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ア・ラ・カ・ル・ト

さようならは、わたしから

作者: 花野屋いろは

パンッ!!


乾いた破裂音がフロアに響いた。談笑を交わしていた若い男女十数人が

一瞬にして静まりかえる。


「このあばずれ、二度と俺の前に顔を見せるな。」


決して大声ではなかったが、低くよく通る声は、静まりかえった

フロアの人々の耳に響いた。そして、男は、出て行った。


「おい!! ラリー! 待てよ、ラリー!」


少し前まで、ラリー、ローレンス・テイラーと話していた男が、

ローレンスを追いかけたが、諦めて傍らにいたローレンスから

平手打ちを浴びせられた女を振り返った。


「君大丈夫か?」

「ミリィ、大丈夫?」


ミリィと呼ばれた女は、頬に手を添え呆然としている。

駆け寄ってきた、女は、ローレンスの友人と思える男に詰め寄った。


「あなた、彼女のこと知らないの?」


「あ? あぁ、初対面だと思うけど? 会ったことがあるなら

こんな美人忘れないよ。」


勢いに推されて、少し後ずさりながら、男、ダニエル・ノートンは答えた。


「初対面? 本当に、初めて会ったのね?」


ミリィの親友である、ダイアナ・クレモントは念を押す。


「本当に、本当に、初対面だよ。一体何だって言うんだ?」


ダイアナの疑うような問いかけにいささかむっとしてダニエルは、

聞いた。ダイアナは、睨み付けながら言った。


「そう、彼女は、ミルドレッド・アダムズ。ローレンスの婚約者よ。」


「えっ、君も ミルドレッド・アダムズ なのか?」


「君も……?」


ようやく、口がきけるようになったミルドレッドは、怪訝そうに

ダニエルをみる。問い返されたダニエルは、途端にばつが悪そうな顔をした。

ダイアナは、なおもダニエルを睨み付けながら


「こいつ、『先週、アトランタで ”ミルドレッド・アダムズ”という

名前の赤毛の美女と情熱的な一夜を過ごした.』なんてことを

ラリーに言ったのよ。」


先週、赤毛、ミルドレッド・アダムズ……。


ミルドレッドは、ゆっくりと頭の中で反芻した。確かに、自分は、

ミルドレッド・アダムズで、赤毛で、先週は、出張でラリーには、

会っていない。でも、私が出張で行ったのは、アトランタではなく

シアトルで、それは、ラリーだって知っていたはずだ。


-- そうか、そいうことなのね。


打たれた頬が熱くなってきた。口の中で鉄の味がする。加えて、

同じ側の耳が聞こえにくいような気がする。


「取りあえず、病院に行った方がいいんじゃない?」

集まってきた友人達の一人が言った。

「そうだよ。ミリィ、ここからなら、大学病院のERが近いから

すぐに行った方がいい。」

他の友人も心配そうに言う。


「俺が送ろう。」


ダニエルが言った。すると、ダイアナがすかさず、


「いいえ、私が送るわ。貴方はもう、ミリィに近づかないで。」


と遮った。他の友人達もそれに同意した。ミリィは、ダイアナの運転する車で

大学病院に向かった。


 ラリーとミリィは2年前、あるレセプションで知り合い、恋に堕ちた。

1ヶ月前、ラリーは、ミリィにプロポーズし、彼女はそれを受けた。今日は、

親しい友人達が二人の婚約祝いの小さなパーティを開くはずだった。

 ダニエルは、ラリーの親友で、アトランタに住んでいるが、親友の婚約を

祝うパーティーを知り、急遽駆けつた。そして、ラリーから、婚約者を紹介して

貰うはずだった。久し振りにあった親友は、女嫌いを返上し、婚約者に

ベタ惚れのようで、しきりに惚気た。


 ちょっと悔しくなったダニエルは、負けじと先週、情熱的な夜を過ごした

女性の話をした。それが、悲劇の始まりだった。始めは笑って聞いていた

ラリーが、ダニエルが、「赤毛のミルドレッド」と言った途端に訝しげな

顔をして黙り込んだのだ。


 そして、「もう一度あの、セクシーな赤毛のミルドレッド・アダムズに

会いたい。」と言ったその時、女性がパーティー会場に

入ってきた。ラリーは、その姿に気が付くと、すぐに女性に向かっていき、

いきなり手を上げたのだった。


 ERに着いて、診察を待つ間に、ミリィは、ダイアナから経緯を

聞いた。そして医師の診察を受ける間、ずっと考えていた。診察を終え、

治療しながら医師は、ミリィにどうしてこのような怪我を負ったのか聞いた。

ミリィは事の経緯を話すと、医師は、


「被害届を出すなら、診断書を書く。」


と言ってくれた。ミリィは、頷いた。治療が終わると医師は、付き添いの

ダイアナを診察室に呼び、


「2,3日入院した方がいい。頬の腫れは1週間ほどで引く、腔内も切れているが、

こちらも数日で自然治癒する。問題は、耳で外傷性鼓膜穿孔つまり、

殴られた事が原因で、鼓膜に傷が、まぁ

小さな孔が開いている。塞がるには数週間かかるでしょう。」


「鼓膜に孔が……。」


ミリィよりダイアナの方がショックを受けたようだ。呆然としてつぶやいた。


「それにしても、入院は大袈裟なのでは?」


ミリィがダイアナの気をそらすように医師に問うた。医師は首を振った。


「これは、立派なDVだよ。その男は、君のアパートを知っているんだろう?

合鍵は?」


「もちろん場所は知っています。鍵は、渡していませんが…。」


それに、とミリィは続けた。


「あちらが私に二度と顔を見せるなと言ったのですから訪ねてくる

はずありません。」


いや、と医師は否定した。


「彼の親友とか言う男が、人違いだと彼に伝えているはずだ。

それを聞いたら、訪ねてくる可能性がある。」


ひゅっと、ミリィは息を呑んだ。夜中に、独りの時にラリーが来たら、

自分はどうなるだろう。考えただけで指先が冷たくなった。


その様子をみて医師は、


「だろう。2,3日入院してまずゆっくり休もう。家族、女性と弁護士

以外は病室に入れないようにして他は、面会謝絶にしておく。

DV問題に詳しい弁護士を手配し、カウンセルの予約を入れておく。」


そういって医師は、内線でコンシェルジュを呼んだ。コンシェルジュ(女性)は、

ミリィとダイアナを相談室に案内し、まず、警察への被害届を作成した、

院内には、警官が常駐しているのですぐに届は提出できる。明日弁護士が

来たらすぐに接近禁止の手続きをすることになった。

 病室に案内されたミリィは、すぐに診療着に着替えベッドの入るように

コンシェルジュに促された。ダイアナも、それに同意する。二人が見守る中、

着替えてベッドに入ったミリィにコンシェルジュは、眠れないようなら、

軽い睡眠薬が処方されているからこれを飲むように、ダイアナには、話は早めに

切り上げて帰宅するように促した後、部屋を出て行った。


「酷い目にあったわね。」


ダイアナが、ポツリと言った。ミリィは、ベッドの上で目を閉じて静かに答えた。


「所詮、彼にとって私はその程度の女だったのよ。」


浮気を疑われた。確かめてもくれなかった。信じてもらえない女だ

と言うことだ。枕元に置いたスマホを取り上げ、ラリーから来るであろう、

メール、電話、SNSすべて着信拒否にした。明日、弁護士と相談して、

婚約解消の手続きを始める。


「さようならは、私から言うわ。」


静かに告げたミリィの決心をダイアナは、頷くことで同意した。

 翌朝、9時過ぎに、病院が紹介してくれた弁護士が病室を訪れた。

弁護士は、キャサリン・マッケンジーと名乗り、人権問題を専門に扱う弁護士で、

特にDV被害者の相談に乗ることが多いといった。

 キャサリンは、昨晩起こったことを詳細にミリィから聞き取った。ラリーが

ミリィを殴った事については、友人の一人が丁度会場の様子を録画しておりそれに

鮮明に記録されていた。その動画を見てキャサリンは、頷いた。


 次に、ダニエルのいう「赤毛のミルドレッド」については、ダニエル本人が、

最初にミリィを見た時、初対面だと大勢の前で証言したので、ダニエルの

ミルドレッドとミリィは別人と考えて問題が無いようにも思えるが、事前にミリィと

ダニエルが打ち合わせをしていたと疑われる可能性があるとキャサリンは指摘する。


 ミリィは、その日、ダニエルと赤毛のミルドレッドが過ごしたアトランタからは

遠く離れたシアトルにいて、彼らが過ごしていた時間帯には、基調講演と

レセプションに参加しており、その様子は動画にアップされ、ところどころで

ミリィも映り込んでいた。

なにより同僚と上司も同行していたので、ミリィと赤毛のミルドレッドは

同一人物ではないと証明できるとミリィは言った。

 

「それで、貴女はどうしたいの?」


とキャサリンがミリィに聞いた。


「婚約を解消したいの。」


ミリィは、きっぱりと言った。キャサリンは、


「本当にいいの、彼は、若くてハンサム、しかも起業家としても

有能で、結婚後の生活は保障されているのよ。今回のことで

慰謝料を請求したとしても、結婚後貴女が享受できるものに

比べたらほんのちっぽけなものよ。」


と少し意地悪く言ったが、ミリィは怯まなかった。


「そんなものいらないわ。それよりも自分のことを全く信じてくれない人と

一生過ごしていくなんて耐えられない。」


 彼の見た目と財産に群がる女性は沢山いる。赤毛のミルドレッドが意図して

仕組まれたのか、偶然なのかはわからない。わかっているのは、ミリィを

陥れようとする女性はこれからも大勢現れ今回のようなことは何度も起きる

ということだ。そのたびに殴られ、罵られるのは我慢できない。


 いいでしょう、とキャサリンはいった。


「貴女の決心を確認したかったので、ちょっと意地悪いことをいいましたが、

本気のようなので、婚約解消までやりましょう。」


 ミリィは、キャサリンにラリーの弁護士を教えた。今後交渉は彼として

欲しいからだ。ラリーの弁護士アーサー・スミスは、二人が婚約をした際

婚前契約を結ぶ時にラリーから紹介された。スミス弁護士は、ミリィの父親より

祖父とといった年齢で、穏やかな人柄だった。父親を早くに亡くした

ミリィにとって彼は、初めて触れる男親のような存在の人だ。この人にラリーとの

関係を終わらせる交渉に当たって貰うことになるのは残念でならなかった。

彼は、二人の婚約をとても喜んでくれたのだから。

 キャサリンは、ミリィからスミス弁護士の連絡先を聞くと、今後の交渉のための

書類を作成したら早速約束を取り付け先方と会うといって帰って行った。


 一人になるとミリィはベッドに横になり、目を閉じた。朝の回診の時、

頬に張られた湿布薬を張り替えて貰ったが、まだ、熱を持ち疼いている。

頭の中では、ラリーの冷たい瞳と「あばずれ」と罵られた言葉が繰り返しよ

みがえる。


-- 彼は私に、確かめることすらしなかった。


閉じた瞳から涙が溢れる。シアトルに出張に行くと伝えた。出張は、一人ではなく

同僚と上司も一緒だとも伝えた。アトランタには行っていないし、すぐにばれる

嘘なんかつかない。なにより、そんなことする必要が無い。彼を愛していたし、

プロポーズされて幸せだったから。


-- でも、ラリーは、私が男を誘惑し、彼を裏切る女だと信じたのだ。


 終わったのだ。いとも簡単に。まだラリーのことは愛しているけど、

この気持ちはもう、続かない。まるで指の間からこぼれ落ちていくようだ。

彼を愛していた日々が、彼に愛されていると信じていた日々が…。


 午後になってダイアナが見舞いに訪れた。ミリィは、退院したら今住んでいる

アパートを解約し、転居することを告げた。キャサリンから、DV被害にあった

女性に勧めているセキュリティの高い物件を紹介されたのだ。ダイアナは、

それがいいと言った。今日朝一で、ラリーからダイアナにミリィの居所を尋ねる

電話を掛けてきた。ダイアナは、それを断り、ミリィの代理人である弁護士が

スミス弁護士に連絡をとるだろうからそれを待つように言ったそうだ。

それと、とダイアナは続けた。


「ごめん、本当は私が言うべきではないのだけど、頬と腔内だけではなく、

鼓膜が破れたこと話しちゃった。ラリーが貴女の様子をきくもんだから。」


「いいわよ、間違ってないから。診断書は弁護士に渡したからそれで

確認するでしょうし。」


「彼ショックを受けてた。」


何に? 鼓膜に孔が空いたことに? 赤毛のミルドレッドが私でないことに?


「そう、でももうそんなことどうでもいいのよ。」


ミリィは、静かにつぶやいた。


 夕方、キャサリンが病室を訪れた。スミス弁護士と会って、こちらからの

書類を渡し、ミリィの要望を伝えたそうだ。その時、ラリーがミリィを

殴った動画も併せて見せたところスミス弁護士は、なんと言うことだと

つぶやいたそうだ。そして、ミリィに無理をしないで、静養するに伝えて

欲しいとキャサリンにいったとのことだ。


 ラリーからダイアナ宛にミリィの所在確認をする電話が入ったことを

伝えると、キャサリンは、


「その件に関してもスミス弁護士に、止めて欲しいと伝えてあるから

もう掛かってこないと思うわ。」


と言った。


◇ ◇ ◇


 2週間後、ホテルの一室で、ミリィは、キャサリン同席の元、

スミス弁護士と会った。今回の件の事務手続きがすべて終わり、ミリィは、

被害届を取り下げる。その前にスミス氏は、ミリィと直接話したいと言って

きたのだ。スミス氏のオフィスではラリーとあってしまう可能性もあるので、

別の場所で、キャサリンと一緒ならと条件をつけたところこのホテルで

会うことになった。


 氏は、ミリィを見て、耳の具合はどうかと聞いた。怪我のうちもっとも

治癒に時間が掛かるのは、鼓膜であると知っていたからだ。ミリィは、

まだ違和感があるけど、当初よりは大分良いと伝えた。


 ラリーは、治療費・慰謝料の支払い、ミリィを侮辱したことへの謝罪は、

すぐに承諾した。しかし、婚約解消については中々了承しなかった。

謝罪を受け入れて2人の関係をやり直したいと最後まで食い下がった。

今後同じ事が起きても、過ちは2度と繰り返さないから許して欲しいと、

直接会って話したいと懇願したそうだ。


 でも、ミリィは、頑としてそれを受け入れなかった。二度と自分の前に

顔を見せるなと言ったのは、彼だ。2年つきあって信頼を築いたと思った

2人の関係をたった30秒で終わらせたのは彼だ。

だから会って話すことなど何もないのだ。


 スミス弁護士は、最後に一度だけでも会ってやってくれないかと言ったが、

ミリィは、否と答えた。氏が、ため息をつくとミリィは、氏の前にビロードの

小箱を差し出した。婚約指輪だった。


今回のケースでは、婚約の解消原因は、ラリーにあるので、ミリィは、

この指輪を返す必要は無い。持っていたくなかったら売却してしまって慰謝料だと

思っても良いのだが、ミリィは指輪を返すことにした。そしてミリィは言った。


「ラリーに伝えてください。さようならと、2年間とても幸せだったと。

今度は、心から愛し、信頼できる方とどうぞ幸せになって欲しいと

願っていると。」


「ラリーの幸せは、君だよ。ミリィ」


スミス弁護士は言った。


「でも、私の幸せは、もう、彼ではないのです。」


ミリィは、寂しげに微笑んだ。その時、ノックがして、扉が開き、

背の高い男性が部屋に唐突に入ってきた。


 ミリィは、思わず立ち上がり、恐怖に顔を歪め、キャサリンの腕を掴んだ。

ラリーが踏み込んできたのかと思ったのだ。実際は、スミス弁護士の事務所の

若い職員で、時間が来たので氏を迎えに来たのだった。


 ミリィの様子を見た、スミス弁護士はようやく悟った、


「すまない、ミリィ。ラリーは、そこまで君を傷つけていたんだな。

私の認識が甘かった。彼には、取り返しの付かない過ちを犯したと伝えよう。

彼にできることは、遠くから君の幸せを祈ることだけだと。」


 ミリィは頷いた。そして、部屋を出て行くスミス弁護士を見送った。

ミリィとキャサリンは、ルームサービスで、紅茶を頼み一息つくことにした。

ラリーとの婚約は終わったが、実際にまだミリィの治療は続く、今もそうだが、

ミリィはまだ、背の高い男性の影が怖い。当分恋もできないだろう。


 でも、この傷が癒えたら、今度は、信頼しあえる人と愛を育みたいと思った。

自分からさようならをいうことは二度と無いように。


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