盛夏のこと
ろくに草も生えていない、石ころだらけの河原に立てられた一本の杭に、その牛は繋がれていた。すでに立ち上がる力もないのだろう、据わりの悪い砂利の上に膝を折り、力なく地面に頭を落している。牛の背は、無残に皮が裂け、赤く剥き出しになった肉の上に真っ黒に蠅がたかっていた。
――頼まれてくれぬか。
えんがそう閻魔王に請われたのは、昨晩のことである。ほの明かりが灯る閻魔堂で、閻魔王はえんにこう云った。
「ある者に明日の晩ここへ来るように伝えてはくれぬか。」
そんな頼まれごとは初めてだった。
「いきてる人間は連れてきちゃいけなかったんじゃないのかい?」
「生きているものではない。いや、今はまだ生きているようだが、明日の内に死ぬだろう――それに、ひとでもない。」
「人でない?」
「ああ、ひとではない。」
「ひとじゃないものに、どうやって伝えるのさ。」
「ちゃんとひとの言葉で伝えてやれば、分かるであろう。それに――」
――できれば死に水を取ってやってほしい。
と、そう閻魔王はえんに云った。
そうして、えんは云われたとおり、言われた場所にやってきたのだ。
そこは、いわゆる「捨て場」と云うものであるらしい。弱って使えなくなった牛馬を、足の立つうちに引いてきて、捨ててゆくのだ。
えんが近づくと、繋がれた牛はゆっくりと目を開けた。わずかに口元が動いたのは、鳴いたつもりか。背の傷からはすでに腐臭が漂い、死が近いことは明らかだった。
えんは川に降り、持ってきた桶に水を汲んで牛のそばにおいてやった。
近くに水の匂いを嗅ぎながら、繋がれた身ではどうすることもできずにいたのだろう。牛は渾身の力をこめて、水を飲むために立ち上がろうともがいた。一斉に蠅が飛び立つ。背にはすでに白い蛆が蠢いていた。
桶を傾けてやると、牛は膝立ちで水を飲み干し、再び力尽きたように膝を折った。桶に水を足し、柔らかそうな草をふたつかみばかり膝元に置いてやったが、もう草を食む力は残っていないようだった。
それ以上、どうしてやることもできない。
えんは、そっと牛の頭に手を置いて、
「晩に、閻魔堂へおいで。」
と、そう云った。
牛はまた、ゆっくりと目を閉じて、頸を延べた。
空に数羽の鴉が舞っている。
えんはそっと、その場を離れた。
散った蠅がまた集まってきて、牛の背を黒く覆い始めていた。
その晩、えんは暗闇の中を閻魔堂に急いだ。閻魔堂はやはり、ほんのりと明るかった。
そっと、中をのぞく。きらりと光る浄玻璃の鏡、ゆらりと揺れる業の秤。豪奢な衣装の袖を翻す閻魔王の前には、一頭の牛が膝を折っていた。
「えん、入れ。」
閻魔王に促されて、えんはそっと堂のとびらを開ける。真っ黒な牛の目が、えんをじっと映していた。
「さて、具生神。」
は、と具生神がかしこまる。
「このままでは話しがしづらい。この牛に仮に人身を与えよ。」
「はい。承知いたしました。」
具生神が肯くのを見て目をやると、牛の代わりに色の浅黒い青年がひとり、閻魔王の前に額づいていた。
「うむ、これで話しがし易くなった。どうだ、畜生の生を得たはおのれの不徳の致すところとは云え、ずいぶんと辛い生であったことであろう。」
青年は黙ったまま、大きな黒い瞳で閻魔王を見上げていた。
「どうした、口は利けるであろう。」
「――つらい、一生でした。」
閻魔王は、うむと肯いた。
「お前が使われていたおとこについては、これまでにも多くの訴えがあった。たくさんの牛馬をむごく使い潰しておるようだな。」
「はい――仲間がたくさん死にました。朝早くから、夜遅くまで、背の皮が擦りむけるのも、鼻が千切れるのもかまわず鋤を引かされ、弱れば飼っておくのは無駄だとばかりに河原へ捨てられて――」
大きな目から涙をこぼして、牛だった青年は悲しそうに項垂れた。
「憎いか。」
問われて青年は濡れた目を上げた。
「憎い――恨んでおります。あまりにも非道い――」
辛かったことが思い出されたのだろう、青年は言葉を詰まらせた。
「ならば、獄卒にならぬか。」
閻魔王が言った。
「お前やお前の仲間達が、あまりに非道な扱いを受けて、苦しみ死んでいったことを恨みに思うならば、獄卒となってその恨みを晴らさぬかと言っているのだ。」
「そんなことが、できるのですか?」
閻魔王はにやりと笑った。
「できるからこそ、やるかと訊いておるのだ。具生神、獄卒の空きはあろう。」
「いつでもありますような状態でございます。もとが牛でありますれば、牛頭鬼として召抱えてはいかがでしょう。」
青年の黒い瞳に、一瞬暗い影がよぎった。
「お前の使用主であったおとこは、間もなくここへやってこよう。具生神。」
「はい、そのおとこでございましたら、三日後の晩にはこちらへ参ることになりましょう。今は元気に見えますが、心の蔵の病にございます。」
「聞いたか。お前は牛頭鬼となって畜生地獄へ赴き、おとこが堕ちてきたならば、思う存分責め苛んでやるがよい。重く冷たい黒鉄の唐鋤も、太い鼻輪も、鉄の鞭も皆用意してある。」
青年の目が暗く光った。
えんは、耳を疑った。恨みを捨てよというなら兎も角、獄卒となって恨みを晴らせとは、閻魔王の言葉とは思えなかった。
「閻魔王――」
「控えよ、えん。この度のことはご苦労であったが、こちらの世界のことに口を出してはならぬ。」
「けど――」
「控えよと云うに。具生神、今宵はここまでだ。」
は、と具生神のかしこまる声がして、閻魔堂は闇に包まれた。新月の空は真っ暗で、星明りさえ定かではない。闇の中を透かしてみると、閻魔堂の中にはいつものようにうっすらと埃を被った木造りの閻魔王、具生神。赤青の獄卒鬼の隣には、いつの間にやら黒い頭をした牛頭鬼の像が、とってつけたように並んでいた。
「――なんだって云うんだよ。」
のっぺりとした木の板の浄玻璃の鏡に恨めしげに目をやって、えんはしんと静まり返った暗闇の中でつぶやいた。
翌日えんは再び、あの河原に来ていた。
牛の死体は杭に繋がれたまま、まだ残っていた。
息のあるうちにやられたのか、それとも死んだのを見計らって集まってきたものか、肢体は鴉や野犬に食い荒らされており、黒く濡れていた瞳はつつき出されている。
膝元の草は、置いたときのまま乾いていた。水を汲んで置いて行った桶は、水が入ったままだった。
水をこぼして桶を取り上げ、えんは河原を後にする。近くには、開墾地が広がっていた。
河原を離れて、えんは開墾が進んでいる山側へと行ってみた。開墾は本来の田仕事と並行で進められているのだろう。暑い時期というのに、大勢が忙しく立ち働いている。そして、人々に混じって数頭の牛馬が根を起こし、あるいは鋤を引きしていた。
人々も、牛馬も、疲労の色が濃く見える。
立ち働く人々の中に、えんはそのおとこを見つけた。おとこは縦横無尽に荒地を駆け回り、手を休めているものを叱りつけ、遅れているものを急かしつけて、精力的に現場を指揮している。
その姿には、死の影など微塵もない。おそらくおとこ自身、自分の命があとわずかだなどと、全く考えてもいないのだろう。
えんは、おとこの顔を確かめる。
間もなくえんは、このおとこと閻魔堂で顔をあわせることになるのである。おとこがこの世を去ったとき、ここはどうなるのか――。
暑さの厳しい昼下がり、人々は相変わらず忙しく立ち働いている。
そんな様を遠目に見て、えんは少し哀しくなった。
あれから三日が過ぎた。えんは、閻魔堂に立っていた。今日が、あのおとこの命日であるはずである。
閻魔堂には、ほの明かりが灯っている。えんはそっととびらの隙間から中をのぞいた。
きらりと浄玻璃の鏡が灯りを映す。
赤青の獄卒鬼が、おとこを閻魔王の前に引き据えていた。
「えん。入れ。」
帰れと云われるかと思ったが、意外にもそう閻魔王から声が掛かった。えんは、そっととびらを開けて、閻魔堂の中に滑りこんだ。
閻魔王の前に額づくおとこは、しかしあの日の精力的な様子とは裏腹に、呆然と項垂れていた。
「ここがどこか、分かるか。」
おとこは狼狽する。なぜ自分がこのようなところに居るのか、理解できていないようだ。
「いかな不信心者とは云え、我を知らぬとはいうまいな。我は閻魔王、左右に控えるは獄卒どもだ。具生神の手にする鉄札には、お前の生前の行いが残らず記してある。」
おとこは唖然とした顔で、えんを振り返る。
「あんたは、死んだんだよ。心の臓の病だそうだ。ほんの一瞬、苦しむ暇もなかったそうだから、死んだとは思えないだろうがね。」
「まさか、そんな――」
「本当さ。さっき荒地を開墾してる連中から聞いてきたところだ――それより後の心配をしたらどうだい? あんたは閻魔様の真ん前に居るんだよ。」
えんがそう云うと、おとこはびくりとして閻魔王を見上げる。閻魔王は厳しい顔でおとこを見下ろしていた。
「さて、具生神。このおとこについては、大勢のものから訴えがあったそうであるな。」
「はい、これまで数十の訴えがございました。」
「――お待ちください。」
おとこが慌てたように云う。
「いったい、誰から訴えがあったというのでしょう? 訴えられるようなことをした覚えはありません。まして、閻魔王への訴えなど、生きているものができることではありますまい。」
「生きているものからの訴えではない。皆お前のために命を落とし、此処へ来たものたちの訴えである。」
おとこは呆気にとられたような顔をした
「お待ちください、何かの間違いでございます。私には人を害した覚えなどありません。私のために命を落としたものなど、居ようはずがございません。」
一瞬の後、おとこはきっぱりとそう言った。
「だまれ! ならばお前が殺した者の最期の有様を見せてやろう。獄卒鬼ども、このおとこに浄玻璃の鏡に映るおのれの罪を見せてやれ。」
閻魔王の命に応じて、赤青の獄卒鬼がぐいとおとこの両脇を抱え、鏡の前へと引き据える。覚えがないとはいえ、やはり不安であるのだろう。不安げなおとこの額には汗が浮かんでいる。
おとこが引き据えられると浄玻璃の鏡はきらりと輝き、そこにはえんが見た河原が映し出される。
ろくに草も生えていない、石ころだらけの河原。杭に繋がれ、力なく膝を折る一頭の牛。その背は、無残に皮が裂け、赤く剥き出しになった肉の上に真っ黒に蠅がたかっている――。
「これは――牛ではありませんか。」
いくらかほっとして、おとこは閻魔王を見上げた。
閻魔王はしかし、逆に厳しい目でおとこを睨みつける。
「いかにも。お前の非道を訴えておるのは、お前が無慈悲に追い使い捨て殺した牛馬たちだ。お前はおのれが財を成すために山野を開墾し、開墾を急ぐ余りにたくさんの牛馬をむごく使い捨ててきたであろう。疲れた体を休めることもならずに働かされ、力尽きて捨てられ死んでいったものたちが、その苦しみを訴えてきたのだ。」
すうとおとこの顔から血の気が引いた。
「具生神。これまでの訴えを、このおとこに読み聞かせてやれ。」
「はい、承知いたしました。これまでに三十四の訴えがありましてございます。そのうち二十九がこのおとこの非道を糾弾する訴状、あとの五つはこのおとこを是非にも地獄へ落とし、この苦しみを分からせてやってくれとの嘆願書にございます。すべてこのおとこに飼われておりました牛馬畜類の訴えにございます。読み上げますれば、ひとつには我が飼い主であるところの者は非道にして慈悲心がなく、重い鋤鍬を当て布もなく背に付け、黒鉄の堅い止め具は夏は身を焼き、冬は凍えさせ、背の皮をえぐりその苦しみは喩えるべくもないとのこと。また別の訴え書きを読み上ぐれば、酷暑の折も酷寒の折も休むことなく、喉が渇いても水さえろくに与えられず、疲労にて歩みが遅くなれば、鼻面をとって力任せに引き回され、また鞭にて追われ、まさに地獄の獄卒の為し様とあります。さらに嘆願書に述べるところに拠りますれば、たとえ畜類と云えどその扱い余りに非道にて、憐みの心無く、その罪を思い知らせるには等しく苦しみを与え、責めさいなむより他なくとのこと。これらはほんの一部にございますが、他の訴状、嘆願書にも同じような訴えが書き連ねてございます。」
おとこが青ざめた顔で具生神を睨みつける、
「たかが畜生のことにございます――開墾がなれば多くの人々が助かること、少々の非道は致し方ありませぬ。それにまた、私自身が牛馬を引き回したわけでもなし、開墾を焦る者達が急ぐあまりにしたことでありましょう。働けなくなれば牛馬を捨てるのは、当然誰もがしていること。なればこそ、捨て場というものがございます。それらをすべて私の罪のように言われるのは心外にございます。」
おとこは額に汗を浮かべながら、ふて腐れたようにそう云った。
「だまれ!」
閻魔王がおとこを一喝する。
「おのれの罪を他のせいにするか。恥を知れ。お前はたかが畜生と侮り、使い捨ててきたのであろうが、今の世では畜生の身といえども、あれらは皆幾世か前は人であったもの。お前とて縁あって人と生まれなければ、同じく畜生の身となって苦を受けておったかも知れぬ。それをも思わず、訴えにあるようなむごい仕打ちを繰り返すは愚の骨頂。嘆願の通り、地獄の責め苦に拠りておのれの罪を思い知るがよい。」
「――お待ちください。」
閻魔王の余りの剣幕に気圧され、おとこは震えながら漸く云った。
「どうか――どうかお許しください。この開墾の計画は、本当に人々のためにございます。確かに牛馬をむごく扱ったは罪かもしれませんが、どうかそこのところをお汲みください。」
「具生神。」
おとこをじろりと睨みつけ、閻魔王が具生神を呼ぶ。
「はい、確かにもともとは人の為を思い、始めた事業のようでございます。しかし続けるうちに欲にとらわれ、事に執着し、今となっては善行の内とは云えませぬ。むしろ人々を疲弊させ、牛馬を潰し、おのれの財、名声のみを貪る悪因となっております。」
「――聞いてのとおりだ。かくなる上は、潔く地獄へ堕つる覚悟をいたせ。」
がくりとおとこが項垂れた。
「このおとこを、畜生地獄行きとする。牛頭鬼を呼べ。」
ややあって、牛頭鬼が姿を現し、閻魔王の前に片膝をついた。
「おとこよ、この牛頭鬼が分かるか。この者は、お前が死ぬ少し前に、使い潰して捨て場に捨てたあの牛だ。これより先はこの牛頭鬼にお前の身柄を渡し、十分に罰させよう。覚悟するがよい。」
おとこが目を見開いて、ひいと悲鳴を上げる。
「さあ、行け。」
赤青の獄卒鬼が、おとこを立たせる。たちまちおとこの姿は、人面牛身の畜生となった。
「こい。」
と、牛頭鬼がおとこの首に縄を掛け引いた。怖れ怯えて叫ぶおとこの声は、すでにひとのものではない。
牛のような鳴き声を上げながら、おとこは牛頭鬼に引かれて行った。
「これで、おしまいかい。」
牛頭鬼とおとこが居なくなった閻魔堂で、えんは閻魔王にそう云った。
「釈然とせぬか。」
「しないねえ。何か続きがあるんだろう。」
閻魔王はにやりと笑った。
「ならばこの後を、見届けにゆくか――具生神。」
は、と具生神がかしこまる。すうと、何かが変わったのが、えんにも分かった。
「えん。」
えんは無言で堂のとびらを開ける。夏の夜風ではない熱い風が、ごうと吹き抜けた。
「どうせ手も要ろう。獄卒鬼ども、ともに参れ。」
閻魔王はそう云いながら檀座を降り、えんに向かって手を伸べた。
「えん、お前も来るがいい。」
閻魔王がえんの手を取る。地面がふわりと浮いた気がした。一瞬の後、えんは閻魔王、獄卒鬼達とともに、黒々とそびえる堅固な門の前に立っていた。
「えん。これが畜生地獄の門。そろそろ先ほどの罪人が引かれてくる頃であろう。さてどうなるか――」
何か含むところのありげな様子の閻魔王を、えんは横目でちらりと睨む。今回の一件では、なにやら仲間はずれにされているようで、えんは内心面白くない。
――見届けてやるさ。
地獄の様を実際に見るのは幼い頃以来である。無残な様が脳裏に浮かぶ。しかし、閻魔王が何も言わぬというのなら、どれほど無残なさまでもこの目で見届けてやろうと、えんはそう覚悟を決めた。
閻魔王の言葉通り、間もなく牛頭鬼がおとこを引いてくる。牛頭鬼は閻魔王に一礼して、門に向かった。門を守る獄卒が門扉を開けると、首に縄をかけられたおとこがうなる様な声をあげ、必死に足を踏ん張る。
「青鬼、牛頭鬼をすけてやれ。いずれにしろ鼻面を取るものがなければ、鋤は引けまい。」
「心得ました。」
青の獄卒鬼が後を押し、おとこは鳴き叫びながら門の中へと引きずりこまれた。
その後にえんもまた、閻魔王とともに門をくぐった。
地獄の門の中へ押し込まれ、おとこはいよいよ怖れ怯えた。暴れ、叫んでは見たものの、たかが牛一頭の力では地獄の獄卒には敵わない。おのれの非力さを思い知らされ、またそれと同時に、自分が牛馬に行ってきた非道な仕打ちを思い出した。あのような目にあうかと思うと、おとこは恐怖に気が狂わんばかりだった。
門をくぐったすぐ左側に頑丈そうな鉄の杭が二本、しっかりと打ち込まれているのが目に入った。鉄の杭の間には鎖が渡され、中ほどには鉄の首輪が付いている。牛頭鬼は真っ直ぐに、おとこをその杭のところへ引いてゆき、おとこを首輪に繋ぐ。がっちりとした黒鉄の首輪はしっかりとおとこを押さえつけ、どれほど首を振りたてても外れはしなかった。
首を低くして足元をふと見ると、傍らには火桶の中で火箸が赤く焼けている。何をされるかを察し、おとこは太いほえ声を上げ、割れた蹄を蹴立ててもがいた。
「もがいたところで免れはせぬ。おとなしくせよ。」
牛頭鬼が冷たく云って、焼けた火箸を取上げる。鼻輪を付ける為の穴を穿つのだ。牛ならば皆することだが、どの牛も痛がって涙を流して鳴きたてる。
――やめてくれ。
叫んだつもりだったが、口から出たのはもうもうと牛が怯えて鳴いている声ばかりであった。
青鬼にぐいと頭を押さえつけられ、鼻を上向かされる。牛頭鬼が、手にした焼けた火箸を鼻隔の奥に押し付ける。鼻から目につんと痛みが突き抜け、痛みの余りぼろぼろと涙があふれ出た。
やがてぶつりと火箸の先が鼻隔を貫く。貫かれた傷がぐりぐりと広げられ、ようやく火箸が抜かれたかと思うと、傷を抉って太い鼻輪が通された。
叫び声さえ上げられない苦痛である。鼻輪が通し終わってようやく、かすれた鳴き声が口をついて出た。
「さあ、こい。」
鼻輪に太い綱が通され、ようやく首輪が外される。
通されたばかりの鼻輪が引かれる。わずかに引かれるだけでも、脳天を突き抜けるように痛みが走った。仕方なく、おとこは後に従った。
「見ろ、これがこれからおまえが耕す土地だ。」
やや高台になっているそこからは、見渡す限り広がる大地が見える。
赤茶けた地面は堅く乾いていた。
「どこまでも続くこの大地のすべてを畑にするまでは、苦痛は終わらぬと思え。」
牛頭鬼の言葉に、おとこは呆然として項垂れる。
地平線のかなたまで、本当に見渡す限りその赤茶けた土地は広がっているのだ。
「ぐずぐずしていては、いつまで経っても終わらぬ。」
目の前に重そうな黒鉄の唐鋤が置かれる。背に当たる部分まですべてが黒鉄造りで、これではたちまち背の皮が擦れてなくなってしまうだろう。
思わず後ずさりするおとこの鼻面を青の獄卒鬼が押さえつけ、牛頭鬼が身動きの取れぬおとこの背に黒鉄の唐鋤を着けた。
ずしりとよろけるほどの重みがかかる。
四足の畜生の体では、締め付けられる苦しさ、堅い金具が背に当たる痛みから逃れる術はない。畜生の身とはなんと不自由なものかと、おとこは恨めしく思った。
「はじめるか。」
「おう。」
青鬼がおとこの鼻面を取る。
牛頭鬼はおとこの後ろに回り、唐鋤を取る。
まずはぐいと鼻面を引かれ、飛び上がるような痛みにおとこは必死に首を延べ、足を前に運ぶ。
だが重い鋤は、容易には動かなかった。
渾身の力を込めて、ようやく足を運ぶ。ほんのしばらく引いただけで、体の力を搾り取られるような辛さに、おとこは喘いだ。金具が背に食い込み、焼けるように喉が渇いた。
辛さに足を止める。
「引け。」
声と共に、腰の辺りに鋭い鞭が入れられた。鉄の鞭で打たれる痛みに飛び上がり、おとこはまた仕方なく渾身の力を込めて鋤を引く。この辛い耕作から、逃れられないことを、おとこは思い知った。
さらにしばらく時がたった。
苦しみは耐えがたくなっていた。痛い、休ませてくれ、喉が焼ける――水を、休息を、苦痛からの開放を求めて、おとこは叫んだが、それらはすべて咆哮にしかならなかった。苦しさに、涙がこぼれた。
精一杯の労働が、長く続けられるわけはない。激しい苦痛の末に、おとこはとうとう力尽きた。一歩も進めなくなったおとこの鼻面を、青鬼が力任せに引く。飛び上がるような激痛に、おとこは足を踏み出そうともがく。鋤はわずかに動いただけだった。
「なにを怠けておる。まだいくらも耕してはいないではないか。牛頭鬼、この怠け者を打ち据えてやれ。」
青鬼の言葉に牛頭鬼が鞭を上げ、おとこの腰をしたたかに打った。
――うぉおう。
背が砕けるほどの痛みにおとこは咆え、尽きた力を振り絞って鋤を引く。続けざまに背に鞭が加えられ、おとこは狂ったように鳴きながら鋤を引いた。
そしてとうとう、どうと頭から前へのめった。
鼻が、手足が千切れるように痛み、金具が肉まで食い込んだ背に激痛が走った。打ちすえられた腰は皮が裂け、渇いた喉から肺までが焼けるように痛んだ。
「どうした、そら立て。地獄の畜生に休息が許されると思うか、息の絶えるまで引き続けるがいい。打て、牛頭鬼。」
青鬼が、鼻輪に繋いだ綱を腹が浮くほど引き上げる。おとこは苦痛に足をばたつかせ、助けてくれと、弱くうめいた。だがおとこの耳に届いたのは、乾ききった喉から漏れる、かすれた牛の鳴き声だった。
不意に涙がこぼれた。
苦痛のためではない。おとこが使い潰してきた牛馬たちは、さぞ苦しかったであろうと思ったからだ。恨まれても仕方があるまいと思ったからだ――
起き上がれずにもがくおとこの背に数度、びしり、びしりと牛頭鬼が鞭を振り下ろす。
打たれるのも当然であろう。
おとこは慙愧に泣きながら、そう思った。
人面牛身のけものは、涙を流し、前足を足掻いて立ち上がろうとする。
打ち据えていた牛頭鬼の手から、鉄の鞭がばたりと落ちるのを、えんは見ていた。
「どうした。思う存分恨みを晴らしてやれ。」
閻魔王の言葉に牛頭鬼は再び鞭を取り上げ、振り上げかけてやめた。
「――もう、結構です。」
牛頭鬼は鞭を持った右手を下げて、そう云った。
「何を云う、こやつはまだ、おのれのしてきたことの何十分の一も苦しんではおらぬ。他を苦しめれば、その何百何千倍の苦痛を受けて贖うのが地獄の法だ。容赦はいらぬ、散々に打ち据え引き回してくれようぞ。」
青の獄卒鬼がなぶるように云う。
牛頭鬼はおとこに悲しげな目をむける。
「確かに、まだこのおとこの罪はつぐなわれてはいないでしょう。しかし私の恨みの分だけは――」
――どうか、許してやって下さい。
牛頭鬼はそう云って、優しげな黒い瞳で閻魔王を見上げた。
「お前一人の苦しみだとて、こんなものではなかったであろう。それでもこのおとこを赦すと云うのか。」
牛頭鬼は黙って肯いた。
「なぜだ。このような無慈悲なおとこはおのれの非道が身に染みるまで、倒れても倒れても叩き起こして引き回せばよい。」
獄卒鬼の言葉に、おとこが項垂れる。
「――私には、痛みが判ってしまうのです。」
牛頭鬼は云った。
「打たれる痛みも、金具の食い込む痛みも、引き回される苦しみも。喉の渇き、手足の痛み、そのすべてが、判ってしまうのです。それを私に教えたのは、このおとこです――。」
ぐいと獄卒鬼が綱を引き、おとこの顔を上げさせる。おとこはぽろぽろと涙をこぼした。
「――しかしそのお蔭で、私自身は慈悲を知ることができました。だからもう――」
――赦してやって下さい。
牛頭鬼はそう云って、閻魔王の前に額づいた。
おとこが鋤をつけたまま、這うようにして牛頭鬼の膝元にこうべを垂れる。男の口から漏れる嗚咽は、すでに牛のものではなかった。
「獄卒鬼、鋤を外してやれ。」
閻魔王の言葉に答えて、赤青の獄卒鬼が人面牛身のおとこの背から鋤をはずす。背には金具に擦れ裂けた傷、腰には黒鉄の鞭に打ち据えられた傷が口を開けている。えんは、河原にうずくまっていた一頭の牛の姿を思い出していた。
「えん。水をやれ。」
見ると傍らに水が入った桶が置かれている。それはあのとき、えんが牛の傍らに置いて帰った桶だった。
――ああ、あの水は無駄にはならなかったのか。
ふと、えんはそう思った。
桶を傾けてやると、おとこは少し躊躇って牛頭鬼を見上げた。牛頭鬼は静かに肯いた。
頭を桶につっこむようにして、おとこは水を飲んだ。生き返るような心地がして、また涙がこぼれた。
「さて、牛頭鬼は許してやるよう云うが、まだまだお前の罪は消えるものではない。」
桶から頭を上げると、閻魔王の厳しい声が頭上に響いた。おとこはじっと項垂れる。
「お前は罪のつぐないを済ますまで、ここで鋤を引き続けるがよい。」
覚悟はしていたが、先ほどの辛さが思い出され、やはり涙がこぼれる。
それでも罰は受けねばならないと、おとこは震える足に力を込めて立ち上がり、目をつむって重い鋤がつけられるのを待った。
「牛頭鬼、これをかけてやれ。」
ふわりと牛頭鬼の手でおとこの背に一枚の布がかけられる。ひんやりとした心地のいい肌触りがして、傷の痛みが引くのを感じた。
「痛みが取れたら、鋤を引け。」
おとこは金具の食い込む痛みを覚悟したが、つけられた鋤はぴたりとおとこの背に納まって、締め付けの苦しさも、金具の食い込みも感じなかった。
おとこは鋤を引き出した。相変わらず鋤は重かったが、先ほどよりもらくに引けた。
「獄卒鬼。もう鼻取りは必要あるまい、戻れ。」
は、と青の獄卒鬼はおとこの鼻輪から綱を外した。
「さてそろそろ帰らねば、具生神が首を長くしていよう。牛頭鬼、後はお前に任せよう。ここを耕し終えたら閻魔庁に来るがよい。」
牛頭鬼は、はいと答えて鋤を押した。それに応えておとこは力を込めて鋤を引いた。
「ゆくぞ、えん。」
えんは最後にもう一度、牛頭の鬼と牛身の亡者を振り返った。二頭か二人か、彼らが鋤を引く姿は、いたわりあっているようにも見えた。
ふいと閻魔王の方に目を戻すと、すでにそこは閻魔堂だった。
「なんだったんだい。」
えんが問う。閻魔王はにやりと笑った。
「あの牛頭鬼は、以前にも地獄の牛頭鬼であったのだ。」
赤鬼が云った。
「亡者に対してあまりに非情であったため、その任を解いて畜生として人の世に修行に出したのです。修行がなりましたようで、よろしゅうございました。」
具生神がにこりと笑う。
「あのおとこは、以前にも畜生地獄へ堕ちておった。牛頭鬼の責め苦の余りの過酷さに耐えかね、訴えてきたので、後の世に罪をつぐなうことを条件に一度ひとの世に生まれ変わらせたのだ。」
「牛頭鬼に対する恨みが強く、案の定あのような非道の罪を繰り返したが。」
赤青の獄卒鬼が口々に云う。
「じゃあ――もとへ戻ったのかい?」
そうだ、と閻魔王が肯いた。
「随分と時が掛かったが、牛頭鬼は慈悲を知り、あのおとこはおのれの本来の罪を知った。めでたしめでたしと云ったところであろう。」
「本当によろしゅうございました。」
具生神がにこにこと云う。
えんは唖然とする。
「元に戻すために、ひとの一生分くらいの時間をかけたってのかい――。」
「そういうことだ。えん、返して置くぞ。」
――からり。と何かがころがる音がした。
見るとあの桶が転がっている。慌てて目を転じると、すでに閻魔堂は闇の中にあった。
えんはとびらの隙間から、空を見上げる。まだ細い月が、中空にかかっていた。
――全く気の長い話だよ。
ちらりと目をやると、木造りの閻魔王、具生神、獄卒鬼がにやにやと笑っているように見えた。のっぺりとした木の板の浄玻璃の鏡を目の端に見て、えんはそっと閻魔堂をあとにした。
真夏の少し淀んだような空気が、夜風に散らされてえんのほおをなでていった――。