6話
「ゴホッ、ゴホッ…」
朝、体を起こしたマールの口から咳が零れる。
体がだるく、軽いが頭痛をするところを見るとどうやら風邪をひいてしまったようだ。
昨日の夜、窓を開けて夜風に当たっているうちにいつの間にか寝てしまったのが原因だろう。
できればオータムや、メイ、それに他の使用人達にうつさない様に今日の仕事は休んだほうがいいのだろう。
だけど、そういうわけにもいかない。なぜなら、使用人の中の数人が休暇を取って旅行に出かけてしまったからだ。
元々オータムやメイはそういうことには寛容なため、こういった風に使用人が数人で旅行に出かけることは多い。
今日・明日・明後日と三日間は作業量が多くなることになっている。
さらに、マールが休んでしまうと他の使用人への負担が大きくなってしまう。
体を動かせばあまり気にならないだろうと思い、マールは使用人服に着替えて使用人室へと向かう。
歩いても特に目まいなども起きないから大丈夫だろう。
「おはようございます」
「おはよう、マール。今日から三日間大変だろうと思うけどよろしく」
「はい」
使用人室には既にパールスが椅子に座っていた。
マールは机の上に置かれている予定表に目を通す。
予定通り、各使用人に対してビッシリと作業が割り振られている。
いつもは基本的に使用人室で作業をするパールスまでも他の使用人同様にシーツの交換などの作業に入っている。
…やはり、マールが休める余裕はないようだ。
とりあえず仕事開始まで少し時間がある。
パールスが椅子から立って使用人室に設置されている洗面台に向かったことを確認してマールは救急箱から風邪薬を手に取った。
それを使用人服のポケットに入れると、コップを取りだして流しに向かう。
水をコップに入れて、パールスに分からない様に風邪薬を飲む。恐らく風邪を引いていることが分かると強制的にベッドに連れ戻されるだろう。
薬を飲み終えたマールが椅子に座ると他の使用人達も続々と使用人室に入ってきた。
「おはようございます」
「おはようございます」
もう一度マールは自分の作業予定を確認する。
最初は洗濯からのようだ。
マールは洗濯籠を持って使用人室から出る。
各部屋から洗濯物がないか周り、全て集め終わると洗濯機に入れる。
大体洗濯機が回り終わるのが30~40分。その間は洗濯機が置かれている周辺の簡単な掃除を行う。
掃除が終わったがまだ洗濯機は回っている。とはいってもそろそろ終わるだろうだから、マールは近くの椅子に座って回り終わるのを待った。
始まって間もないのに少しずつだが体がきつくなってきた…。少しでも体を休めないと最後まで持つかどうかも分からない。
体を休めていると『ピィーピィー』と洗濯機から甲高い音が鳴り始めた。
洗濯機が回り終わったようだ。洗濯機から洗濯物を取り出すと今度は干し場へと向かう。
外に出ると日光が干し場に降り注がれている。
マールは一枚一枚丁寧に洗濯物を取っては干していく。
いつもは何でもない作業なのに今日はきつい…。やはり、風邪を引いてるせいか体力が落ちているようだ。
さらに、干している最中にも咳が出てきて止まらない。まだ人前では出ていないからいいだろう。
なるべく早めに作業を終わらせようとマールはペースを早めて作業を行う。
それを見つめている人物がいる。
執務室の窓にもたれかかってマールを見つめている。
「キース様、どうかされましたか?窓の外に何か珍しいものでも?」
マールを見つめていたのはキースだった。
作業を始める前に部屋の換気を行おうと窓に近づいたら洗濯物を干しているマールを見つけたのだ。
相変わらず真面目に働いているなと思って、作業に戻ろうとしたがマールが口に手を持っていくのが見えた。
…くしゃみでも出たのだろうか、それにしては少し様子がおかしいような気もするが。
それから何度も口に手を持っていくのが見えた。
それもここからだからよく見えないが何か苦しそうにも見えた…。
どうする、強制的に休ませた方がいいのか。
でも、マール自身が納得しないと休もうとしないだろう。
どうするか…、そう悩んでいたところにユートに声をかけられたのだ。
「…なんでもない」
「そうですか?なら、まずはこちらの書類に目を通していただけますか?」
「分かった。…なぁ、ユート」
「なんです?」
キースはユートから差し出された書類に目を通しながらユートに声をかける。
ユート自身も他の書類に目を通していたが、キースに声をかけられて書類から目を離す。
「一つ聞きたいんだが」
「なんでしょう」
「意地っ張りを説得するにはどうしたらいいと思う?」
「…はい?」
「だから、意地っ張りを説得するにはどうしたらいいと思うのか聞いたんだ」
「…難しい問題ですね。私の知り合いにも一人意地っ張りがいるのですが、説得しようと試みてもなかなか聞こうとはしませんし」
「だよなぁ…」
キースが誰のことを知っているのかユートにはすぐに分かった。
恐らくマールのことを言っているのだろう。
マールは一度決めたことは何を言われようとも止めようとはしない。
説得する方法があるならばユート自身が聞きたいぐらいだ。
「どういう説得をするかは知りませんが、やはり直接伝えたほうがいいでしょう。聞く聞かないに関わらず」
「う~ん…。あ、ユート。これ出し直させろ」
「…どこかおかしなところがありますか?」
「あぁ。ここの金額が昨日見たものと変わっている。何故変わったのか理由を別の紙でも構わないから書かせて提出させろ」
「はい。承知いたしました…」
マールの話しをしながらキースはしっかりと書類を確認して、おかしな点も見つけていた。
やはり、キースは領主になる力量は十分にあるだろうと認識させられる。
ユートが次の書類を渡そうとするがキースはそれより早く立ち上がる。
「キース様?」
「悪い。ちょっと出てくる。すぐに戻ってくる」
「…分かりました。できるだけ早くお戻りください」
ユートは止めることなくキースを送り出してくれた。
キースはユートの言葉に頷くと迷うことなく干し場へと向かう。
干し場に向かっていると、洗濯物を干し終えたのかマールがこっちに歩いて向かってきていた。
マールはキースの姿を見ると一度だけ頭を下げる。
「キース様、おはようございます」
「おはよう、マール」
マールはキースが去っていくのを待っていたが、キースは立ち止まってマールのことをずっと見てくる。
「キース様、何かご用ですか?」
「…マール、何か言うことはないか?」
「いえ、特には何もありませんが」
「体調のこととかなにもないか?」
…ばれてる?
キースに自分の体調のことがばれているのかもしれない。
だが…今日初めて会ったキースにばれていることは考えにくい。
だったら、まだこのまま嘘をつきとおせるかもしれない…。
「いえ、本当に特にありません」
「そうか…」
キースはそれだけ言うとマールとすれ違って歩いていく。
マールはなんとかばれずに済んだと安心して使用人室に戻っていく。
が、手をキースに掴まれて引きとめられた。
「…馬鹿が」
キースはマールを引き寄せるとマールの額に手を寄せる。
やはり、通常よりも熱い…。熱があるのはすぐに分かる。
「なんで熱があるのに無理するんだ?」
「ね、熱なんてないです」
「あのなぁ…、熱があるのはもう分かってるんだって。なぁ、マール…なんで休まずに仕事をしたんだ?」
マールはキースの顔を見てもう言い逃れはできないだろうと悟った。
問い詰めようとしているキースの顔からマールは眼をそらしながら口を開く。
「…今日は他の方が休んでますので仕事量が普段より多いんです。なのに、私まで休んでしまったらさらにパールス様達の負担が大きくなるので」
「だからってこんな無理して体を壊したらその方がパールス達の負担も大きくなるだろうし、心配もかけるんじゃないか?」
キースの温かい言葉にマールは首を振り、キースと視線を戻す。
「でもこのぐらいの熱なら大丈夫だと思います。体を動かしてたらきっと気にならないだろうし」
「…嘘つけ。さっき洗濯物を干してたところを見てたがとてもじゃないが、そういう風には見えなかったぞ。今日は休め、いいな」
「このぐらい大丈夫です」
「大丈夫じゃないから言ってるんだろうが!」
どうしても休もうとしないマールに対してついキースは声を荒らげてしまった。
他の人に声を荒らげることはあってもマールに対してはあまりこういった態度を取ったことはなかった。
そのため、マールはキースの声を聞いてビクッと体を震わし、キースを見る目が少し怯えたように見える。
それを見てキースは居心地が悪そうに視線をそらす。
「…悪い。つい声が大きくなった」
「いえ…」
「…お前がそこまで言うのなら俺ももう休めとは言わない。だけど、調子が悪くなったりしたら絶対に休むこと。いいな?」
「はい」
キースの提案にマールは迷うことなく頷く。
マールは正直嬉しかった。ここまでキースに心配してもらえることにだ。
だが、それに甘えることは今のマールにはできない。
マールはキースに一礼だけするとまた仕事に戻っていく。
それを見送り、キースは一つ溜息をつく。
本当なら強制的に休ませた方がいいのだろう。だけど、あれほど意思が固いとなるとそう簡単にはいかない。
それに、もし強制的に休ませたとして今日はそれでいいだろう。
だが、それをしてしまうとマールはきっと気を使ってしまいまた目の見えないところで無茶をするだろう。
それをキースは避けたかった。目を見えないところだとキースにはどうしようもないからだ。
マールの体調のことをパールスに伝えとこうとも思ったが、それだとマールの立場が悪くなるかもしれない。
かといって、キースがずっと見守ることもできない…。とりあえずユートにだけ相談してマールの行動に注意を払ってもらうようにしよう。
キースは早足でユートが待っているであろう執務室へと戻った。