0か1か
こうして俺のホームアローンは幕を開けたわけだが、無人島生活と言っても、それは非常に恵まれた環境で行われるかにみえた。住居があり、たまに食事を運んで来る者がいるわけで、サバイバルというよりは、座敷牢に軟禁されているような易しさであるはずだった。
スカイ島はトラッド本土と海によって隔てられているが、二つの索敵魔法が示す交点は、容赦なくこの島を指すであろうことは、本土に居る場合と何ら変わらない。海路か空路を使わない限りたどり着けぬと言うだけで、ここが安全地帯とは言い難いことを念頭に置かねばならない。
そもそも、この島に得体の知れない脅威が潜んでいる可能性もある以上“油断は禁物だ”────そんなふうに思ったのは、俺に石橋を叩いて渡る思慮深さがあったからではなくて、どちらかと言えば反省に近い心境からだった。断崖の淵に拵えられた牢獄から、木製の格子越しに外の景色を眺めるしかない今の俺にとってはそんな自戒が精一杯である。
真っ黒に日に焼けていて、動物の鞣した皮を衣服として纏った男はこちらに向かって何か喚き散らしているが、トラッドで使われている言語ではないみたいだった。
ところがどうやら俺にはその言葉が理解出来るようだ。初めて森でタリスに会った時、俺は即座に彼の話すトラッドの公用語を理解したのと同じようにだ。クレイグが俺に与えた第二の権能と言ってもいいだろう。
「だから悪かったって、誰も住んでるとは思わなかったんだ」俺は第二言語を使って弁明する。
まったく何が無人島だ、キャメロンのやつめ。適当なことを言いやがって。見る限り三十人やそこらはいるぞ。帰ってきたら文句を言ってやる。だから早く帰ってこい、帰ってきて異変に気がついてくれ、頼む。
俺を捕らえた彼らの言い分はこうだ。『我々の森を侵略するな』
どうやら、外界から来た人間が自分達の土地の木々を引き抜き、その尊い資源を奪い取ろうと画策した、という疑いを掛けられているようだった。そしてそれは当事者である俺から見ても全く濡れ衣などではないように思えた。
鳥籠を彷彿とさせるドーム状の牢獄の前に、杖をついた老婆が頼りない足取りで現れた。彼女の頭には毛皮で装飾された冠が乗っかっていて、年長者として敬意を払われているであろうことを予感させた。
「なんの目的でこの島へ来た、他の悪魔たちはどこへ行った」老婆は嗄れた声で俺に問いかける。
「ここへはトラッドを行き来するために寄っただけだ、これ以上何か盗ったり、危害を加えたりするつもりはない。森へ立ち入って木を引き抜いたりしたことは謝る、すまなかった。無人島だと聞かされていたんだ」と俺は嘘偽りなく述べた。
いくら憎たらしいからと言って、悪魔呼ばわりまですることないじゃないか。
「驚いた、本当に我々の言葉を話すではないか。その言葉、どこで覚えた?」
「これは言語魔法だ。さっき捕まった時に、ここの言語を模倣させてもらったんだ」と俺は出まかせを言った。
俺の口から放たれた“魔法”という意味の言葉。この部族の言語に自動的に翻訳されて“ドリーオハト”という音になった言葉を聞いて、老婆はたるんだ瞼を押しのけて大きく両目を開いた。
「くっ、汚らわしい悪魔の子め!殺せ」老婆は踵を返して、近くの男に命じた。
「え?」
正面の巨岩に括り付けられた綱は牢獄の格子へ結び付けられていて、ぴんと弦のように張りつめている。そこへさっき喚き散らしていた男がやって来て、石の斧でそれを断ち切った。
俺を内包した鳥籠は支えを失って崖方向にぐらりと傾き、足元で『バキッ』と大きな音がした瞬間、真っ逆さまに落下を始めた。崖の真下は剥き出しになった岩場。砕けた波が白い飛沫になって舞い散っている。そこへ目掛けて俺は自由落下する。
一風変わった走馬灯だった──────
“エレベーターのワイヤーが切断したら、その小さな部屋が地面へ衝突する瞬間に跳躍することで助かる”という与太話を思い出した。
だが所詮与太話は与太話。実践しようにも、跳躍の為の踏ん張りを効かせる大地が俺には無い。しかもだ、仮に激突の瞬間に上手くジャンプすることが出来たとしても、自分自身がエレベーターと同じ速さで落下しているのだから、その衝撃が、慣性が消えるわけではない。本当にこれを実現させるならば、“エレベーターが地面に激突するエネルギーと等しい強さで着地の瞬間に跳躍する”だ。
もちろん俺にも他の人間にもそんなことは出来ない。出来ないが、もっと安全に着地を決める方法を俺は思いついた。
五点接地回転法────これはとある格闘技系漫画で見た。高所から飛び降りる際に、身体を捻りながら接地面を五箇所に分割させて着地することによって致命的なダメージを負わずにすむという特殊技能。これを俺は時魔法に応用する。
つまり、自由落下の加速度を分割するということ。
牢獄は俺と一緒に、俺と同じ加速度で落下していく。ならば牢獄の時を止めてやれば────と言っても完全に停止させる技量は俺にはないから、止まりそうなほど時を遅くしてということになるが────、牢獄は空中で殆ど静止し、変わらず落下している俺が牢獄の格子へ腹を叩きつけられることになるだろう。この時点で格子にぶつかったことにより、俺は幾分かの衝撃を受けるが、加速度とエネルギーはゼロにリセットされるはずだ。
そして牢獄の時間停止を解除し、再び共に自由落下、また時間停止、というように何度も細かく自分自身が格子へ叩きつけられることによって着地の瞬間までに加速度を分割して消費してしまおうという作戦だ。
十メートルの高さから落ちたら死んでしまうが、一メートルの高さから十回落ちても死にはしないだろう。それを俺は時魔法を使って再現しようとしたのである。
三回まではこの方法で衝撃を分割して受けることに成功したが、俺はこの手順を踏む度に自分と牢獄との落下速度に差が生まれることを考慮し忘れていた。
落下中、牢獄が俺よりも早く落下することによってドーム状の牢獄の反対側の格子が背中に打ち付けられた。この背中に受ける衝撃は落下の距離が長ければ長いほど強くなっていく。
都度落下速度を0にリセットしている俺と、この牢獄の落下速度は相対的にどんどん差が開いていき、岩場へ衝突する直前になると、普通に岩場へ叩きつけられるのとほとんど等しい衝撃を背中に受けることになってしまうのではなかろうか。
二回、背中に衝撃を受けたのち、俺は次の衝撃はもう受けられないと悟る。三回目の瞬間、木製の牢獄の格子は衝撃に耐えられずに木っ端微塵になり、俺を外へと投げ出した。背中を打ち付けられる瞬間に、時魔法によって木造の格子を脆く劣化させたのだ。
結局俺が時魔法によって衝撃力を和らげることに成功した落下距離はせいぜい全体の半分程度─────支持物も、加速度を分割するための依代も失った空中で、俺はすぐさま身体を数秒前の状態に巻き戻す。残った数メートルの落下による衝撃から頭部を護り、十全な状態で受け止めるためだ。
牢獄が設置されていた位置から、十数メートルは落下しただろうか。俺よりも一足先に岩場に打ち付けられて木製の牢獄は粉々に吹き飛んだ。続いて着地した俺は、接地した両腕と両膝に強いダメージを受ける。気を失ってしまいそうな程の強い痛みが襲い来る。
ふと痛みの強い右肘を見ると着地の衝撃に耐えきれなかった前腕の骨が肘から飛び出していた。痛みに顔を顰めながらも、同時にやりおおせたと確信したものだ。頭蓋は守られた。
時魔法を扱う者にとって身体的なダメージは常に0か1かである。言うまでもなく、0は無傷、1は死だ。
前者の権利を勝ち取った俺は何事も無かったように岩場の上で立ち上がった。