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ルスラン 6
僕は中等科二年になった。と、同時に「特待生」の資格を得た。これで故郷の父からの送金を抑えられるし、公妃や国の者達に感じる負い目も少なくて済む。
先生方や司書の手伝いを志願し、自分で使う小遣いぐらいは稼げるようにした。
勿論、恋に浮かれる余裕も暇もない。でも、そんな事は僕には不要に思えた。
リノへの思慕は続いていたからだ。そして、それを思い出にする努力も…
上級生から誘われる機会も増え、僕は出来るだけ断る事をしなかった。
リノは本物の恋を探せと、僕に言い残した。
今の僕にはそれが必要とは思わなかったけれど、元来人との付き合いは苦痛ではなかった。何より、人間は面白い。その魂の奥深さ、軽率さ、邪さ、純粋さ…
すべてを解くことはできない。けれど、人の感情の機微を知る事は、自分の心の襞を重ね、智慧となり、僕の魔力の源になるような気がした。
自分より大人の上級生との接触は、刺激的であり、滅多に味わえない食事をするようなものだった。
「天の王」の生徒たちの大方は、色恋沙汰に長け、楽しむための恋をしている。
それは新鮮で魅惑的で、冒険に富み、甘美な痛みと歓びを味わう青春の一時。
僕は身持ちの堅い修行僧になる気はなかった。
リノのように飄々と生きるのも一興。
今この時が、僕の人生で、最も自由な瞬間なのかもしれない…そんな想いが慎重だった僕を大胆にした。
自分の宿命がどうであれ、僕は僕の欲求のままに生きてみてもいいのではないか、と、自分に言い聞かせていた。
リノのくれた林檎の木は、リノが卒業した後、実を宿してはくれなかった。肥料をやっても土を変えても、白い花をちらほらと咲かせてはくれるが、実を見ることは無かった。
「リノはどんな魔法でこの林檎の木を育てていたのかしら。僕には生命を宿す魔力はないらしい。せめて枯れないように…祈るしかないね」
木々の間を自由に飛び移る術を覚え、少しずつでも飛行時間を伸ばし、木々の天辺までの高みなら飛ぶ事さえできるのに、林檎の実を成らせることすらできないなんて…。
中等科を卒業して、高等科へ進学する夏休みに、僕は久しぶりにメジェリ国へ帰った。
三年ぶりに見る父は、すっかり老けてしまって、何だか申し訳なく、公妃の態度は随分と柔らかくなり、城も召使たちも何もかもが、とてつもなく古びたものに思えた。
そんな中で、七つ下の弟のユークの成長は、思いがけない喜びだった。
相変わらずの純真さで僕を慕い、絶対的な尊敬の眼差しは僕を幸せにした。
「兄上は特別に成績が良いんだって父上に聞いたのだけど、どうしたら、そんなになれるの?僕、あまり勉強が好きじゃないの。いつも先生に怒られちゃうんだ」
「そう、でも大丈夫さ。そうだな…うん、ユークが興味を持ったものから、学んでいけばいいんだ。好きな科目はある?」
「僕、お花を育てるのが好き。綺麗なお花を見ると、幸せになるの。綺麗なお花をたくさん育てて、みんなを幸せにしたいな~」
無邪気なユークの言葉に、僕は心打たれた。
彼の思考もまた、甚だ無垢なものであり、僕にもこんな時があったりしたのだろうか、と、苦く思ったものだ。
「ねえ、兄上。僕ももう少し大きくなったら、兄上みたいに『天の王』に行ってはいけない?母上に頼んだら、とんでもない!って怒られちゃったけど…兄上みたいに立派になれるなら、頑張って勉強するのに」
公妃の言葉は尤もだと、僕は思わず声を出して、笑ってしまった。
僕にとっては居心地の良い「天の園」であっても、ユークには「悪魔の園」になる事は請け合い。とてもじゃないが、お勧めできるはずもない。
「ユーク、お母様のおっしゃることは正しい。『天の王』じゃなくても、立派な人間になれるし、ユークはいずれ、このメジェリ国の公王になるのだから、この国の為に何ができるかを学ぶことが一番大切だよ」
「そうかなあ~」
僕は己の事しか考えていないのに、弟にはこの国の責任を都合よく押し付けている。
これだけでも「天の王」の教育の罪は重いんじゃないか?
いや、罪は己のもの。生まれ持った魔力に対する罰とも言えるもの。
誰の所為でもない…
「兄上?どうかしたの?」
「え?…なんでもないよ。とにかくユークがこの国を花で一杯にしたいのなら、土壌を育てたり、温室を広げる事やら、色々とやるべきことはある。たくさん勉強しないとね」
「うん!兄上も学校を卒業したら、この国に戻ってくるのでしょ?僕と一緒にたくさんのお花を育てるのを手伝ってね」
そう言って満面の笑みを湛える弟に、僕は返事が出来なかった。
この国に戻りたくない。
今更何を言っているんだ。
これは契約だ。
今の自由は、未来の束縛の代償でしかない。
僕は父やこのかわいい弟の為に、僕の魔法を役立てる為に、ここまで育ててもらった恩を返さなきゃならない…
「天の王」の自由な生活が、僕の魂を怠惰にした。
同じように智慧を知るにつれ、メジェリ国の為に生きる喜びを探せなくなっていた。
二年生、そして三年になり、卒業後を考える時が来る。
先生方は大学への進学を勧めた。
どこの大学へ入学するにしても推薦を貰えるし、奨学金も得られる。
だが、国の父はそれを望んではいないだろう。元より相談する気は無かった。
これ以上、僕への教育費など、頼めるわけも無い。
おのずと決められた未来に、僕はうんざりしていた。
だから、素行も悪くなる。
昔から、一度身体を躱した相手と、二度目は無いと決めていた。
理由は簡単だ。
相手に触れた時に、僕は未来をある程度予見できた。
相当な手練れのアルトには通じないが、大方の感情は知ることができる。
セックスで昂ぶった相手の心の中なんか、すこぶる単純な感情しかない。
相手を自分のものにできるか、否か、だ。
僕は、誰のものにもなる気が無い。
そして、誰を嫌う事も、心から好きになる事も望まない。
彼らの僕への好意は、単純に心地良かった。それ以上、求めようもない。
僕は、自分が誰かを幸せにできるとは、思えなかった。
誰かの幸せを祈る事は出来ても、僕がそれを与えられるとは、到底思えなかった。
だって、僕は…
僕は…
ハールートは三つ下の美しい男の子だ。
蜂蜜色の巻き毛を揺らし、サファイヤの瞳で誰をも魅了し、その優雅な身のこなしは選ばれた貴公子。
裕福な貴族の典型的な若様らしく、我儘と権威と自己顕示欲を振りかざしては、他人を軽んじる。その癖に、それが我が身を傷つけているのも知らずに、懸命に自分の道を探す姿は、滑稽を通り越して、哀れにさえ思えた。
ハルは僕を「心から愛している」と、言った。
彼の一途な熱情と、隠れ見える計算と、僕への期待は、同情を付加させた上の愛しさとなった。
ともかく、身体を躱す相手は一夜とばかり決めていた僕を、仮初とは言え、恋人にさせた事実は、彼の膨大な自負を充分に満足させただろう。
隣に眠るハルの思念を、僕は何度覗いた事だろう。
魔力を持たないイルトである事を幸運だと自らに言い聞かせながら、アルトを羨み、あわよくば、自分の為に動くコマにしたい、と、願う幼い計略は、僕を楽しませた。
なるほど、彼のカリスマは確かに強力ではあった。
だが、真実の愛はもっと根源な感情に寄り添わなければならないのではないだろうか。
僕はその幼さに敬意を表した。
なんにせよ、ハルは魅力的だったのだ。
「天の王」を卒業するまでの一時の熱病に、僕は浮かれていたかった。
僕は誰かを愛したがったのだ。
この内なる孤独から逃れたかったのだ。
秋が深くなり、僕は久しぶりにリノの林檎の木に会いに行った。
今年も林檎を実らしてはくれないのだろう…と、憂いていても、リノからもらった愛情の証を大切にしたかった。
日が傾き、林檎の木の影が、足元の落ち葉に長く映し出され、その影が、少しだけ揺らめいて見えた。
顔を上げて、林檎の木の上を眺めた。
信じられない事に、紅い実がたわわに垂れている…
そして、その枝の上で蠢く人の影。
良く見ると、子供が林檎を食っている。
「こらっ!勝手に林檎を食うんじゃないっ!これは僕の林檎の木だ!」
普段、滅多な事では感情を剥き出す事はない僕だが、リノから貰った木がやっとの事で実を付けたのだと思ったら、思わす怒鳴ってしまったのだ。
「はあ?誰の林檎だって?勝手な事ほざいてんじゃねえよ。これは俺が見つけたんだ。俺の林檎だ。文句あるなら、ここまで来てみやがれ!」
良く透るソプラノの声には、恐ろしい程の生命力があった。
僕は影になったその少年の姿を、見定めようと目を見張った。
「こいつでもくらえっ!」
僕に向って勢いよく投げられる林檎をひとつひとつ受け止めながら、僕はこの少年の正体を一刻も早く知りたいと願った。
「ちょっと待ってくれ。君、わかったから、むやみに投げつけるのは止めてもらえないか?林檎は好きなだけ君にあげるから。これ以上僕が林檎を受け取ってしまっても、持ち帰れない」
「あ、そう?じゃあ…」
あっさりと彼は言い、相当な高さのある枝からすらりと飛び降り、地面直前にクルリと一回転をし、僕の目の前に立ち上がった。
僕の胸元程しかない背。きっとユークと同じくらいの年の子だろう。
黒髪に色白の…見事な美貌と、恐るべきオーラに満ち溢れ…。
その子の黒眼が僕をキツく見上げ、威嚇した。
「ここは保育院管轄の庭だせ?何勝手に入ってやがる。おにーさん、見慣れねえ顔だな。不法侵入で訴えても良いが、あの林檎を自分のものって言いやがったな。理由はなんだよ?」
「…」
「おい、どうした?…ああ、俺の顔に見惚れてしまったのかい?まぁね、仕方がねえや。俺は類まれなる選ばれし者だからな。しかも、今日は特別に眼鏡無しの日だ。(壊して修理中だけの話)いいかあ、この俺さまはなあ、世界一の魔法使い、つまり~この世の魔王になる者さ。俺はアーシュ。未来永劫、俺の名前を忘れる者は、この星のどこにもいなくなる。俺の予言だ!わかったかい?白銀のおにーさん」
僕は言葉を失ってしまった。
全くもって、彼の言う様に、ただただその存在に、僕はすっかり参ってしまったのだった。