(´・ωオアさんへ かつての団員たちへ向けて
2019年8月8日 「小説家になろう」へ投稿
櫛之汲
暗号や暗証やこじつけへの誘導する意図は無し。当然、暗号や暗証やこじつけも無し。
お知らせ。私(櫛之汲、hirakiグラブルID5604538等私を名乗る全アカウント〔匿名も含む〕並びに団体や法人や個人)は。即売会等へは参加しませんし誰とも合わないし通話もしない。
本話タイトル:「電子的方式による通信の認識限界と言語伝達に関わる介入の被害可能性~著者としてアカウントをもつ自然人(法律用語)としてのあらゆるメッセージ機能送信についての考え」
一般に解釈するうえでは、リスクと書く、リスクと書かれていると、「許容範囲のリスク」利益や利得などの均衡の判断をも含んでしまいそうですが、本話でリスクと記すニュアンスは、「被害可能性」という私の造語で説明されます。
ここでいう「被害可能性」には、「被害」、「可能性」という語を含みます。
「被害」とは、害を被るという意味ですから、単純明快、わかり易い。しかしながら、「可能性」とはむつかしい。発生確率という意義もありそうです。けれども、「できる、できない」という二択なだけの意義ではありません。
確率を説明するときに用いられるのはサイコロでしょう。何度も何度もサイコロを振るとそれぞれが一定の割合になっていく。「サイコロにある面のうちがどれが転がった先で、地に対して上にくるのか」これが一定の割合に近づいていく。当然現実には、サイコロを振るとその出る目には、ばらつきがあります。こうした確率というものが、自然法則に従ってあるべき割合に収束していく。試しに行うサイコロを振る回数は膨大な数を要します。ガチャを引いて外れが多いのは当然なのです。
「確率」というのは、理論であります。実際の現実に起きる各つまり個別具体の事象、一種の事案の類型に対応させようとすれば「机上の理論」という慣用表現でも説明できる。このことに関して単に統計的に決まってくるという理解では不十分です。
ここでいう「被害可能性」には、先の段にて小さく説明した「確率」という理論が関係しますが、「被害可能性」を考える上では、何故ならば「可能性」という概念(「概念」と読む)は、「確率」だけが概念のもって意味するニュアンスのすべてではありません。一回の確立試行回数でなくとも、あるいは証拠があるないだとか事実だそうでないとかその試行回数が判断つかない場合というのは世の中にいくらでもあります。
個人にとっての「被害にあう可能性」という側面をも「被害可能性」は、その概念に含みます。
この「被害可能性」について考えるときに、被害可能性を考える個人が「一般てきな人あるいは一般の経済環境であるかそうでないか」ということは、「情報」という概念が含む多様性や不確実性(専門的な学術用語の一種)、「通信」という方式が社会基盤によって形成されているといっても、その「基盤」を形成するのは個々の企業や事業主や資本や雇用関係によって絶えず基盤そのものも、基盤を構成する各要因が絶えず流動していくものなのです。そうした基盤の内外に流動するあらゆる要因にさゆうされてしまうものです。
経済という大きな潮流が、原理を為しています。「情報」「通信」の社会基盤は人の身には大きすぎる概念と規模と構造をもちます。それだからといって、被害可能性を考える個人が「一般てきな人あるいは一般の経済環境であるかそうでないか」ということをもって、大丈夫だろうと思うのは人それぞれでありますが、通信の「基盤」その「盤」というものをよくよく理解進めると、通信というものがどのような樹形図でなっているかその複雑さにつき複雑性というようなものを具体にイメージ、樹形図のようなかたちでイメージできるようになります。
一般とはいえそうそう安心でもないといずれお分かりになります。考え詰めてしまい生活もままならないのはいけません。電子画面の向こうに、、文字やら画像やら音声やらを介している人がいて、社会基盤のなかの各事業所で働いている人がいて、そこには反社会的な事業を行う者もいて、金銭の利益だけではなく、利得を求めて動く輩もいて、そうした社会基盤の潮流と樹形図のなかに己の通信発信や記録や相手方の通信や記録があり、全数検査なんぞ人工知能でもなければできない。けれど、そうした通信基盤に漂うその個人の状況というものは、千差万別です。個人単位の状況それが閉鎖的な非公開の場であれば、その閉鎖通信アドレス館内以外には、その情報は及ばないわけです。公開の場でも、情報は埋もれてしまいます。サイトごとに検索エンジンにかかるか掛からないかは、そのサイトのプログラミングによる設計構造如何によります。検索エンジンを提供している企業は広告業で利益便益利得を得ています。被害はそうそうないから考えない、いいやすこし考えねばならない。公衆電波帯あるいは通信網がある、警察やNTTやプロバイダが見張ってくれるわけではありません、事例によりけりケースバイケースですが、基盤構成は複雑で膨大な量です、人と機械では識別するために用いる言語がちがいます。即時対応は困難です。「民事不介入」というのもありますが、「捜査」「刑事」においては警察は介入するのですが「形式」と「事実」を要します。私の考えですが、通信において音声通話は控えねばなりません。通信基盤を介した「情報」それを端にした交流手段である面会については面会してはいけません。通信基盤だけに注意するだけでは「被害可能性」を考えるに不足です。口伝え人伝でも訪問でも郵便でもなんでも有形の情報交換手段よる基盤その内外にも「被害可能性」はあります。
「中味と形式」という題による文章が岩波書店の夏目漱石の本、夏目金之助の言にあります。読んだことがなければ、ぜひお読みになってください。私は、オアさんやかつての団員が被害にあわない為にこうして小説家になろうで自身の信条を小説にしていくことで、面会せず、通話せず、見捨てない、この信条を小さく説いて積極的に消耗します。
情報の不確実性というものの理解をすすめるには、「情報の経済学」あるいは情報経済学に関する学術書や「ゲーム理論(応用可能な学術分野の一つ)」の学術書を現実の書店で新刊を手に取って購入し読むことをすすめます。
人が間違いを起こさないとも限らない、けれど、とりまとめつまり旗印の大きな組織のどこどこを信用しているから、便益あって不都合もあることを諒として人々は、情報や通信を活用し、日々活動しています。「上滑りに滑っていかねばならない」(参照、「漱石文明論集」等 岩波書店 のうちにある言葉を用いた)そうした、考えの備えはありはするけれど経済の原理というものは、趣味に仕事に関しても避けられない潮流です。
2019年8月9日 「小説家になろう」へ投稿分が反映されないので第一部にも第二部と第三部を掲載します。
櫛之汲
暗号や暗証やこじつけへの誘導する意図は無し。当然、暗号や暗証やこじつけも無し。
(´・ωオアさんへ かつての団員たちへ向けて。に続き二話となる本話では、「(´・ωオアさんへ かつての団員たちへ向けて。」に加え、小説家になろうで活動する登録済アカウントへ向けても記します。
私(法律上の概念でいうところの「自然人」たる私)は、「小説家になろう」において登録されたアカウントのいずれにおいても、あらゆるメッセージ機能をユーザーに対しては一度も利用していません。
小説家になろう「メッセージ機能」は、該当アカウントログイン後はログインした状況のユーザーは、削除可能ですが、削除履歴はログイン後の画面には残らない仕様です。そのため、本来のアカウントの登録者あるいはこうもいえますが原始的な著作権者であるユーザーが、感知できない「メッセージ機能」への第三者による介入が起こりうるのです。ひとつ前の「話」で説いた私の造語でいう「被害可能性」があるのです。
「メッセージ機能」を経済という大きな潮流のうち情報通信基盤の大枠として捉えます。こうして生じうる「被害」、之につきまして事象の因果経路の一種とみなしたメッセージ機能を含む「被害の個別具体事例」その「被害可能性」は、何も、「小説家になろう」の有する「メッセージ機能」に限ることではありません。その数を示すことはむつかしいのですが、多くのウェブサービスに類似のメッセージ機能は備わっています、そのために、「小説家になろう」に対して機能の具体を批評する試みをもって先の段に記したわけではないのです。通信をもって飛び交う「電子化された情報」というものに対する全数検査がむつかしいという性質があって、それを私が個別のサイトの機能に批評を試みない理由といたします、電子化情報事業に関わらず実務においては、また商慣習やサイトの利用規約といった側面もサイトの組成を内包した因果の批評には大きく影響するのです。私は「小説家になろう」にのみ「メッセージ機能」に関する記録や利用者による送信履歴正誤確認の必要性に関して批評を試みたわけではないということです。個人としてアカウントを登録してこうして小説を書く書いたわけでありますから、私の知らぬうちに、把握できない送信(私(法律上の概念でいうところの「自然人」たる私)は、「小説家になろう」において登録されたアカウントのいずれにおいても、あらゆるメッセージ機能をユーザーに対しては一度も利用していません。)それにも関わらず、私のアカウントよりそのような送信があり読んでいるのならば、それは「自然人」たる私の意図しないものであるから、ほかの利用者に注意していただきたい、この一心であります。
現在は2019年8月9日でありますが、2018年に感知したトラブルが起こる以前であり尚且つ2015年よりも過去、(具体には年を明かすことを避けます)、「平葡樹」という筆名で「小説家になろう」にて「自然人」たる私がアカウントを退会する直前に、「メッセージ」を他の利用者に送ったことはございますが、平葡樹というアカウントは既に退会済みです。その後アカウント再開は行っておりません。小説創作のうち、文章構成という大きな枠でみる抽象的な模倣に対する自身の至らなさ未熟さを内省し、影響を受けた他利用者、小説投稿しているとあるアカウントに対し謝罪したのです。直ぐに退会致しましたので相手方の返信などは把握しておりません。また私自らに失念していた私もそれを望まないのでした。
snsでいうとTwitterに「櫛之汲@kushinokumi」やtumblerに創作告知サイト(詳細は私の活動報告に、現在は閉鎖状態)がございますが、そこで行っていたメッセージというのも、御礼「リツイート」や御礼「ファボ」、御礼「リプライ」という極めて社交辞令然としたものであります。非公開の「DM」についても、社交辞令の域を出ない簡易なもので、ここにおいても、面会せず通話しないという私の信条をもっております。個人の交流という域に達していません。そうなることは今後もありません。過去から今にいたる継続あるいは中断を挟むメッゼージ機能による交流というものは、ありません。。「被害可能性」を考慮した体裁や建前ではなく、事実、交流はないのです。ご注意ください。あらゆる名義で並びに匿名のコメント匿名の感想匿名の評価も送ったことがありません。暗示暗証暗を含ませたことはありません。また、俗にいう「作家グループ」に所属したことはございません。共作や「コンビ」を組んだこともありません。「カルテル」または秘密協定を結ぶ共謀するというようなこともありません。こういったことを他の誰かに許可したり、そのような事実を知って放置したこともございません。こうした「被害可能性」を考慮した体裁や建前ではなく、事実「群れた」ことはありません。そのために「私(法律上の概念でいうところの「自然人」たる私)は、「小説家になろう」において登録されたアカウントのいずれにおいても、あらゆるメッセージ機能をユーザーに対しては一度も利用していません。」と宣言するのです
第三部です。
2019年8月9日
櫛之汲
暗号や暗証やこじつけへの誘導する意図は無し。当然、暗号や暗証やこじつけも無し。
第一部(小説家になろうにおけるログイン後の管理画面上での「話」数単位その表記)としてのタイトル:「電子的方式による通信の認識限界と言語伝達に関わる介入の被害可能性~著者としてアカウントをもつ自然人(法律用語)としてのあらゆるメッセージ機能送信についての考え」を挙げました。そのうち、「被害可能性」については第一部は(いわゆる第一話)で私の造語であるところの意味を小さく説きました。また第一部内本文で記したタイトルのうち「あらゆるメッセージ機能送信についての考え」は第二部で説明いたしました。
本話においては、「言語伝達に関わる介入の被害可能性」につきタイトルとします。サブタイトルも同じく、『「言語伝達に関わる介入の被害可能性」(第一部第二部を読むことを前提とする)』といたします。ここにおいては「介入」について記します。「介入」をこう捉えます。「当事者以外のものによる割り込み」と「当事者内外をも含む情報伝達への干渉」をさします。広義だとか狭義だとかそういう説明では射程域に不足することが多いと思いますので、あえて意味の射程を記しません。一分野に限るご理解ではなく学際的に総合的に捉えていただきたい。当然に、詐称するということをも含みます。
「介入」とは何かを考えます。ここでいう「介入」は「行為」による「結果」と捉えて、刑法総論にみるような因果関係における「結果」を第一に前提とするという説ということではないのです。「言語伝達に関わる介入の被害可能性」と一連の表現としてここでいう「介入」を捉えて頂きたい。諄くどいようですが、その際には「被害可能性」という造語としての先の話による私の説明を読んでいる前提です。
どのような介入手段が考えうるのかそして被害可能性とみて備えることを説くのではなく、言語伝達にどのような介入となりうる性質があるのかを説いていく考えていくわけです。
政策には審査というものがあります。政策する上では一般に意見公募というような形式があります。各省庁へ個人や法人が意見できる分量は決まっていて、個別政策ごとに千字二字といったくらいです。意見公募に関しては法律省府令条例で定められた官庁役所内部規則および規範や条文があります。
意見公募に限らずない広範な行政の実務において法務において、個人に対する審査があります。このとき「形式」を要します。「形式」とは主に書類です。電子申請が促進されるなかでも、その核は書類といえます。ここにも「介入」は発生しうる。詳しくは書きません。
券面偽装というものが起こる。虚偽の申請が起こる。重複登記が起こる。人の認識には情報量の取り扱いに限界や、識別言語による識別限界というものがあり、行政の限界というものもまたある。行政の範囲はは広い、行政の及ぶ範囲としても広いが、行政の過程には官民が影響する。この意味では限界というものを一義的に捉えることはできない。法律があり、条例があり、規則があり、役場にも慣習があり、第三者委員会などもあり、行政内部の監査もあり、指定管理があり、指定管理にはまた別の規則があり法律がある。
民間でも契約という形で審査があり、その在り方は常にあらゆる場で問われている。都道府県地方議会であっても審査が行われる。規範や審査や契約の樹形図というものはその実単純ではない。たとえば民法をみてみても複雑なんだろうという大まかなイメージはわかるだろう。面のグラブで捉えている、二元論で捉える者は愚かだ。あらゆる位相がある。この世は、国際社会は、多層の位相を持つ、面だけではない角度があるのである。
「介入」に対しては官民社会は厳格であろうとするし電子についても同様であるし個人もそうである。厳格さの要求には功罪がある。通信技術の経済抗争が新聞紙面に連日でてくる。国際社会の国々は内外に問題を抱えていることをわきまえている。外交的なところには触れないでおくというよりも恐れ多い
。いつの世も政治は大局に経済外交をみているといえるが、国民のことをみていないわけではない。「介入」における官民も同様である。
ブロックチェーン技術の欠陥については、次の第4部において考えの記述を行う。
「介入」をする者、「介入」に対し不作為をしている者、不作為の方針をとり放棄する者、数々の大きな潮流にあると自覚すべきである。はたしてそこにいいやその樹形図の先に、功罪としてではない徳義はあるのだろうか。私に自身にもそのことが身に染みるように心に刻むべきだと考えて、技術、電子的記録による公衆送信という消極的な活力に頼っている。私は人間であって「人」に至っていない。