路地裏のディナー
「乾杯」俺はグラスを少しだけ上に持ち上げた。
グラスを合わせたいところだが、薄造りのグラスに衝撃は禁物だ。
「─────美味しい……こんなもの、私達が飲んでも良いのでしょうか」ブレアはグラスに残った紅をナプキンで拭き取ってから、囁いた。
「いいんだよ、どうせ貴族連中のエゴでしかないからな」
この店には間違いなくドレスコードがある。葡萄酒がメニューにあることを鑑みると、その条件は貴族階級であることではないのかと俺は思っている。しかし、店側もそれを直接客に訊ねるような無粋な振る舞いはしない。来店した時の服装や所作を見て、瞬時に判断しているのだ。
第一通りを歩く時、いつもこの店の事が気になっていたのである。だが、はっきり言ってこの店には俺一人では入店出来なかっただろう。ところが今日は違う。身分を口にするまでもないほどに説得力を帯びた、気品溢れる女性が傍らに居るからである。
情けない話、この状態であれば、俺がみすぼらしい身分の男だったとしても、ブレアが格の部分を補完してくれるはずだ。
ブレアによると、どうやらサルとアソールはここへ入店する直前まで尾行を続けていたらしかったが、仮にここへ入ってこようとしても門前払いを食うだけだろう。
しかし、本当に俺たちがバー・オニキスへ入るだけの格がない人物かと言うとそうでは無い。何故なら貴族階級よりも格式として高い“騎士階級”を勅命によって与えられているからである。身なりや常識の方は全く身分についていけていないのだが。
それから俺とブレアは夕食がてらバー・オニキスで食事をしながら葡萄酒と麦酒を愉しんだ。
意外にもメニューにペルズブラッドがあったので、マスターに取引があるのかと訊ねると、直接の取引ではないがローランドを代表する麦酒としてラインナップに加えているとのことだった。
ブレアと二人で、久しぶりに喉を鳴らしてペルズブラッドを流し込むと、ここまでの道程が心の内に蘇るようだ。それから小一時間酒を飲んで、手配してある馬車が来る時刻が近づいたため、二人は店を出て歩いて発着所へ向かった。
店を出た時、ブレアにまだアソール達は近くに潜んでいるか訊ねたところ、彼女は首を横に振った。流石に観念してこの場を去ったのだろう。
発着所へ向かう途中、飲みすぎたのか、不意にブレアは前のめりによろけてしまい、俺は咄嗟に彼女の腰へ手を回して体重を支えた。
「……ごめんなさい」
「少し飲みすぎたか?」
「は、はい、そこの路地で少し休んでもいいでしょうか?」
「構わないよ。発着所は目と鼻の先だし、時間も余裕がある。ゆっくり向かえばいいさ」そう言って俺は彼女の手を引いて路地裏へ入り、壁に彼女をもたれさせた。
「──────もう、我慢できません」ブレアはぽつりと言った。
「うお……っ!?」
ブレアは俺の腕を掴んで引き寄せ、両腕を首に回してきた。耳元で鳴る彼女の呼吸は荒い。身体は熱く、湿ぼったい肌が首筋にひたと張り付いた。髪から発せられる柑橘系のヘアオイルが鼻をくすぐる。俺の心臓は頼んでもいないのに過剰労働を始め、背中と額から汗が吹き出すのがわかった。
コットペルでの宴会で酔っ払った彼女の様子を見るに、酒が入るとパーソナルスペースが狭くなるタイプなのはわかっていたが、ここまで大胆なことをするとは思わなかった。
やれやれ。俺もたった今我慢できなくなったぞ。
彼女を抱きしめ返そうとした瞬間だった─────腰へ回そうとしていた腕はぶらんと力無く体側へ垂れ下がった。なぜなら激しい虚脱と疲労感に襲われたからだ。
原因はすぐに思い当たった。その感覚は、最近覚えたての魔法を使ったあとに感じたものと酷似していたからだ。
「ぶっ、ブレア、ストップ!ストップ!」掠れた声で俺は訴えた。
「あっ……」しまったとでも言いたげに、ブレアはパッと俺の身体から離れた。
「もしかして、腹が減っていたのか?」
失念していた、彼女は王都へ来てから一度も食事にありついていないことを。ブレアが生き続けるためには魔法力の吸引が不可欠なことを。つまるところさっきのは、彼女にとって食事であったのだ。
「ごめんなさいっ!我慢していたのですが、限界が近くなってしまって……ショウ様を襲うなんて私、物の怪と変わりませんね……」そう言って彼女は目に涙を溜め始めた。
「ブレア、物の怪は涙なんか流さない。大丈夫だ、その感性を持ってる君は誰よりも人間だよ。ただ身体の作りが少し違うだけだ。言ってくれれば何時でも俺は君の食事に付き合ってあげられる用意があるんだ」
「ショウ様………」ブレアの瞳から雫がこぼれ落ちた。
「ただ、あまり一度に吸いすぎないでくれよ、死んでしまうからさ」と俺は笑って見せた。
俺は自分自身の身体に巻き戻しを履行、みるみるうちに魔法力が回復していく。
「さあ、もっと食べるかい?」両腕を広げ、俺は彼女を迎え入れる準備をした。
ブレアは俺の胸に頭を預け、今度はこちらもしっかり彼女の身体を抱擁した。
どうにも俺はとっくに捻じ曲がってしまっているかもしれないと思った。
彼女にとってこれはただの食事であるのか─────恐らくは否である。これまでブレアが魔法力を吸引する場面を何度か見た経験がある俺にはそれが分かる。
極僅かな時間だけ対象者に触れることが出来れば、瞬時に魔法力を吸い切ることが出来るはずなのだ。つまり、彼女が今俺の懐に身を置いている理由は、単に食事だけのためでは無いことは朴念仁の俺にも明白だ。
俺自身が捻じ曲がっしまっていると感じたのは、彼女にとって愛情表現であり食事でもあるこの所作、それを同時に受容できる存在で居られることが俺には堪らなく嬉しかったからだ。
「─────なあブレア、魔法力には色があるんだろ?なら、味もあるのか?」
「いいえ、そういったものはないですが……」懐でブレアは答えた。
「そうか、良かった。そんなものがもしあったとしたら味に自信はないし、別の誰かの方が俺より美味しい魔法力だったら困ると思ったんだが、それなら安心だ」
「ふふふっ……もう私はこれ以外は口にいたしません。だって、ハチミツみたいに甘いんですから」そう言って、ブレアは人並みに平たくなった額を俺の胸板に捩じ込んだ。