59 暴行事件
校舎の裏から中庭に向かい、そして中庭から校舎へ入ったシリルは、肩で風を切りながら広い歩幅で一年B組の教室へと向かう。その表情には色が無く、極めて無表情なまま眉目もぴくりとも動かない。怒りも憂いも超越したかの様なまるで、デスマスクの様な顔付きで教室の前までやって来た。
よろず屋シリルの売り上げ金三十二ペタと、アンヌフローリアが彼の為にと作った巾着袋は、結局シリルの元へは返って来なかった。
校舎裏のゴミ焼却炉で見つけはしたものの既に火が放たれており、ゴミと一緒に巾着袋は盛大に燃えていた。シリルが慌てて手を伸ばそうとすると、その光景を見た用務員さんが、魔法の炎……つまりエリア燃焼だから手を出せば君も燃えるからやめなさいと怒号に近い大声で止められたのである。
失った物はパンも買えないほどのお金とショボい巾着袋、側から見ればその程度なのだが、シリルにとっては衝撃的な悪夢以外の何物でも無かった。それにまつわる思い入れそれは、春にこの街を訪れてから今の今まで、人との出会いや交流を積み重ねた思い出の逸品なのだから。
“……ゴミを焼こうと準備していたんだよ。そしたら部活で出たゴミを一緒に焼いてくれと言って、エルヴィン坊ちゃんがやって来たよ。えっ!? あの家は多額の寄付を学園にしてるからね。ワシも知っとるよ……”
用務員のおじさんはシリルが何故そんな質問をしたのか計りかねながら、怪訝な表情でそう答えた。
……犯人はエルヴィン・デルクロット……
……よろず屋の売り上げ金を盗んで持ち出し、嫌がらせのためにゴミと一緒に燃やした……
一年B組に向かえば向かうほど、教室が近付けば近付くほどに、無表情だったシリルの顔に、酷く陰惨な影が浮かび上がる。一度負の感情に支配されそうになった自分を諌めていたのだが、教室が近付く度に負の感情は度し難い感情として身体の奥で燃え上がり、とうとうそれを抑える努力すら諦めたのだ。
【一年B組】の教室の扉を前にしたシリルは、もはや栄光の将来を夢見て今の努力を惜しまない王立フェレイオ学園の生徒では無く、怒りに我を忘れた復讐者だったのである。
バタン!と勢い良く扉を開けて教室内を見渡す。
クラスメイトの半数以上は課外活動を行う為に別の場所へと移動していたが、時間に余裕がある生徒たちがちらほらと教室に残っている。
そして窓際で輪になって談笑している生徒たちの中に、エルヴィン・デルクロットがいた。まるでこの場にいなかったシリルや仲間たちを馬鹿にしているかの様な皮肉めいた表情で、会話の中心となって下卑た笑いを誘う様な話題を振りまいていたのだ。
「……やあシリル・デラヒエ。大事なものは見つかったのかい? 」
この言葉が、エルヴィン・デルクロットが今日まともに喋った最後の言葉となった。
音で威嚇する様に扉を開けてその場にいたシリルが何と、電光石火の勢いで一気にエルヴィンとの間を詰めて彼に至近距離まで接近。そのまま振りかぶった右の拳をエルヴィンの顔に叩き込んだのだ。
「シリル!? 」
「シリル・デラヒエ、何をやっている! 」
周りの生徒が驚いて言葉で制しようとするが、シリルの耳には全く入っていない。いや、シリルが制止の言葉に耳を貸さないのではなく、周りの生徒がシリルの異様さに怖れてしまい、完全に言葉を失ってしまったのである。
何故ならあの陽気で日向ぼっこの似合う小動物の様なシリルの気配は霧散し、目の前にいるのは地獄の闇から現れた様な黒い炎に包まれた獣。圧倒的な恐怖の塊がエルヴィンを襲っていたのだから。
「死ね、死ね、死ね! 死ね死ね死ね死ねっ! 」
最初の一発目が口に命中し、唇から口腔内がズタズタになったエルヴィンはそのまま戦意喪失。
そのまま倒れたところをシリルが馬乗りになり、あらん限りの拳を顔に打って来るのを手で避けようともがいている。
「……ぎゃあ! ……や、やめ……やめて……! 」
「ギャハハハハ!目には目を、歯には歯を、悪意には悪意を、殺意には死の報復を! 」
「……ひいい!……悪かっ……あやまるから……ごめんなさ……!……」
「イヒヒヒ!……右の頬を叩かれたら、左の頬を差し出しながら殺しなさい! 右の頬を叩かれそうになったら殺しなさいいい! 」
エルヴィンは結局、頬骨や下顎が骨折したり、上下の前歯が全て欠けてしまう重傷を負うも、魔法による治療で数日の後に回復する。(欠けた前歯は二度と戻らないが)
騒然とする教室内の異変に気付いた黒豹の獣人ゴディンガ・オチオが、猛然と殴り続けるシリルを止めようと彼を羽交い締めにするが瞬時に壁に吹き飛ばされて脳しんとうで気絶。
遅れて教室に戻って来たカティア・オーランシェとロミルダ・デーレンダールが彼に抱き付いて止めて、ようやく騒動は沈静化したのだが時既に遅し。
【エルヴィン・デルクロット暴行事件】は当たり前の話当事者たちだけで隠し通せる訳が無く、学園を騒然とさせる大事件となってしまったのだが、それが人々の間で囁かれ続けたのも結局は一ヶ月に満たない間だった。
ーー何故ならこの夏の【天使襲撃事件】はまだ終わっておらず、シリルの事件など消し飛んでしまう程の危機がサンクトプリエンツェの人々を襲ったからだ。




