39 一歩でも前へ!
眼鏡をかけている者ならば、そのガラスが結露で絶えず曇ってしまい、視界を奪われる不快さをひたすら自制心でなだめつつ眼鏡を布で撫でなければならない様な、湿気と仄冷たい空気に支配された世界……洞窟。無数に枝分かれする洞窟の通路は迷路と化し訪れた者を惑わせ、時にそれは命も脅かす空間となる。
【ダンジョン】
フランス語であるダンジョンは、古くは城の天守を意味したのだが、時代が経つにつれ地下牢や納骨堂、拷問部屋までもが総じてダンジョンと呼ばれる様になった。つまりは窓明かりの無い薄気味悪い場所、そしてそこへ繋がる通路がダンジョンであり、訪れる者を決して安穏とはさせてくれない場所である。
ここサンクトプリエンツェ郊外の丘陵地帯に作られた、王立フェレイオ学園所有の人工ダンジョンも、人工だからと言って人に優しい迷宮洞窟ではない。訪れる者に命の危険を覚悟させる、戦う者のみが足を踏み入れる事が許された場所であった。
王立フェレイオ学園夏休み四日目、つまりダンジョン祭り四日目。小規模集団戦に慣れて来たシリルのパーティーは、地下一階層をクリアして今、二階層にアタックを開始した。
今年の一年生は豊作だと言われている。なかなかに優秀な人材が揃っているのか、地下十階層まであるダンジョンのうち、三階層まで到達出来れば一年生としては充分だと言われているのに、今年はまだ始まって四日目だと言うのに四階層を目指そうとするパーティーがちらほら出始めている。
その中でシリルたちが二階層をアタックすると言うのは決して早いとは言えず、むしろ豊作な一年生の中でも不作の部類に入ってしまうのだが、当の本人たちはまるでそれを気にしていない。変な気負いなどどこ吹く風で冒険を心から満喫していていたのである。
ダンジョン地下二階層、一階層との通路があるエントランス。円形ホールの壁に等間隔に据えられた松明の灯りが、ゆらゆらと空間を赤黒く照らす「安全」ではあるが酷く心細い場所。あくまでも安全と表現するのは、モンスターがエンカウントしない聖域だからではない。モンスターはここにも現れる可能性はあるのだが、人の出入りが頻繁にあると言う理由で安全と言われているだけの事。一度ダンジョンに入れば、昼だろうが夜だろうがどこにいようが、常に危険と隣り合わせである事は間違いなかった。
そしてその二階層のホールに、ちょうどシリルたちがいた。
焚き火の上で熱せられた鍋、しかれた動物油が小さな霧となってキラキラと輝きながら上昇し始めると、ちょうど頃合いだと言わんばかりに大量のひき肉と玉ねぎのみじん切りが放り込まれ、ジュワッと香ばしい音と匂いを放ちながら鍋の中で踊り始める。
肉と玉ねぎに一通り火が回った事を確認したら、次にザク切りにしておいたトマトをがっつり入れてヘラで潰しながらスープ状になるまで煮込むのだが、トマトが潰れ始めた頃合いを見て、粉末状にした唐辛子とニンニク、オレガノやクミンも混ざった……そう、必殺のチリペッパーを投入して馴染ませる。グラグラと煮立ち始め、辺りにスパイシーな香りが漂い始めたらラスト、インゲン豆を入れて煮込み塩で味を整えれば完成。冒険者や旅人の疲れを吹き飛ばす【チリビーンズ】の出来上がりだ。
「このパンをちぎりながら浸して食べるんだ、美味しいよ」
そう、チリビーンズを作っていたのはシリル。文字を勉強するにあたって、図書館で料理書を読みふけっていたその成果が発揮されたのである。
どんどんと皿によそられて配られるチリビーンズの真っ赤な色と、鼻腔を刺激するスパイシーな香りに、初見の仲間たちは当初戸惑ったのだが、木の枝に刺したパンを焚き火で軽くあぶり、水気を飛ばしていたカリカリのパンを恐る恐るひたして口に運んでみると……。
「な、なんだ!? 美味い、美味いぞ! 」
「……ちょっとピリ辛だけど……美味しい……」
「ジェイサン感動した」
「シリル! お前え……いつの間にこんな美味い料理覚えたんだよ! 」
皆が皆大絶賛で美味い美味いと口々にするのだが、料理を作った当の本人であるシリルを見詰める者はいない。ある者はスプーンを使わず皿に直接口を付けてスープを胃に流し込み、ある者は一心不乱にパンをちぎってはスープにひたして口に運び続けている。この「どよん」とした空気が漂う地下空間で、食欲を増進させる様なスパイスの効いた食べ物は、冷えた身体を温めつつ身体どころか心も元気にさせる魔力を持っていたのだ。
「おかわり自由だからね、早い者勝ちだよ」
このシリルの言葉を皮切りに、仲間たちの食事ペースは更に早まり、フードファイトさながらの競争が始まってしまった。
「シリル君、お、おかわりだ! 」
「……私も……私も……」
「ジェイサンもおかわりが必要」
「お願いします、俺にもおかわりください」
シリルの狙いは大当たり。我も我もとおかわりに殺到する仲間たちの姿は、常に生死と隣り合わせで緊張の連続であったダンジョン探索を、一瞬ではあるが気持ちをリセットさせてリフレッシュさせたようだ。……行き交う他の学園生のクスクス笑いはご愛嬌として。
「おや、そこにいるのはシリルではないかえ? 」
すると、気品の漂うおっとりとした女性の声が洞窟の奥から聞こえて来る。シリルたちが薄暗がりに眼を凝らして声を辿ると、声の主である女生徒がこちらに向かって歩いて来た。
「あっ、ベルさんだ! ベルさんこんにちわ」
現れたのはシリルたちの上級生で赤竜の姫、アルベルティーナ・ララ・ヴァルマ。祭りが始まってたかたが四日が経過しただけだと言うのに、「とりあえず独り」でダンジョン全十階層を踏破し、全ての階層のマッピングを終えて帰路についていたとの事。
さすが赤竜だと感嘆する者もいれば、力の差に愕然とする者や、対抗心を燃やして「俺たちはこれからっす! 」と空元気を飛ばすエステバンなど、受け取り方は様々なのだが、どうやらアルベルティーナは二階層で何かを探していたのだが、漂う不思議な匂いが気になって、ここへやって来たらしい。
「昨日一階層でちっちゃな金の欠片を拾いまして、換金したら二万ペタ手に入りました。みんながいたからこそ拾えた物だから、みんなの為に使おうと思いまして」
そう。よろず屋シリルの稼ぎとは完全に一線を引いて、このダンジョンで手に入れたアイテムは個人所有しない事をシリルは言っていた。
なるほど、だから手の込んだお昼ご飯を作ったのかえと、アルベルティーナもシリルの隣にぴったりと座り、シリルが分けてくれたチリビーンズを美味しそうにほうばる。
「良き良き。なかなか手の込んだ珍しい料理よ」
「ベルさんの口に合って良かったです」
「これ、さんはいらぬぞえ。ベルと呼べと申したはずじゃ」
なかなかにカティアが落ち着いていられない光景が広がる中、ふとメンバーを見回したアルベルティーナ。これから地上へ戻るがぬしらはどうするのかえと聞いて来た。
「パーティーのリーダーを務めるロミルダ・デーレンダールです。この後は夕方を目処に時間の許す限り二階層のマッピングを行おうと思っています」
「ここまで半日かけて来たのであろう? 単純計算で夕方上がりなら、もう帰る頃合いじゃ」
「理解しております。しかし我らも丁度連携が取れて来て、今が一番充実している状況。せめて一区画、二区画でもと考えています、それが我らメンバーの総意です」
「一歩でも前へ」……その気持ちを抱き続ける事こそが、挑戦者にとって一番大事な進化の原動力なのだが、ひとたびそれが欲に変わると身を滅ぼす事にもつながる。その引き際を身体で覚えるのがこのダンジョン祭りの主な主旨ではあるのだが、引き際を身体で覚えるとは言ってもギリギリを狙えとは言っていない。
その局面を肌で感じたら、勇猛果敢ではなく生きて帰る事を選べと言う教えの元に、学園創設以来悲劇的な結末を迎える者のいない歴史を重ねて来た。
アルベルティーナ・ララ・ヴァルマはこの時、シリルたちのパーティーメンバーがちょうどその局面を迎えようとしている事に気付いたのである。
ロミルダの言うあと一区画二区画が、彼らにとって吉と出るか凶と出るか、戦士や冒険者をやっていれば誰でも必ずやって来るこの局面。果たして彼らはどう判断するのか一抹の不安を覚えたのである。
「なるほど、ならばぬしらは一番右の道を行くが……」
シリルたちを心配したのか、アルベルティーナは口を滑らせてしまった。ホールにはずらりと洞窟の入り口が並び、その道を行けばどこに繋がりどこにたどり着くかは、行った者にしか分からないまさに迷路の入り口。
彼女が口走ってしまったのは、手っ取り早く良い結果が出る比較的安全な通路……つまりは「答え」。だが、彼女がそれを最後まで言わなかったのは、シリルが笑顔でそれを遮ったからだ。
「ベル、心配してくれてありがとう。僕たち必ず元気で戻るよ」
シリルの屈託の無い笑顔と、そしてあれほど照れていたのにやっと「さん」付けを外してベルと愛称で呼んでくれた事は、アルベルティーナの心配を跡形も無く爽やかに吹き飛ばしてしまった。
「ふふ。無事に帰って来たら、今度は妾の為だけに美味しい料理を作ってくれるかえ? 」
「もちろんですよ、僕は今、算数以上に料理を勉強してますからね! 」
(……おい、お前今、数学じゃなくて算数って言ったか!? まだその段階なのか? 料理の勉強どころの話じゃないだろ!……)
ロミルダやエステバン、カティアやジェイサンが突っ込みどころを見つけても、誰もそれを口にせず強引に飲み込んだ時、アルベルティーナは「良き良き、ではのう」と言いながら、シリルの頬を艶っぽくひと撫でして立ち去って行った。
その後、口を滑らせた事を悔いてはいたが、帰路につくアルベルティーナ・ララ・ヴァルマは酷くご機嫌だった。あの子犬の様に可愛い少年が実は、芯のしっかりした男の部分……もっと言えば戦士としての矜持を確立させ、それを垣間見れた事が嬉しかったのである。つまりはシリル・デラヒエもまた戦士である事を理解したのだ。
「身体がとろけそうじゃ、愛い愛い」
一階層に上がり、ダンジョンの出口に向かって軽やかに歩くアルベルティーナ。普段の彼女ならまずあり得ない事なのだが、彼女はここで失敗していた。
あまりにもシリルとの時間が楽しかったのか、彼女が何故二階層にいたかと言う事を失念してしまっていたのである。
【地下二階層で突如湧いた妖しい気配。召喚された魔獣のものとは違う鋭利な殺気】
瞬時に沸いて瞬時に消えてしまったので、アルベルティーナは気にしながらも結局失念してしまったのだが、これがこの年……シリルにとって重大な事件の引き金となったのであった。




