10話
マールが風邪を引いてから約一ヶ月がたった。
毎日の努力が実ったのか、マールの態度が少しずつではあるが前のように戻ってきているようにキースは感じとっていた。
キースの方から行動しないと呼び捨てでは呼ばないが、それでも少しずつだが戻ってきているだろう。
毎日少しずつキースはマールと接する時間を作るようにしている。その時間を楽しみに執務を行っているといってもいいぐらいだ。
そして、今日もキースは執務に追われている。その近くには同じようにユートも仕事モードでキースが確認した書類をまとめている。
今は無言だがその部屋にノックの音が響く。
「どうぞ」
ユートが入ってくるように促すと一人の使用人、名前はカーネルという、が入ってきた。
一度会釈をしてからカーネルは用件を告げる。
「失礼いたします。実は今玄関にキース様にお会いしたいという方がお見えになっておりますが」
「客?…ユート、今日そんな約束あったか?」
キースがユートに聞く前に既にユートは予定表を手に取って捲っていた。
今日の予定を指でゆっくりと辿っていき、確認していくがそんな予定は入っていない。
「いえ、今日はそのような約束は入っておりません」
「だよなぁ…」
「それが…近くに来たものだから顔を見せに来たということなのですが…」
キースとユートの会話を聞いていたカーネルは申し訳なさそうに二人の会話に口をはさむ。
カーネルの説明を聞いたキースは不思議そうに顔を向ける。
「顔を見せに…?名前は聞いてるか?」
「ユーハク家のロール様です」
ユートは自分の頭の中で今の情報を整理する。
ロールと言うのはユーハク家の一人娘のはずだ。
だが、マーリッヒ家と関係はほとんど無い。
「ユーハク家?…キース様、ご存知ですか?あまりマーリッヒ家とは関わりのないのですが」
「…そういえば確か他領国の学校に通っていた時に何回か話しかけられた気がする」
「それだけですか?」
「それだけ…のはずだ。だけど、それだけで…わざわざ来るかなぁ?」
ユートの確認にキースは苦笑いでユートに確認で返す。
ユートは『さぁ?』と肩を動かし眼鏡を上げなおす。
「それでどうしますか?お会いになりますか?このままだとカーネルも困るでしょう」
「仕方ない、会うだけ会うか。応接室に通しててくれるか?」
「かしこまりました」
キースは面倒くさそうにそういうとカーネルに指示を出した。
カーネルはもう一度頭を下げると客の対応のために部屋を出て行った。
キースは近くにかけられていた上着に腕を通す。
念のためにメモ帳も手に取ってからキースはユートに声をかける。
「じゃあ、ちょっと行ってくるな。すぐに戻ってくるから」
「かしこまりました。それとお気をつけください」
「…何をだよ?」
「あまり女性に慣れていらっしゃらないでしょう?あまり気を許しすぎないようにお気をつけください」
「了解」
キースはユートの返事に軽く返事をして部屋を出て、応接室に向かう。
応接室までの廊下を歩いていると花壇に水やりをしているマールの姿があった。
立ち止まってその姿を見ているとマールが水をまくのを止めてホースを地面に降ろした。
水やりが終わったのかと思ったが地面にしゃがみこんですぐに立ち上がった。
ちょうど植木があったので何をしているのか見えなかったが、マールの腕の中にはさっきまでいなかった子猫の姿があった。
マールが顔を近づけると子猫がマールの顔を舐めているのが分かった。マールは笑顔で子猫の頭を撫でたりしている。
小さい頃からマールは動物が好きで、屋敷に紛れ込んできた猫や犬の面倒を見ていた。とはいえ、屋敷で飼うことはなかった。
一時的に屋敷で世話をし、近くの町に里親の募集を出したり飼い主を探したりしていた。
猫や犬が引き取られていくと寂しかったのか必ずその日の夜はキースの部屋にやってきて一緒に眠っていた。
昔を懐かしんでいると、前からカーネルがやってきた。
「キース様。ロール様が応接室がお待ちです」
「悪い、すぐに行く。…それと食堂に行って子猫用に何か作ってもらうように頼んでくれないか?」
「え?」
キースの言葉の意図が掴めなかったのだろう、カーネルが首を傾げる。
キースは窓の外を指差すと、カーネルはそれに従って視線を窓の外に向ける。
庭で子猫と戯れているマールの姿を見ると『もうっ』という呆れたような言葉がカーネルの口から零れる。
マールとカーネルはマーリッヒ家で働いている使用人の中でも歳が近いこともあって仲がいい。
「マールったら。仕事中なのに…」
「そういうことだからよろしくな」
「はい、かしこまりました」
カーネルは一回お辞儀をしてから食堂に向かって歩いて行った。
キースはこれ以上待たすのも問題かと考えロールが待っている応接室へと足を向ける。
…にしても何の用だろう。
特に学校に通っていた時もあまり交流はなかったはず。ユートにも言ったが基本的に男連中と話をしていた。
正直ロールと言われても顔が出てこない…。名前がマールに似ていたこともあって記憶の片隅に入っていただけでどんな会話をしたかも覚えていない。
話を合わせるしかないか…、結局その結論に至った。
応接室の前に立ったキースは礼儀として一度服装を直してから部屋のドアを開けた。
「お待たせしました」
「…お久しぶりです、キース様」
キースがドアの中に入ると座っていたロールが立ち上がって微笑む。
その立ち振舞いは大半の人は優雅と感想を抱くだろう。だが、キースの抱く感想は違う。
やはりロールの姿を見てもどんな会話をしたのか思いだせないのだ。それよりもこんな人いたのかっていう感想の方が正しいだろう。
だが、そんな感想は臆面には出さず笑顔でキースはロールに話しかける。
「どうぞお座りください。本日はどのような御用件で?」
「急に訪問してしまい申し訳ございません。近くまで来たものですから学友のキース様の姿を拝見したくなりまして…」
「そうですか」
ロールは少し恥ずかしそうに訪問した意味を伝える。
が、キースはそれを聞いて特に反応することなく頷く。
少し間が空いて応接室のドアがノックされる。キースが返事をするとお茶を持ってカーネルが入ってきた。
「失礼いたします。お茶をお持ちいたしました」
カーネルはそういうとお茶をキースとロール、それぞれの前に置くとティーポットをテーブルの上に置いて部屋から出ていった。
キースは自分のカップを手に取るとロールにも促す。
「よければロール様もどうぞ。紅茶ですが大丈夫ですか?」
「ええ。いただきます」
ロールは笑顔でカップを手に取ると口を付ける。
一口飲むとロールはキースにゆっくりと話しかける。
「…キース様は御縁談とかは?」
「まだ若輩者ですからそんな話はありませんし、あっても断っています。今は次期当主として少しずつ仕事をこなしている毎日です」
本当は他にも理由があって縁談は断っているのだがそれを親しくもない、他人に近い人物に話すつもりはない。
その理由を知っているのはキース以外はオータムとメイ、それにユートぐらいだろう。
「そうですか…」
そんなことは知らないロールは少し安堵した表情になっている。だが、それにキースは気付かない。
表情が変わったかどうかも分からないぐらいキースはロールに興味がないのだ。
早く執務に戻って終わらせてマールとゆっくり話そう…。そう考えたキースはもう話を終わらす方向へ動かす。
「…申し訳ありませんが、私は予定がありますので」
「あ、すいません。急に訪問してしまって…」
キースが立ち上がるとロールも立ち上がって申し訳なさそうに笑う。
それにキースは愛想笑いを返してドアを開けてロールを先に廊下に出し、キースもその後を追って応接室を後にした。