隣を歩む資格
彼女が隣に腰掛けるまで、俺は何も言わなかった。正確には、その美しさに見蕩れて言葉が出なかっただけだが。
ブレアは紺色で光沢のあるビロードのローブを着用していて、それは司祭が用いるようなスタンドカラーのローブだった。ウエスト部分には帯があしらわれ、それが締められることによって表出したくびれが、女性的なボディラインを鮮明に浮かび上がらせていた。
「─────私、待っている時間が好きなんです」と彼女は唐突に言った。
「それでこんなに早く来たのか?」
「はい。でも、私を待っている人を見つけた時の気分も悪くないと思いました。ふふっ」ブレアは悪戯に笑った。
「はは、じゃあ二人で待つか」
「はい」
午前七時六分─────すでに俺は様々な感情の奔流の中にあった。
ブレアが隣に座っていてくれることの嬉しさ。我々のところへ戻ってきてくれた実感。これから彼女はどうして生活をしていくのかという漠然とした不安。それに今日一日きちんと彼女をエスコートしなくてはならないのだという緊張が重なった。
「どうでしょう、このローブ」
「すごく似合ってるよ、ブレアの印象にぴったりだと思う。肌もうまい具合に隠れているし」
寒色系の服装はブレアの髪色と落ち着いた印象によくマッチしていると思った。彼女の所作も相まって高貴さすら感じる。それはそれは隣に座っている俺が、全く釣り合いのとれない男であることを疑えぬほどに。
「ありがとうございます。実はこれ、昨晩キャメロン様が下さったものなんです」
「キャメロンが?」俺は首を傾げた。
「ええ。なんでもシャーロット様がお若い頃、夜会の時に好んで着ていたものらしいです。昨日キャメロン様がご実家に戻られて、私達のことを話したら、クローゼットの奥から引っ張り出して下さったそうなんです」
「ははっ、粋なお下がりだな。でもさすがシャーロットさんだ、手入れが行き届いていて、何十年も時を経たようには全く見えない。本当は娘に着せるつもりで取っておいたのかもしれないけれど、キャメロンには大きすぎたってところか」
「譲っていただく時にキャメロン様本人もそうおっしゃっていましたよ」ブレアは柔らかく微笑んだ。
「キャメロン…………本当に世話になりすぎている。彼女にも、彼女の母親にもな」
「ええ、本当に」
ブレアとしばらく四方山話に花を咲かせていると、予定していた時間より少し早く手配していた馬車が発着所へ現れた。
都心へ向かうまでの道行き、馬車の中で朝食の話題になった。二人とも起きてから何も口にしていないので、どこかで軽く朝食をとろうという運びになった。
ここまでは予定通りだ。王都を殆ど歩いたことがない俺でも、テラス席のある小洒落たカフェテリアが第一通りにあることだけは知っている。というか殆どこの通りしか俺は歩いたことがない。第一通りの発着所へ着くと、俺たちはそのまま歩いてカフェテリアへ直行した。
ブレアは立ち並ぶ背の高い建造物や立派な店舗が目に入ると、しきりに「あれはなんですか?」と俺に質問した。情けないことに俺はひとつも答えられなかったが「覚えなくてはならないことが多いですね」とブレアは苦笑していた。
やがてカフェテリアには着いたのだが、テラス席はおろか店内の席も客で埋まっていて、どこにも俺たちがゆっくり出来そうな場所はなかった。
「あー、参ったな。まさか朝からこんなに繁盛してるとは思わなかった」
このあたりに交際経験のない俺の浅さが滲み出る。
「ショウ様、私あれが食べたいです」
ブレアが指差したのはカフェテリアの二つ隣に軒を連ねる店舗で、飲食店ではなかった。食品を販売する店舗ではあるものの、席がなく、日本で見かける店に喩えるなら、たこ焼き屋やたい焼き屋のようなスタイルだった。
「爆弾卵か」
爆弾卵とは王都発祥の名物料理で、ゆで卵を羊の挽肉で包み、それに衣をつけて揚げたもので、大抵は一口大にする為に半分にカットされている。
「もしかして食べたことあるんですか?」
「いいや、ない。前から美味そうだとは思ってたんだよ。でも、ここだと座ってゆっくり食べられないけどいいのか?」
「ええ。コットペルにもああいったカフェテリアはありましたけど、サル様に連れてって頂いた、立ったまま食べる屋台の方が私好みでした」
「親善大使として赴任してた頃の話か。一体なんの屋台に連れてかれたんだ?」
「確か蛇の……いいえ、蜥蜴だったかもしれません。アソールは大騒ぎしていましたが、私は結構楽しめました」ブレアはにっこりと笑った。
「そ、そうか」
サルのやつ、この姉妹がコットペルにとってお客様だった時分になんて賭けの要素が強いことを。というか、竜人に蜥蜴を食わせるな。嫌味に受け取られたらどうするのだ。
「この六個入りのやつをくれ」カウンター越しに店主へ言った。
店主は景気よく返事をすると、高温の油の中に種を落とした。心地よい発泡音と油の匂いが大気に放たれる。
「おまちどう!」
しばらくして店主が差し出した紙箱にはまるで地球の断面図みたいに両断された爆弾卵が六つ入っていた。マントルの部分の黄身の色は半透明なオレンジにとどまっており、実に美味そうだ。
「ほら」俺はブレアにそれを差し出した。
彼女は備え付けの竹串で揚げたての爆弾卵をひとつ口に運ぶ。
「んっ!」ブレアは咀嚼しながら唸りを上げた。
俺もひとつ口に運んでみる。まずは衣の香ばしい香りが鼻を突く。噛み潰すとごろごろした挽肉の舌触りと動物性油脂の旨味が舌に広がり、ねっとりコクのある卵黄が舌へまとわりついてくる。しっかり卵にも下味がついていて、いい塩加減だ。
「美味い」「美味しいですね、これ」ブレアと俺は互いに顔を見合った。
「これはつまみにぴったりだな。朝食べるには少し重いかもしれないが……」
「半分ずつですから大丈夫ですよ」にこっと彼女は笑って見せた。
それから俺たちは店先で朝飯代わりの爆弾卵を三つずつぺろりと平らげ、彼女の小さな歩幅に俺も合わせ、通りをまた歩き始めた。その頃には、緊張のるつぼにあった俺の精神は徐々に平静を取り戻しつつあった。
緊張も解れ、視界が開けたことによってひとつわかったことがある。それはすれ違う人々の様子が少し変なのだ。最初は俺のワイシャツの袖の内を満たすものがひとつ欠損していることに目を奪われているのかと思っていたがそうではないようだった。
男も女もみな一様にブレアを見つめ、すれ違う時もその視線は釘付けになっている。彼女が人外であることを見透かされているのかと危惧したが、それもまた違った。男達の表情を見ればそれが好奇の目でないことは自明だった。
「どうかしましたか?」隣を歩むブレアはこちらへ向いて言った。
「い、いいや、なんでもないよ」精一杯の強がりだった。
幾度となく目にしたことはある。長い脚で靴を鳴らして歩く容姿端麗な女性と、その隣を歩く自信に満ち溢れた頼もしい男性の姿。彼女達はみな一様に自分よりも少し背の高い隣の彼の顔を見上げ、嬉しそうに微笑んでは喋喋喃喃と何か話しているのだ。
立ち位置が変わった今、果たして俺は彼女にとって頼れる男で居られるのだろうか。