安全地帯
「かっ、硬あ!?」竜人の姿へ戻り、殴りつけた反作用によってまだ痺れが残っているであろう拳をアソールは見つめた。
「とんでもない化け物を敵に回したな、小僧」とカリラは言った。
「ほっほ。久しいの、クレア。若い頃を思い出すわい。相変わらずいい乳しとるのう」老人はにたりと笑みを浮かべた。
「だ、黙れっ!気安く呼んでくれるな下衆がっ!貴様の知るクレアは死んだ!今は別の名前で生きておる」珍しくカリラは声を荒らげる。
そして「小僧、ここは一旦退け。この出歯亀、オーヴァンは儂が若い時からこれまでずっと序列一位に君臨し続けた手練……体感したじゃろうが、時魔法との相性は最悪じゃ!」と彼女は続けた。
「逃げたいのは山々なんだが、この障壁をどうやって壊すんだ?」
「内側からは無論だが、外側からも壊すのは至難の業じゃ。儂が若い頃、山のように大きな岩をぶつけても壊れなんだからのう。じゃが、正面からやり合わぬのならば心得がある」とカリラ。
障壁を外から強く叩けば壊れるかもしれないような印象を俺とカナは植え付けられていたが、カリラの話を聞く限り事実それに必要な物理的破壊力は現実離れしていて『壊れない』とでも言い切ってくれた方がマシだった。どこまでも老獪な男だ。
「ふむ、これは流石の儂にも想定外じゃな。有象無象はどうとでもなるがのう……まさか儂との戦闘を唯一拒否することが出来る女がこの場に現れるとはのう」男はゆっくり瞬きをした。
カリラが正面の男に向かって掌を翳した瞬間、足元に浮遊していたはずの障壁は消え失せ、俺とカナは地べたへ尻もちをついた。
「いっ……て!」
顔を上げると、二人を囲っていた障壁は跡形もなく消えていて、オーヴァンは何処にもいなかった。
「カリラさん、これは一体……奴は?」
「オーヴァン本体を念動魔力で吹き飛ばした。あの障壁は滅多なことでは壊れんが、常に術者が近くで魔法力を供給する必要があるのでな。障壁と術者を引き離してしまえば効力は無くなる。オーヴァンが魔法によって一度に隔離できる空間は一つまでなのじゃ」
戦闘を拒否する手立てとはこういうことか。サルとアソールは協力しても障壁を打ち壊すことが出来ないし、キャメロンは対象を転移させるのに手で触れる必要がある。カリラだけが遠距離から一方的に引き離しを履行できる唯一の手段を持っている。
「貴様ら全員手を繋げ!転移をする!」珍しく狼狽えた様子でキャメロンは俺達に指示した。
「カナ!何してる、早く手を!」手を差し出す様子がないカナに俺は手を差し伸べた。
「────私は貴方たちとは行かない」そう言い残すとカナは踵を返し、時を加速させて凄まじい速さでどこかへ走り去って行ってしまう。
「ま、待ってくれキャメロン、カナが……!」
「時間が無い、放っておけ!」キャメロンは俺の言葉を無視して転移を履行した。
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転移によって視界が切り替わり、最初に五感が認識したのは床が軋む音だった。続いて暖かな火の灯り、薪が弾ける乾いた音を感じた。
「あらあら。今日はお友達と一緒なのね、キャメロン」安楽椅子に座って本を開いていた女性は首だけでこちらへ振り返って言った。
「シャーロット様!?じゃあここは─────」
キャメロンが咄嗟に転移先へ選んだのは、あろうことか王都の只中に居を構えるシャーロットの家、もとい実家だった。
「急いでたから仕方ないでしょ!それより母様、私……」キャメロンは義母の顔をじっと見て言い淀んだ。
「その時が来たのね。キャメロン、あなたが正しいと思う方向へ歩みなさい。正義の在処……あなたはもうとっくに心ではわかっているのでしょう?」シャーロットは速やかに事態を察したかのように眼差しを少し下へずらした。
「…………うん。母様、ここへ戻れるのは今が最後かも」
「おいで」シャーロットは安楽椅子から立ち上がり両腕を広げると、すぐさまキャメロンはそこへ飛び込んで行った。
「ショウ、そこの戸棚の一番下に布袋が入っているはずよ。それを持っていきなさい」
「え、あ、はい。ありがとうございます」
片開きの戸棚の扉を開けるとずっしりと重たい布袋が入っていて、持ち上げると硬貨が互いに擦れる音がした。
いくらなんでも用意がよすぎる。おそらくキャメロンは万が一俺が離反した時の身の振り方をシャーロットへ話していたのだろう。
「いいのかァ?こんなところで悠長にしていてよォ」とサル。
「大丈夫だ、むしろ下手に動くより安全だ。グレン・ゴインに置き去りにした……オーヴァンだったか?あの男がここへ戻ってくるまではな。そうだろ?キャメロン」
「う、うむ。もしかすると索敵魔法で私の行方を監視されているかもしれんし、今の指針の向きは些か不自然だ。この上無闇に動き回って指針が機敏に触れたとなれば、近隣に居ることが露呈してしまう可能性がある」とキャメロンはシャーロットの胸から頭を上げて言った。
「少しは猶予があるでしょう、お茶を淹れるわ」と言ってシャーロットは台所へ足を向けた。
それから俺は椅子に腰かけて、ことの運びをキャメロンから聞いた。
切り落とされた俺の腕が王都へ転移したことをきっかけに尾行していたあの爺さんに刻印魔法によって司令が下ったこと。そして、キャメロンが王都を駆けずり回って他の三名にことを知らせ、後を追いかけてきてくれたこと。そしてそれは反逆にあたる行為だということ。
「すまない……俺が勝手なことをしたばかりに」
「いい。いずれこれに近いことになるのはわかっていた。そこへ来て、あの竜人の娘が政府の討伐対象になったとあってはもう貴様は立ち止まれまい」双眸を伏したキャメロンの鼻から一筋長い息が吐き出された。
「助けに来てくれてありがとう、キャメロン。みんなも」と俺は九死の状況から人心地ついた有難みに感謝した。
「いーよー!あたしもお姉ちゃんが狙われるなんて我慢出来るわけないしっ!世界を敵に回してもお姉ちゃんと一緒がいい!」迷いのない眼でアソールは言った。
「へ。俺ァまだ生命を使い果たしてねェからな。テメェの行く場所なら地獄だろうとついて行ってやるよ」サルは気恥ずかしそうに他所を向いた。
「儂も同じ気持ちじゃ。きっとこの措置をコットペルの連中は許さぬじゃろう、代表して儂が行く」とカリラ。
「ははは、クレインズもとんだ犯罪者集団になっちまったな」自虐気味に俺は言った。
「わ、私を一緒くたにするなっ!」とキャメロンは照れくさそうに返す。
思わず笑い声が零れるひととき。この瞬間だけは、俺たちにはもう世界の何処にも居場所なんて無いのかもしれないことを忘れてしまったかのようだった。