時の砕氷船
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トラッドを南北に分かつ亀裂のようなグレンゴイン峡谷の東端よりもわずか南に、海底火山が隆起して出来た活火山グレン・ボルカはそびえ立っていた。
北東へ平たく伸びるベンネ・ヴィルス山脈の造山帯を追っていくとたどり着く場所。麓は盛んな火山活動によって度々発火し、燻るその炎は"グレンの篝火"として知られているらしい。
もうすぐ日が暮れる。陽光が地平へ身を潜め、光源が移り変わる様にところどころ赤熱に燻った大地が際立ってきた。
「時間が無い………」俺は独りごちた。
地獄を具現化したみたいな火山の裾を、俺は一歩一歩北へ進路をとる。炎熱に耐えきれず焼け焦げた靴とアラドが持たせてくれた真っ赤なローブを巻き戻しによって修復しながらグレンゴインを目指していた。
「─────へえ、珍しいところで会うね」いけ好かない声が向こうの闇から聞こえてきた。
まただ。いつもこいつらが邪魔をする。
「やはりデイヴやキャメロンの見立ては正しいみたいだな。どうしてこんなところにいる?」金色の瞳の男に俺は言う。
「それはこっちの台詞だよ、ショウ。こんなところに来るなんて、まるでシーズになってしまったみたいだね!アッハハッ!」またぞろロイグは嘲るように笑う。
こいつらが現れる時はいつもそうだ。何故だか居場所を先に知っていて、待ち構えているかのように俺の前に立ち塞がる。そして、まるで煙のように掴みどころなく姿をくらますんだ。
「シーズとは一体なんなんだ?なんの狙いがあってブレアをお前らと同じ身体にした?沸々と溢れ出る疑問と感情を俺は発露する。
「アアーーーーッ!!!五月蝿い、五月蝿いよッ!その女の名を聞くとイライラが止まらなくなる!」
「─────初めてだな、お前がそんな風に取り乱すのは」
「あの女をこっち側に引き込んだのは失敗だった……何もできやしないとたかをくくっていた。それをあの女……っ!!」
「へ、よくわからんがお前達に都合のいい様には動かなかったみたいだな」
見くびって貰っては困る、俺が惚れた女はお前らが思っているよりずっと優しくて強い。強すぎて全てを背負い込んでしまうほどに。
「そうさ、あの女はこっちへ与するフリをしてボクの魔力を掠め取りやがったんだ。許せない許せない許せない!!下等種族の癖にッ!!」
「は…………?くくくくくっ……はははははっ!」
「わ、笑うなっ!!!」
滅茶苦茶だ。彼女や俺達人間は怪人から見たら下等なのかもしれないが、ブレアは今となってはロイグ自身と同じ種族のはずだ。感情的になって論理が破綻してしまっている幼稚な言い分だ。
俺は久しぶりに心から笑った気がしていた。これが笑わずに居られるか。キャメロンが言っていた"転移魔法官の刻印柱失効"は誰あろうブレアの手によるものだったのだから。
「それじゃあ、お前はもう前みたいに俺の目の前から姿をくらますことは出来ないんじゃないか?」これ幸いと俺は追撃の言を差し向ける。
「可愛くない……キミもあの女も本当に可愛くない。ボクがキミなんかに遅れを取るとでも思ってるの?」
「俺はともかくとして、聞き捨てならないな」
あんなに可愛い女が他にいるものか。俺は彼女と彼女が護ろうとしたものを信じる。
「連れて行けよ、ブレアを怪人化したのもそのためなんだろ?お前らの野望に俺を協力させるため」
クレイグの住む異空間でボウモアは言っていた、いずれ俺の方から怪人に協力したくなると。
だが未だに俺の答えは否だ。トラッドを恐怖に陥れ、ブレアに苦渋の決断を迫ったこいつらの野望を腸の中から食い破ってやりたい。けれどもどちらにせよ向かうべき場所は同じなんだ、シンプルに最短距離を取るべきだ。
「ふうん、やけに素直じゃない。どうせなにか企んでるんだろうけど、無駄だよ。まあいいや、とにかく着いてきなよ、案内してあげるよ」
ロイグがくるりと反転し、俺に背中を向けた瞬間、原因不明の悪寒を感じた。
怖いくらいの静かさが訪れる。空気の流れを感じない。金縛りにでも遭ったみたいに身体がいうことをきかない。
正面に見えるロイグも背を向けたまま歩みを止めている、と言うよりは前へ踏み出した足が大地を踏みしめられずにいるように見える。
「…………君は動けるはずだよ、私を観測出来ているのが何よりの証拠」
俺の右後方から聞き覚えの無い若い女の声が聞こえてきた。気配を強く感じるのに俺の身体は振り返ることが出来ない。
振り向いて『何だお前は、何者だ』と言葉を浴びせたくとも、口も手足もぴくりとも動かない。
待てよ──────君は動ける、だって?
確かにそうかもしれない。
俺の水晶体は光を受容し、鼓膜は振動している。思考できているということは、これらの光や音といった情報を処理するために俺の脳内ではシナプスの間を信号が駆け巡っているはずだ。俺の身体は既に十分に動いているのではないだろうか。
これはきっと思い込みの力だ。俺自身が出来て当然と思うことだけが無意識下で実現しているのだ。その根源にあるのはこの世界で一人を除けば、俺だけが使い方を知っている、俺だけが認知できる力。同じ土俵に立っている先達の存在を俺は思い出す。
『アクセラ』
言葉に出来なくとも、意識の中で俺は詠唱した。
俺の身体は金縛りから解き放たれ自由を取り戻す。すぐさま後方を振り返りその声の主を瞳に捉えた。その姿は絶対にここにあるはずが無いものであり、俺にだけその意味と正体を純然に告げていた。
牛乳瓶の底をあてがったような分厚い丸眼鏡、色素が強い黒色の髪は三つ編みにされていて、この世界に存在するはずの無い紺色のセーラー服を身に纏ったあどけなさを内包した女の子。
「じ、女子、中学生?」俺が加速させた時は、身体を封じ込めていた力を相殺し、通常の速度で言葉を紡がせた。
「こっちへ来て、早く。そう長くは止めていられない」と、その女の子は俺に要求した。
停止した時の中を、自分の周囲だけ無理やりに時を加速させて活動するのは、まるで凍てついた氷河を氷を掻き分けて進む砕氷船のような気分だった。
ゆっくりと後方へ振り返って歩き出し、未だ時が硬直しているロイグをその場に置いて、俺は彼女の後を追った。