3話
キースは自分の執務室で書類の確認に追われていた。
内容自体はあまり大切なものはない。キースに回られるものは少し確認をしてハンコを押せばいいものばかりだ。
だが、その量自体がかなり多い。一日かけてやっと終わる量だ。
ハンコを押しながら思うことはただ一つ、幼馴染で今は使用人のマールだ。
いつかまた昔のように自分に敬語無しで笑顔で話しかけてほしい。
だけど、16歳からこの4年間笑顔で話しかけられことなどないかもしれない。というかキースと一緒にいて笑顔になったことがない…。
他の使用人と笑顔で話してるのを見ることはあるがキースへ向けられたことなどない。
まさか嫌われているのか…と思ったこともあったがそうではない気はする。
小さいころにキースがプレゼントした髪留めを今でも大切に使ってくれてるようだ。もし嫌われているのならば使ったりしないだろうし…。
そんなことを考えているとついハンコを書類に押す手が止まってしまう。
それをキースの秘書、ユートに見つかってしまった。
「キース様、手が止まっていますが」
ユートの言葉にもキースは特に反応を見せない。
それどころか窓の外に視線を向けて呟く。
「…ユート。俺いつまでこんなことしてるんだろ」
「いきなり何を言い出すかと思えば…。領主になるにはこういう仕事をこなさなければいけません」
「なぁ、ユート。お前は知ってるのか?」
「…何をですか?」
ユートの言葉の相槌にしては特に関係ない言葉が返ってきた。
質問の意図が掴めないユートは眉を少し顰める。
「マールのことだ」
「…マールがどうかしましたか?」
「俺のことを『様』付けで呼ぶことになった理由だ」
「…今さら、ですね。今までそんなことを聞かなかったのに」
「うるさいな。で、知ってるのか?」
「使用人としては当然のことかと思いますが?」
「…ユート、そんなことを言わないでくれよ」
キースがへこんだ声を出すとユートは一つ苦笑いを浮かべる。
かけていた眼鏡を外して胸ポケットに入れると執務室にある空いている椅子に座った。
「久しぶりに見たな。お前のそんな顔」
いきなりユートの口調が馴れ馴れしくなった。
が、キースにはそれを咎める気もないようだ。
ユートはキースよりも10歳上で兄のように慕っていた。
マールがマーリッヒ家に来た時にはまだマーリッヒ家にはいなかった。キースが10歳になるときにこの家に雇われてきた。
それからは、キースだけなくマールにとっても兄貴的存在になっていた。
キースは今でも二人きりになるとユートに相談をしたりする。ユートもその時は兄として答えてくれる。
秘書か、兄貴なのかその線引きをユートはかけている伊達眼鏡でしている。伊達眼鏡をしているときは秘書として、外すと兄貴としてキースに接してくれる。
今は眼鏡を外しているので兄貴として接しているということになる。
「…うるさい。それで本当は知ってるのか?」
「まぁ、な。お前が勉強に出たころまではまだキースと呼んでいたんだっけ?」
「そう。俺が帰って来た時から様付けで呼ぶようになった…。その間になにがあったんだ?」
「ん~…、俺が知ってる限りだとマールが自分からそういう風になったような気がするけど」
「自分から?」
「あぁ。俺のこともユート『兄さん』って呼んでいたんだが、急に様付けになった。パールス様も急に『様』付けになったらしい。…何か思うところがあったのかもしれないな」
「思うところ?」
「ちょうどマールが15歳になったころだ。だから、きっとマールにも何か思うところがあったんだろう。お前が15歳になったときに後継者として公務を一生懸命するようになったように」
「…だからって、あんな風に我慢したって」
「我慢?」
「あんな姿を見たってなんかマールらしくない。小さいころのマールは元気一杯で、笑顔で俺や皆に元気をくれていた。ユート、お前だってそう思うだろ?」
「それはそうだが…。ほら、そんなことより早く書類を片づけてくれ。明日には別の書類が来るんだぞ」
「はいはい…。書類整理ばっかだな」
作業に戻ったキースを見ながらユートは窓に近寄り、執務室の窓から庭を覗く。
そこには一生懸命花壇の水やりをしているマールの姿があった。
ユートは先ほどのキースの言葉を思い出していた。
確かにマールがあんな風にキースだけでなくユートやパールスにも線を引くように接するとは思いもつかなかった。
小さい頃は『ユート兄さん』とよくユートが仕事しているところにも遊びに来ていた。
ユートも仕事の合間を縫って良くマールと遊んだものだ。勉強が終わったキースも交じって庭を走りまわったこともあった。
だが、15歳からその日々も変わった…。本当に急にマールの態度で変わった。
仕事をしているキースに目線を向ける。ユートの視線に気づかないのだろう、キースは書類に間違いがないことを確認してハンコを押していく。
今のマールに向かって『我慢している』と言ったキース。そんな風にはユートには感じれなかった。
だが、小さい頃のマールから比べると我慢してるのかもしれない。
大人になったということかもしれない。だが、15歳になる前までマールは笑顔が絶えない子だった。
ユートだけでなくマーリッヒ家で仕事をしている人全員に元気を振りまいていた。
だが、15歳の誕生日からマールから笑顔が少なくなった。
そこに何があったのかユートには分からない。けれど、マールに何か思うところがあったのだろう…
弟と妹のような二人のことを気にかけながら伊達眼鏡をかけ、ユートは秘書としての仕事に戻った。
数分後、キースの仕事が一段落したところで二人は小休憩を取ることにした。
ユートはその休憩時間を利用して使用人室へと足を向ける。
使用人室の中を覗くと目的の人物、パールスが何かの紙と睨めっこをしていた。どうやら仕事の割り振りを考えているようだ。
パールス以外の使用人の姿が見当たらないことを確認してユートはパールスに声をかける。
「パールス様」
ユートの声にパールスは紙から視線を上げる。
ユートの姿を確認してパールスは少し驚いた。あまり使用人室には男性は入ってこない。
使用人には男性もいるが、男性は他の部屋を使用しており基本的に使用人室は女性陣の部屋と化しており、男性の使用人でも用事がない限りは近づかない。
それなのにキース専属の秘書のユートが現れたためパールスは驚いたのだ。
とはいえ、二人はキースとマールの世話を通して仲が良かったのですぐに笑顔になった。
「おや、ユートじゃないか。どうかしたのかい?」
「ええ。ちょっとお話がありまして…。今、お時間よろしいですか?」
「構わないよ。お茶でも入れるからそこに座りな」
パールスは近くに置いているティーセットに手を伸ばす。
ユートはお礼を言って、先ほどまでパールスが座っていた椅子とは真正面の位置に腰を降ろす。
紅茶を二つ入れ終わったパールスは一つをユートの前に、もう一つを自分の前に置いてパールスは元座っていた椅子に座る。
「珍しいじゃないかい。ユートがここに来るなんて」
「他に相談できそうな方がいらっしゃらなくて」
「なんだい?私が力になれることなら聞いてあげるよ」
ユートはパールスが入れた紅茶を一口口に含み喉を潤おす。
「実は…キース様とマールについてなんです」
「…二人がどうかしたのかい?」
「パールス様は今の二人を見てどう考えてますか?」
ユートはゆっくりとパールスに向かって相談の内容を声に出した。