隔たり
背筋を油っこい汗が伝う。畏れからか身体は凍りついたように動かない。
いいや違う、この空気の振動すら起こらない静寂は────
「逃げるよ」傍らの女は言った。
「カナ、君が止めたのか」
「そう。あのおじいちゃんは危険だよ。あの魔法のキレ、効果を及ぼす範囲と速さ、私達だってあんな風に一瞬で肉塊にされたら時を巻き戻すことすら無理」とカナは警鐘を鳴らした。
その通りだと思った。いかに時魔法と言えど、行使するためには術者の"意思"が必要になる。頭で考えることすら不可能になるほどの損傷を脳に受ければ、それすらかなわないことは自明である。
「わかった、行─────」再び老人の方を首だけで振り返り一瞥した俺は思わず言葉を失った。
その男は笑っていたんだ。凍りついた時の中で笑い顔が張り付いていたという意味では無い。信じ難いことに彼の表情筋ははっきりと動いていたし、何よりも恐ろしかったのは音もなくゆっくりとこちらへ詰め寄って来ていたことだった。
「なっ、止まった時の中をどうして…」カナの顔には畏怖が滲み出て来ていた。
そして、僅かな空気の流れを俺の耳が受容する。カナが時魔法を解除し、時はまた動き出していた。
「─────言ったじゃろ、"隔たり"じゃと。おぬしらと共有している時間も空間も、隔ててしまえば別個のもの。効かんよ、時魔法など」と男は怪しく口角を上げた。
よく目を凝らすと老人の周囲には半透明の膜が立方体となって内と外を隔てていた。
「まさかあの障壁の内側には、時魔法の効力が及ばないっていうのか!?」
「左様。存外に物分りがよいじゃないか、小僧」
数秒前までの俺は、この老人の力を任意の座標に壁を創り出す能力だととらえていた。そしてその座標に物質があった場合は両断されてしまう、そんな魔法だと信じ込んでいた。
しかし、実態はそんな低次元のものでは無いのだ。切断はあくまでも副次的な効果であり、本質的には閉じられた空間を完全に周囲から隔離する能力。全世界でひとつなぎの群体を成しているはずの空気をも密閉して閉じ込め、全世界で同じ速さを共有しているはずの時をも全く別の時系として内包する。
「障壁の内と外を隔てる、完全隔離する魔法……ということなのか!?」
だとすれば大変なことだ。隔てることに特化したこの障壁の内側は、文字通り別世界ということになる。箱庭の中に在ってクレイグの権能すら及ばない唯一の力かもしれない。だとすれば────
「無敵……とでも思ったかのう」老人は俺の思考の先を読んだ。
「う……いいや、所詮は人間が扱う力だ、何か弱点があるはず」と負け惜しみで俺は返す。
「その通り。"障壁"なんぞという称号を与えられているが、何でも防げるというわけはない。隔離魔法の真骨頂は外からの影響を遮断することにあらず。内側のものを外へ漏らさぬことにある。つまり内側からはどうやっても儂以外壊せぬが、儂の魔法力を正面から打ち砕く程の物理的破壊力があれば外側から打ち壊すことも可能じゃろうよ」
「自分から喋ってくれるとは、親切なことだな」
「ほっほ。おぬしらがそれ持ち合わせていれば、の話じゃがな」
この男はわかって言っている。俺にもカナにも障壁を真っ向から打ち破る物理的破壊手段を持ち合わせていないことを。
「こ、こんな魔法があるなんて……」カナはどさりとその場に尻もちをついた。
「それなら──────」
「何を思いついたか知らぬが、させぬよ」
俺とカナの周囲を瞬く間に正六面体の障壁が囲いこむ。
「くそっ!この……っ」咄嗟に俺は障壁を内側から殴りつける。
内側からいくら叩いても斬っても、障壁は壊れず、時魔法で時を加速させてもなお障壁が崩れ去ることはなかった。
「無駄じゃ。障壁が儂の魔法力を受け取っているのは障壁の外からじゃからのう。びくともせんし、雑魚は魚篭の中で大人しくしておるがよい。少々外道も混じった様じゃがな」
障壁を隔てた目と鼻の先の空間にすら時魔法の効力を及ばせることが不可能な完全なる隔離。しかも内側からでは障壁そのものを破壊することも出来ない。
この男の言う通り俺達は魚篭の中の魚そのものだ。あるいはもう少し先の話をするならば、まな板の上の鯉かもしれない絶望的状況。
いつの間にか俺もカナも障壁の内側で座り込んで、ただただ時間が過ぎるのを待っていた。何故ならこの老人は先程告げたとおり俺達を殺すでもなくただただ捕らえてこの場に留めていたからだ。
サルやアソールは今頃どうしているだろうか。俺が脱走を企てたことでひどい仕打ちを受けてはいないだろうか。キャメロンは俺に失望してしまっただろうか。ブレアは今頃どこにいるんだろうか。見る・聞く・考えることしか出来ないこの空間では、そんなこの障壁の外の事象に想いを馳せる以外に選択肢がなかった。
「─────のう、小僧」
「なんだ」
「何故こんな莫迦な真似をした?お主の話はもちろん儂も耳にしていた。時魔法を扱う者は実在したと聞いた時は震えたわ。しかもその者は善なる者だと、そう聞き及んでおったのにのう」
「王都に縛り付けられたままじゃ、目的を果たせないからだ」
「ほ。目的じゃと?よもや怪人と化した娘と駆け落ちでもするつもりではあるまいな?」
「…………くだらないと思うか」
「ふむ、くだらぬなあ」
「そうか」
反論する気も起きなかった。今の俺はどうしようもなくこの男の掌中にいるということを理解していたからだ。
やがてこの老人にとっての待ち人は現れた。しかし、それは俺にとっての待ち人でもあった。
「──────ほう、おかしな場所へ立つのう」老人はこちらへ向かって言った。
否、そうではなかった。どんなにこの男の顔を見つめようとも決して目と目が合わなかったからだ。
「このッ……大莫迦者が……っ!!」背後から聞こえてきた涙声に俺は思わず振り返る。
─────分かっていた。この爺がこの場で俺とカナを捕らえて、少しも連行する素振りを見せない理由を。迎えに来る者がいる。そのことはあまりにも想像するに容易い。
振り返るとそこには泣き腫らした眼の小さな女の子とワオキツネザルみたいな風貌の男、それからパンツスーツ姿の爆乳秘書官、可愛らしい一本角の竜人の女の子が立っていた。
「ヤッバ!ショウさん捕まってんじゃん!てか、この女の子誰?」アソールは重苦しい雰囲気をぶち壊しながら言った。
「ほお~ッ、これは珍しい。お主ともあろう者が血迷うたか!愉快愉快!」老人は両手を合わせてぱちぱちと叩いた。
確証はなかった。それを望むことすら身勝手すぎた。でも彼女は、俺が思うより少しだけ愚かだった。そのことに今は感謝したい。そして、どうしようもなく不可逆的な選択肢を選ばせてしまったことに俺の人生を懸けて謝罪したい。
「アソール、壊せ」とサルはアソールに命じた。
「ちょっと命令しないでよっ!」眉をひそめるアソール。
アソールの姿がみるみるうちに巨大な龍に姿を変えていく。そしてその右拳にサルの鞄から宙に流れ出た金属が蔦のように絡みついていく。
「言われなくっても、やるッつーーーのォっ!!」
龍化したアソールの強烈な右フックが障壁の横っ腹を捉える。合金の硬度と飛龍の剛力が組み合わさった拳が障壁へ激突した瞬間、鈍い音が辺りに響き、障壁には大きな波紋が広がった。