09 憧れるもの
本日の王立フェレイオ学園も滞りなく全ての講義が終わり、太陽忌避夜行性種族の講義を残して下校の時間となった。
ここ一年B組のクラスでも疲労を顔に浮かべた生徒たちが家路につくため、席を立ってぞろぞろと廊下に出て行く中、シリルは席に座ったまま夢中になって何かを書き連ねていた。
「早く……頑張って早く終わらせないと、犬さんや猫さんに負けちゃいます」
サンクトブリエンツェの商店街の一角にある老舗精肉店「ドン・アルトリオの店」は、名前と店主こそいかついももの、夕方の閉店時に切り落とし過ぎて売り物にならないクズ肉などを野良犬や野良猫に振る舞う優しい店である。
これもまたシリルの穴場となり、野良猫たちに混ざってちゃんと順番で食材を頂いていたのだが、シリルが下校時間に素直に帰れない障壁が立ちふさがった。
【補習】である
支給された教科書を逆さまに持つほどに文字の読めないシリルは、せめて読み書きぐらい出来る様にと、学年主任のアンヌフローリア女史から補習の命令を受けてしまったのだ。
「あ、あああ……早くしないと店が閉まる! 」
マッハの勢いで文字をノートに書き連ねているのだが、心ここに在らずならばそれが身になる訳が無い。
精霊王に拾われたシリルは乳飲み子の頃は世話になったが、一人で歩ける様になった頃から始まった超放任主義の元で、山野を駆け巡りながら自給自足で生きて来た。
つまり今は文字を書く練習よりも、夕飯の肉を確保する事が先決なのである。
ところが、書いたノートを職員室に持って来いと指示していたはずの本人、アンヌフローリア女史が教室にやって来た。
「どう、ちゃんとやってる? 」
背後に回ってノートの中身を見ると、彼女はガクンと肩を落として大きなため息を吐いたのだ。
「シリル君間違ってるわよ……その組み合わせだとシュリイルでしょ。自分の名前ぐらい書ける様にならないと」
「ええっ! 違うんですか!? 」
五十音文字と違いこの世界ではアルファベットの様に少ない記号を組み合わせて文字と成す。どうやら心ここにあらずなのか、シリルは自分の名前すらしっかり書けていなかった。
ーーこの子を無事卒業させなければ。卒業させるのが私の使命ーー
文字も読めず名前すらまともに書けないなら、絶対に卒業なんて出来ない。このまま帰る家すら無い生活が続くのなら落ち着いて勉強も出来やしない。
何かを決心したアンヌフローリア女史は、慌てて自分の名前の書き取りを続けるシリルを止めて帰り支度をする様に促した。
「色々探し回ったのだけど、時期が時期だからどこも満員なの。シリル君、あなたは今日から私の家で寝泊まりしなさい」
「ふぁっ!? 」
「食べる物に困りながらのその日暮らしの野宿生活、今日から私が許しません」
「いや、でも先生……」
「寝る場所、勉強する場所、そして食事は私が用意します。あなたは勉強に集中するの」
「ぼ、僕宿代なんて持ってないから」
「そんな小さな事気にしちゃダメ! 英雄になりたいんでしょ! 」
「えっ?」
「ここは英雄のための学校なの、英雄になりたい者のための学校なの。あなたは英雄になりたくてやって来たんでしょ?」
アンヌフローリアは両手で彼のほっぺをつまんでびよんびよんと引っ張る。
彼が答えから逃げ出したり視線を逸らして誤魔化さない様に、ちゃんと自分の真正面を向かせたのだ。
「アンヌフローリア先生、僕……英雄になりたいです」
精霊界で野山を駆け巡り自給自足の生活をしていた頃、フェアリーたちから何度も聞いた寝物語。
大陸の生きとし生ける者たちから尊敬の眼差しを受けた騎士王の半生、若者だった頃からの数々の冒険物語。
人を愛し過ぎた大天使から授かった聖剣ティアーズ・オブ・メサイア(救世主の涙)を持って混沌としていた大陸を平定した、あの伝説の騎士王の冒険譚に彼は突き動かされていたのだ。
「騎士王の伝説が好きです、騎士王が好きです。僕は騎士王を超える勇者になりたい! 」
シリルは良い子だと思う。汚れを感じさせない程に純粋で、その純粋さを逆に危うく思える程にだ。
だが彼も、英雄や勇者の冒険譚に思いを馳せて憧れる、男の子の部分も持っている。聞かされたおとぎ話に胸震わせて、木の枝を聖剣代わりに振り回した過去があるのだろう。
アンヌフローリアが見詰める先、まるで清らかな泉の様なつぶらな瞳から、彼の憧憬の意思もメラメラと映し出されていたのだ。僕もそうなりたい! と。
彼の熱さに触れて、「ふむ、決まりだな」とアンヌフローリアは両手を離して彼の頭にポンと手を乗せた。
「だったら、まずあなたがしなければならない事は、魚を捕まえたり星空の下で寝る事じゃないのは分かるわね」
ーーあなたは今日から私の家族、二人で屋根の下で生活して、あなたは徹底的に勉強してこの学園を卒業するのよーー
あっという間にシリルの下宿先は決まった。
野生で生きて来た自由人の時期は終わり、英雄になるための教育をいよいよ本格的に受けるのだ。
もちろん同じ学園生と比べると、現時点での彼は最弱の戦士どころか一般的な普通の男子と変わらない。まあ、それも怪しいのだが。
とにかく、頂点に立とうとするならば並大抵の努力では叶わない事は確か。
勉強に戦闘訓練に明け暮れる日々がいよいよ始まる。
余談ではあるが、この件は俗に言う「違うよ! 先生の胸には夢が詰まってるんだ! 」事件の始まりでもあった。