し返す弾力を取り戻し、皺はひとつ残らずなくなっていった。
何十年か前に重力に敗北を喫したはずの乳房と臀部はみるみるうちに丸みを取り戻し、真っ白に染まった頭髪は美しい紫紺の絹糸のように変わった。
「う、嘘……っ」正面にある化粧机の鏡に映る姿を見て、クレアは声を上げた。
その声は先程までの嗄れたものではなく、瑞々しく若い女性の声だった。
「クレア、俺が怖いか?」
怖がっているのは俺の方だった。
「時魔法、まさか実在していたとはのう。儂が今怖いことと言えば、この姿が明日、目を覚ましたら元に戻っていることだけじゃよ」溌剌とした表情だった。
「俺が大災害を引き起こした張本人だとは疑わないのか?」
巻き戻しによって自分の年齢を自由に操ることが出来る以上、時魔法が使えることが露見した場合、当然降り掛かってくる疑いを俺は指摘した。
「今の儂にはそんなことを気にしている余裕はないのう。これからどんな名で生きようか考えているところじゃ」長い睫毛に囲まれた大きな瞳がこちらを見ていた。
クレアは以前、高齢で子息も居ないこともあり自分は天涯孤独の身だと言っていた。外見が若返った以上、誰も自分を認知する存在は居ないと考えたのかもしれない。
「クレア、すまない。これは完全に俺の利己的な行いだ。俺は貴方が弱って死んでいくのを見たくない。だから、こんな……」気がつくと俺は涙を流していた。
「何を泣いておる、今日は誕生日じゃぞ。儂は生まれ変わったんじゃ。じゃから、名付けてくれんかの?」とクレアはベッドから悠々と立ち上がって言った。
「………………カリラ、というのはどうだろう」以前の名と響きが似た名前を俺は涙声で提案した。
「ふむ。思ったよりも悪くない名前じゃのう、気に入ったぞ。儂はこれから"カリラ"じゃ!」嬉しそうにカリラは言った。
人間の生き死に関連した時を巻き戻すのはこれで二度目だ。一度目は不当に奪われた生命を救うためだった。でも今度は違う。自分のエゴイズムで、亡くなって欲しくない他人の時の流れに手を出した。その事は俺の倫理観に大きな楔を打ち付けた気がした。
「カリラ、また一緒に湯に浸かってくれるのか?」
「莫迦者、こんな玉のような身体で混浴になぞ入れるか」とカリラは豊かな胸に右手を置き、意地悪そうに言った。
─────クソッ、なんでそうなるんだ。