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ピーテッド・ホリデー

 

 アソールの炎を受けて泥炭(ピート)が燃焼を始めると、辺りにもくもくと白煙が立ち込めた。


「けほっ、けほっ、何これっ!変な匂い!ショウさん、これなんか失敗してない!?」


「ぷっ……いいや、今の所うまくいっているぞ」白煙を全身に浴びるアソールの姿を見て俺は吹き出した。


「えーっ!?こんな匂いがウイスキーについちゃったら絶対美味しくないよぉっ!ていうか、近くでこれを燃やしてるあたしも臭くなるんだけど!」アソールは咳き込みながら訴えた。


「ふむ、確かにそうだ。盲点だったな。次回はもっと工夫すべき点だな」笑いを堪えながら俺は言った。


「次回ぃ!?じゃあ今回はあたしもこのまま一緒に燻製になれってコト~~~!?」


「心配するなアソール、終わったら巻き戻して消臭してやるから」


「けほっ……絶対だよ~~~っ!?」


「薬品みてェな匂いだな。嫌いじャねェが」


「私はちょっと苦手です……」とブレア。


「これがまた癖になるんだよ」


 大麦麦芽の焙燥に泥炭(ピート)を使用するウイスキーは、割合で言えばかなり少ない。理由としては、泥炭(ピート)が採掘できる土地でなければ、焙燥の燃料として使うという発想と文化が根付くことがないからであろう。


 泥炭(ピート)は気温が低く、湿った土地でなければ精製されない。身近なところで言えば日本の北海道がこれにあたる。今ではちっとも身近ではなくなってしまったが。


 地球では、ウイスキーが内包する泥炭(ピート)の薫香を『スモーキー』と表現することがあり、その中でも特に良い香りとされるものに『ピーティー』という表現がある。


 泥炭(ピート)の強く癖のある香りが、ある時は人を遠ざけ、ある時は人を惹きつけてやまない。とある蒸留所では“You either love it or hate it”つまり『好きになるか、さもなくば嫌いになるか』というキャッチコピーを打ち出しているほどである。


 見分け方として、“ピーテッド”の記載がボトルにあるものは大概この泥炭(ピート)の燻製を効かせたウイスキーである証。有り体に言ってしまえば、好き嫌いの分かれるウイスキーということを示している。






「──────ショウさん」歩み寄って来たアソールは煤だらけの顔で恨めしそうにこちらを見た。


「お、終わったか、アソール。酷い顔だな……はは」


「……ねえ、あたし臭い?」


「くせェ」間髪入れずにサルは言った。


「うう……お前も燻製にしてやろうかっ」アソールはサルに詰め寄った。


 蝋人形なら聞いたことがあるが、燻製とはまた新しい趣向である。


「ちッ、寄るな、臭いと馬鹿が移る」サルは露骨に嫌そうな表情(かお)をした。


「なっ、なんだとぉーーーっ!?」両手を広げてアソールはサルに掴みかかっていった。


 地面で転げ回っている二人を尻目に、燻製機の方へ目をやると、穴ぐらの中の泥炭(ピート)は完全に燃え滓になっているのがわかった。


 サルに樽材を取り出してもらおうと思い振り返ると、ブレアが期待の眼差しで両手を広げていた。


「いやいや、やらないやらない」


「そうですか……残念……」


 ブレアは品行方正な振る舞いの中に突然、無邪気さが垣間見せる時があるから対応に困る。


 それからサルの手を借りて、樽材を燻製機から取り出したのだが、俺が想定していたものとは仕上がりが違っていた。


「ねえ、なんかネッチョリしてない?」煤だらけの女は言った。


「熱で水分が飛んで、完全に乾燥するかと思っていたが、少し湿っているな……」俺は樽材を指でなぞった。


 指同士を合わせると、付着したそれはヌルヌルと滑り、指は薄茶色に着色されていた。


「これは揮発していない有機物……というより、油分に近いかもしれない。これじゃあ駄目だ」


 元々の想定では蒸留後の原酒(ニューポット)にこの泥炭香木を浸漬させて香りを移す予定だったが、それをしてしまうと、香りだけでなく表面に現れている滑りが直接ウイスキーに溶けだしてしまい、最悪の場合にはラーメンのように油が浮いたウイスキーになることすら懸念された。


「えーっ!じゃあもしかしてあたし燻され損?」


「まだわからない。とりあえず風通しのいいところで天日干しにして、完全に粗熱と表面の水分を飛ばしてみよう」



 その後、時魔法によってに瞬時に泥炭香木の天日干しを行い、ポットスチルで蒸留した原酒(ニューポット)に加えて五年分の熟成を行なった。しかしその結果は失敗に終わる─────


「舌の上に残る麦芽由来の甘み、強い泥炭(ピート)の香りは確かにある…………あるが、雑味が強すぎる」


 “ピーティー”を良い薫香とするならば、それの正反対にあたる悪い薫香を“ハーシュ”という。今俺の手元にあるウイスキーには、そのハーシュを何倍も強くしたような香りがあった。音楽に喩えるなら、クリアな楽器や歌声の音色に邪魔くさいノイズが混じっているようなものだ。飲めないことは無いが、こういった雑味は全体の印象をぼやけさせてしまう。


「何か沈殿物もありますね」ブレアはグラスに注がれたウイスキーを覗き込んだ。


「なんか汚い……臭いし……」鼻をつまみながらアソールは言った。


「やり直しか?」面倒そうにサルはこちらを見た。


 無念を胸に俺は小さく頷いた。


 それから材料の時を巻き戻し、泥炭香木の表面を削り落としたり、洗浄するなどして、何度も条件を変えて熟成を行なったが思うような仕上がりにはならなかった。



「また沈殿物が……やはりこのやり方では駄目なんでしょうか?」ブレアは心配そうにこちらを覗き込んだ。


「─────こうなったら、工程をひとつ増やすしかない」


 ここまでの試作では、蒸留後の原酒(ニューポット)と泥炭香木を一緒に樽へ入れて熟成工程を行っていたが、それでは不純物を取り除くことは出来なかった。


 それならば蒸留前、つまり麦汁を糖化させる段階から泥炭香木を投入するしかない。この方法なら蒸留によって有機分を取り除くことが出来るため、香りだけを抽出することが可能かもしれないと思ったからだ。


「やれやれ、もう日が暮れちまッたな」サルはウンザリした様子で言った。


「何を言ってんだ、今日一日分の試作が何年分の研究に値すると思ってる。ともあれ、今度は─────」出来上がった琥珀色に俺は鼻先を近付けた。


「うん、香りはしっかり残ってる。沈殿物もない」


 グラスに注がれたサンプルを俺は静かに口の中へ招き入れた。


 まずはするどい薬品のような香りを鼻腔が受容し、続いて蜂蜜のような甘い香りと共に、香ばしい煙のような香りが入り交じって鼻を抜けた。麦芽由来の甘みが舌の真ん中にもったりとまとわりついてくる。嚥下したウイスキーから立ち上る香りは喉を駆け上がり、長い余韻となって口内に残っていた。


「─────ははっ、これこれ」



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