笑いでススメ
『バンバーン! バリバリ、バーン! マサシくぅん、迎えにきたでぇ、どこやぁ!』
『マサシ君の彼女えらい怖いなおい!』
古ぼけた電気屋の前に置かれたテレビ。そこに映し出された、二人組の漫才師。
『ミエコー! ここやここや! どこやマサシ君! バリバリバリバリ、ドカーン! ミエコ、今まで有難うな……』
『いや、マサシ君ミエコのせいで死んでもうたやないかい!』
叫ぶ漫才師。観客達が笑う。温かい空間が、そこにはあった。
やっぱりこのコンビはオモロいな、これからブレイクするんやろか。山田大志はぼうっと液晶を見つめ、そう考えた。
大志はテレビに映る者と同じ、お笑い芸人だった。しかし、彼には地上波に、それもゴールデンタイムに出演出来る様な実力など無い。
こうやって変装もせずに、駅前のベンチで人を待っていても、握手を求める者も、写真を撮る者もいないのだ。ファンなんて皆無に等しい。
しかし、それを憂う暇は彼に無かった。彼の頭は、一人の女の事でいっぱいになっていたのだ。
――ナナ子さん。
滝沢ナナ子。彼の初めての、そして恐らく最後の恋人である。
友人に誘われて行った合コンで出会い、すぐに恋に落ちた。ナナ子は彼に熱烈なアタックを仕掛け、彼はそれを受けとめたのだ。まだ付き合って、否、知り合って一か月程だが、ずっと昔から好き合ってたみたいに打ち解け合えた。
クリスマスに彼はナナ子へ15万の指輪をプレゼントしてやり、彼女はとても喜んだものだった。
大志大好き、ずっと一緒にいようね。そう彼女が言って、大志はそっと彼女を抱きしめた。
あの温かい一時。このまま時が止まってしまえばいいと思った。もう、僕はナナ子さんから一生離れへん。あの時、そう確信したのだ。
なのに。最近、メールをしても返事がこない。何曜日の何時にかけると二人で約束している筈の電話が、繋がらない。
何かあったのではと不安になったが、友人に彼女の事を尋ねると、別の男と楽しそうに街を歩いていたと言っていた。
もしかして……。疑いたくはないが、それでも心配だった。
そして昨日、メールでナナ子に告げた。明日の午後八時、駅前のベンチで待っています、ここ最近会えていないのでお話ししましょう、と。
大志はちらと腕時計を見やった。もう八時半だった。
やっぱり、ナナ子さんは僕の事、何とも思っとらんかったんやなぁ。改めてそう痛感し、溜め息を吐く。
もう会うのは諦めよう。そう思い腰を上げた時、目の前に待ち人が立っていた。
「ナナ子さん……や、やあ、久し振りやなぁ」
大志はぎこちない笑みを浮かべながら手を挙げた。ナナ子は無表情だ。
「…………」
「な、ナナ子さん、最近連絡取れへんくって心配したで。なぁ、何があったんや?」
「呆れた」
大きな声でナナ子は言い放った。
「あんた気付いてないの? あたしが金目当てであんたと付き合ったって事」
「え? いや、確かに外食屋へ行ったら、お金は全部僕が払うとったけど、大した金やあら――」
「あんたと食う不味い飯なんかの為な訳無いでしょ。指輪よ」
「指輪? クリスマスプレゼントの?」
「他に何があんのよ」
ナナ子は眉間にシワを寄せ、ベンチの背をバンと叩いた。大志の体が思わず跳ねた。いつもの彼女と明らかに様子が違う。普段はもっと、愛想が良い。
「あの指輪、ネットオークションで百万近くの値で売れたわ。要するにただの小遣い稼ぎだったの。あんただって始めからそんなの承知の上だと思ってた。どれだけ騙されやすい性格だったとしても、プレゼント渡してから連絡がぱったり無くなったら気付くでしょ、普通」
自分の愛してたナナ子さんの人格が、音を立てて崩れていく。大志は呆然とした。
「あんたってほんと馬鹿ね。迫ってこないから紳士だと思って安心したけど、ただのチェリーだったんだ。やっぱ売れない芸人ってダサいわね。じゃあ、あたし忙しいから、もう行くわよ」
「ちょっと、ちょっと待ってぇや!」
「しつっこいわね」
ナナ子は大志を睨みつけた。だが彼は、感情が抑えきれなくなった。
「何でや、だってナナ子さん、僕の事、好きって、ずっと一緒におろって、何回も、言ってくれたやないか! あれ、嘘やったんか? 僕が抱きしめたら抱き返してくれたん、あれも全部、全部、嘘やったんか!?」
ナナ子は「ハァー」とうんざりした様に息を吐いた。
「随分おめでたい人ね。あんたの頭いつまでクリスマスなの? ……じゃあね、もう二度とあたしの前に出てこないで」
彼女は素早く踵を返し、その場を去った。
「いらっしゃいませ」
「……普通の牛丼、大盛りくれ」
「かしこまりました」
大志が立ち寄った牛丼チェーン店には、客一人いなかった。
まあまあな広さがあるためか、客がいないとがらんとしていてどこか寂しい気持ちになる。
今の僕にはお似合いって訳や。大志はそう心の中で呟くと、カウンターに座った。
先程注文を聞いた若い男の店員が奥に引っ込んでしまうと、大志は店内で独りっきりになった。
今日は一月十日。思えば去年の今頃、一年の計画を立てたものだった。
今はコンビが流行ってるけど、僕がお笑いの流れを変えたる。ピンでもこんなに笑いが取れるっちゅう事を、証明するんや。
その為に、一月、二月はひっそりと実力をつける。そして、三月にドカーン! 大ブレイクを巻き起こすのや。
それで来年の今頃には正月番組出まくって、もう忙しゅうて忙しゅうて、休ませてほしいわて、同期に自慢したるんや――
しかし、当然その通りになる筈も無かった。
一月、二月は仕事が無くなり、バイトを何個も掛け持ちして生活した。三月。ドカーン! と音を立てて、大志の所属していた大手プロダクションは倒産したのだった。
何とか別のプロダクションに入る事が出来たものの、大志の夢への熱情は一気に醒めていった。
もう、夢なんか諦めた方がええんとちゃうやろか。そう思いながらも中々踏み切れず、だらだらとこれまでの生活を続けてきた。
年末に夢を応援してくれる彼女が現れた時には、自分が輝ける最後のチャンスだと思って精一杯頑張ったが、こうして今夜、はっきりと振られてしまったのだ。
同期達はどんどん売れていった。女芸人の中には寿退職した者もいた。
同窓会に出席すると、年収の話で盛り上がっている。クラスメイトの中にも、何千万と稼ぐ奴らがいるらしい。
色々な世界で、自分だけがどんどん、取り残されていく……
……アカン、なんで泣いとんのや。
自分で自分にツッコミを入れる。だが、もう涙は止まらない。明るいオレンジ色のカウンターの上に、水滴がぽたぽたと落ちていく。
僕は、世界一情けのうて、しょうもない男や。もういっそ、死んだろかな。そんな言葉が脳裏にちらついた、その時だった。
「牛丼並、つゆだく……ん?」
客が入ってきた。慌てて大志は涙を拭う。
「いねえな、バイト」
男は誰に言うともなく呟くと、大志の隣に座った。床に大きな鞄を置いて。
彼は作業服を着た髭面のおっさんだった。この近くに工場があるから、多分そこで働いているのだろう。
それにしても、何で僕の隣なんやろ。席いっぱい余ってんのに、気味悪い。大志は男を不審に思いながらも、ただ黙っていた。
すると、厨房から先程の若い店員が出てきた。
「お待たせ致しました、牛丼大盛りで御座います」
「あ、おおきに」
「バイト、牛丼並、つゆだく」
「あっはい、いつものですね、もう出来てますんで」
チャラチャラしていそうな見た目の割にはローテンションな店員は、また奥に引っ込んで、数秒後におっさんの元へ牛丼を置いた。
「牛丼並、つゆだくで御座います」
「サンクス」
おっさんはぽつりと呟いて、箸を取り出し、黙々と食べ出した。大志も箸を手に取って合掌し、なるべく音を立てない様に食べた。
店員はカウンターの内側に置いてある椅子に座り、机に突っ伏してしまった。牛丼屋の中が沈黙に包まれる。異様な場所に来てしまったと大志は思った。
だが、飯を三分の一程かきこんだおっさんは沈黙を破った。
「なぁ、お前」
おっさんは牛丼を見つめたままそういった。
「何黙ってんだ、お前だよ、隣のお前だ」
「は? 僕でっか?」
「そうだよお前だ」
何故急に声を掛けられたのだろう。大志はどきりとした。
「お前、何でこのおっさん自分の隣に座るんだって思ったろう。教えてやるよ、ここが俺の特等席だからだ。俺はいつもここに座ってる、誰が隣に座ってようがかまやしねぇんだ。分かったらその胡乱気な目をひっこめろ」
「あ、えらいすんまへん」
大志は小さく頭を下げた。おっかないおっさんだ。
せやけど、僕そんなにおっさんの方見てたやろか。それも、嫌な目つきで。自覚が足りんのやろなぁ、僕。
大志はおっさんにまた注意される前に、早くこの暗い雰囲気の店を出ようと考えた。山盛りの牛肉を、白飯を、素早く口に突っ込んでいく。
「……おい、お前」
「はい」
しかし、またおっさんは大志を呼んだ。
「お前、芸人に似てるな」
「え?」
「お笑い芸人だよ。山田なんとかいう……」
「バカオ。山田バカオや」
「ああ、それだ。あれ、お前知ってんのか」
「知ってるもなにも、それ僕やさかい」
大志は驚いていた。このお笑いに全く興味の無さそうなおっさんに、芸名を憶えてもらえたなんて。嬉しいんだか悲しいんだか、どうも分からないが。
「何、お前があの芸人なのか?」
「せや。おっさん、どこで僕を見たんや?」
「テレビだよ。あれは確か深夜一時すぎ位だな、BSテレビで『ひよっこ芸人100』っていうのをやってたんだよ」
「ああ、あれか!」
それは、大志が出演した数少ないテレビ番組の一つだった。若手のまだ売れていない芸人を百人近く掘り出してきて、大きなひな壇に座らせ、大喜利やらなんやらをするという企画である。
「他の芸人は売れてない割に結構面白い事言えるもんだって感心したんだがな。お前は正直、駄目だって思ったよ」
「駄目……アカンかったんか?」
「ああ、全然。大喜利は特にな。全部スベってたぞ、お前」
「う……」
痛い所を突かれてしまった。大志はただ明るいだけが売りの様なものなので、大喜利では全く頭が回らず、勢いで押そうとしてもただただシラケるばかりなのだった。
「だから印象に残ってるんだろうけどな。もっと頭使えよ。お前ピンなんだから、ネタも自分で作るんだろ?」
「はぁ……頑張りますわ、はい……」
牛丼を食うペースがどんどん落ちる。大志は情けない気持ちでいっぱいだった。
「しかしあれだな、やっぱりテレビで観るのとは印象が違う。お前、普段はこんなに暗いのか?」
「いや……ちょっと、プライベートで辛い事があったさかい……」
「辛い事? 何だ?」
「…………」
「おい、無視か、山田バカオよ」
「彼女に振られたんや!!」
大志は大声で叫んだ。おっさんは目を真ん丸に見開いて、ぽかんとしている。
「か……のじょ? お前の、彼女?」
「そうや」
「へぇ、お前彼女なんかいたのか。で、どんな振られ方したんだ?」
「最悪やった。俺がクリスマスにやった指輪を転売したんや。最初からそれが目的で付き合ってたってバラされて、別れるって一方的に決めつけられた」
「うわ、最悪だな本当。指輪はいくらしたんだ?」
「15万やけど、それで100万儲けたって」
「15万!? クリスマスプレゼントで、それを!?」
「ああ」
おっさんは興奮して箸を投げ捨てた。
「聞いたか、おい、バイトよ、バイト!」
おっさんはよく眠っているバイトを揺すり起こした。
「ふぁ……何でしょう」
「こいつ女に15万の指輪やったんだと! クリスマスで、だぞ!?」
「ええ、マジっすか。俺の月給より高い……」
やはりテンションは低いものの、バイトの子もそれなりに驚いている様だった。
「そんなに驚く事かいな」
「驚く事だよ。吃驚させんな全く。だってお前、そんなのとすぐ別れちまったんだろ? 惜しくねぇのか? 15万ドブに捨てたも同じなんだぜ」
「まぁ、そりゃ、ちょっと」
本当は15万より、彼女といた時間の方が惜しかったのだが。
「おい、その女の名前は? もし知り合いだったら、一発殴らないと気が済まん」
「滝沢ナナ子さん。長い茶髪で、ちいちゃくって愛くるしい顔立ちや」
「ナナ子!?」
おっさんはガタンと席を立った。
「おい、ナナ子ってのは、ナナがカタカナで子が漢字か!?」
「そうやで」
「今28歳か?」
「え? なんでおっさんが知っとんのや?」
「畜生! あいつ!」
おっさんはカウンターに拳を叩きつけた。また寝かけていたバイトが跳ね起きる。
「えっと、ナナ子さんてもしかして、おっさんの知り合いなんか?」
「……妹だよ」
「は、はぁ? 妹て、おっさんお前、ナナ子さんの兄ちゃんやったんか!」
大志は愕然とした。たった今ふらりと立ち寄っただけの牛丼屋で、さっき振られた彼女の兄に出会うなんて、何という偶然だろう。
「バカオ、すまない! 俺の妹がお前の事をたぶらかしてたなんて、夢にも思わなかったんだ!」
おっさんは頭を深々と下げた。
「そんなん、ええってええって、顔上げぇな。おっさんのせいやないやろ。ところであんた、名前は滝沢なんていうんや?」
「俺か? 俺は滝沢秋人だ。ナナ子と同じ滝沢に、季節の秋と人間の人で秋人。お前はバカオが本名か?」
「んなわけないやろ。僕の本名は山田大志。大きな志と書いて大志や」
「なんだお前、折角俺がボケてやったのに、糞面白くもない自己紹介しやがって、芸人のくせに」
「そんなんしゃーないやんけ! 僕かてなぁ、好きで芸人やってる訳や――」
「じゃあなんで売れもしないのに続けてんだよ、さっさと止めちまえ」
「…………」
その通りだった。大志はお笑いが好きだから、芸人として夢を追い続けているのだ。それなのにこんな所で素人相手に愚痴っていていいのだろうか。
「……おっさん、あんたは仕事、何してんねや?」
「鉄工業だよ。鉄を加工する仕事。俺はかれこれもう11年も、鉄を研磨――削る仕事をやってんだ」
「はぁー、えらいしょーもない……」
「何て事を言うんだ、お前は。これで結構面白いんだぞ、研磨ってのは。ベテランになって、周りから『削れるおっさん』ってあだ名を付けられた時は、誇らしい気持ちでいっぱいだったよ」
おっさんは微笑しながらそう語った。初めて見たおっさんの笑顔に、大志は少し魅力を感じた。ほんの少し、だが。
「けど、僕はそういう地味ぃな仕事は出来そうにないわ。性格からして」
大志が興味無さそうにそう言うと、おっさんは険しい表情をした。
「さっきお前が言った事と似た様な事を口にするがな。俺だって、始めからやりたくて鉄削ってる訳じゃねぇんだぞ」
「どういう事や?」
おっさんは水を啜った。そして、ゆっくりと喋り出した。
「俺は子供の頃、ずっとタレントになりたいと思ってたんだ。中学校卒業して、高校にも行かずにタレント事務所に応募したけど、結果はどこも駄目。だからって今から高校に行く気にもなれないし、俺はずっとフリーター生活を続けていた。でも、そんな俺でも22歳の時、正社員になれたよ。営業関係の会社でさ。社員同士が仲良くて、明るい職場だった。タレントになる夢は失ったけど、もうここで働けたらいいやって妥協した」
「それで、今の仕事に転職したのは?」
「親が死んだんだよ」
おっさんは箸を置いて、自分の鞄をごそごそ漁り出した。
「俺、ずっと実家暮らしでさ。親には経済面でも精神面でも色々助けてもらって、感謝してた。独り暮らし始めてからも、何かと理由付けて何回も帰省したんだ。なのにさ、父ちゃんも母ちゃんも、俺の見てない所で、事故で逝った。でも、俺はもう大人になったんだから、って気持ちを切り替えようとしたよ。でも駄目だ。何か辛いんだよ。何か、ずうっと涙が出るんだよ。気付いたら自分の部屋で、一人で、餓鬼みてぇにワンワン泣いてんだよ、気色悪いよな、俺」
おっさんは鞄の中から瓶を取り出して、中の液体をぐびっと飲んだ。
「それでも仕事だけはちゃんとやろうとしたんだけど、やっぱり駄目だった。仲が良い筈の同僚が、ずっと俺の悪口を言ってる気がして、不安になってくるんだ。今思えばあれは、鬱ってやつだったんだな。それで俺は退職して、乞食の真似事なんかして1年程を過ごしてきた。そして乞食を止められたのは、今働いてる工場の工場長が拾ってくれたおかげって訳さ」
大志は言葉が出なくなった。おっさんは大志の目を真っすぐ見つめた。
「あのな、バカオ。やりたい事が出来ない人だっているんだ。ピュアな心で夢を追いかけて、それでも生活させてもらえてるのに、甘えた事ばっかり言うんじゃねぇぞ」
「……すんまへん」
謝る声が震えた。大志は、自分が本物の阿呆だった事に初めて気が付かされた。
今まで夢は叶うまで追い続けて当然だと思っていた。それによって傷つくのは自分だけで、この環境に夢を追わせてもらっているとは、考えた事も無かったのだ。
「分かったらいいんだ。じゃ、お前も飲めよ、これ」
「え、それって」
「酒だ」
「お客様、閉店です」
「へいてん? なんじゃそりゃ。おいバカオ、バイトが何か言ってやがんぜ」
「ひゃひゃひゃひゃ、なんやへいてんって! ひゃひゃひゃひゃ!」
バイトが困った様な顔で二人を見下ろす。大志とおっさんは、もう完全に酔い潰れていた。二人は体が火照ってきたせいか、上半身裸になっていた。床には一升瓶が何本も転がっている。
「なぁバイト、お前も酒飲もうぜ!」
「え、いや、あの、俺まだ未成年なんで」
「いくつやねん?」
「16です」
「じゅーろくかぁ。ほな、もう大丈夫やろ、ええてええて、飲み!」
「ええ、全然大丈夫じゃない……」
「固い事言うなよ、釣れねぇなぁ」
おっさんはバイトに缶ビールを一本手渡した。
「ほらほら、一気しろ、一気!」
「いっき! いっき!」
「わ、分かりましたよ、飲みます、飲みます」
バイトはプシュっと音を立てて缶を開け、それを呷った。
「おお、いいぞ、いいぞ!」
しかし、バイトは数秒も経たぬうちに飲むのを止めた。
「ぷはっ。はぁ、もう無理……」
「おいおい、この位一息で飲みほせねぇのか、なっさけねぇ」
「でもええ飲みっぷりやったやんか、流石若いのは違うなぁ!」
「お前だって若いだろ、いくつだ?」
「25や。もう僕もおっさん、おっさん」
「何言ってんだ、俺なんか39だけど、まだ現役バリバリだぜ?」
「39やとぉ!? それにしちゃ見た目若いやんけ、なぁバイト」
「そっすね、割とイケメンだし……」
おっさんは呆れた様に両手を挙げ、首を振った。
「なーに言ってんだよ、俺なんかもう白髪も生えてるぞ。お前らはいいよ、俺がお前ら位若い時は、途方も無い夢見てたんだもんなぁ……」
おっさんは遠い目をした。バイトはおっさんの顔が面白かったのか、プッと吹き出した。おっさんがムッとする。
「夢見たらアカンのかいな!!」
大志は大声を張り上げた。バイトは爺共のオーバーな言動に耐え切れなくなり、ついにぎゃははははと大笑いした。
「はいはい、好きなだけ夢見ろよ、頑張れよ。お前は頑張ればいいよ、頑張ればいい」
「あいよっと!」
大志は手にしていた一升瓶をカウンターの中に放り込んだ。一升瓶は幸いにも割れなかったが、厨房の方にごろごろと転がっていく。
「ああちょっと、何してんすか、もう」
「バイト、歌えや!」
「は? なんで……」
「そりゃいい、お前確かバンドやってたろ」
「げ、何で知ってんすか」
「音楽やってる奴は見た目で分かんだよ。はいここでバイトさん、一曲お願いします!」
「えぇ……じゃあ、俺の作った曲でいいなら」
「よっ! 待ってましたぁ!」
「かっこええぞバイトー!」
「は、はあ」
そしてバイトは歌いだした。ゆったりしたバラードだった。とても良い声だ。
素直な歌詞に乗せられたメロディが、大志とおっさんを引き込んでいく。
その歌は失恋歌だった。大志が経験した様な残酷な失恋ではなく、愛し合っていたのに別れる必要に迫られ、愛を誓いながら離れ離れになっていく、美しくも儚い失恋だ。
♪絶対君の事だけは いつまでも忘れないだろう
例え僕に恋人が出来て 結婚して 幸せになれたとしても
君に縛りつけられる事を僕は望むんだ……
歌が終わりかけ、バイトがギターの音程を「ラララ……♪」と調子良く取っていた、その時。
「コラァ、何やっとるか!」
厨房から見知らぬ老爺が出てきた。
「て、店長」
「他のもんがストライキしとるのにお前は真面目に働いて偉いと思うちょったら、なんだこの有様は!? 店ん中で客と酒飲んで騒いでいいと、誰が教えた!!」
「すみません、つい……」
爺は大志とおっさんをキッと睨みつけた。
「おめぇらもおめぇらだ! ここは今日で終わり、もう潰れちまうんだ! さっさと帰れ、邪魔者めが!」
「今日で潰れる? おい、本当かバイト」
「はい、実は店長が今日になって、この店が潰れる事を知らせたもんだから、他の店員がバックレちゃって、今夜は俺一人でなんとか……」
「何無駄口叩いとるか!! さっさとか――あだっ!」
店長はカウンターの中に転がっていた一升瓶で足を滑らせ、盛大に転倒してしまった。禿げ頭を勢い良く打って。
「ははっ。あはは、あははははは!」
バイトは手を叩いて店長を嗤った。清々しい笑みだ。
店長は顔を真っ赤にした。
「滝沢さん、バカオさん、逃げましょう!」
「おう!」
「ええで!」
バイトはカウンターを乗り越えて、出口に手を掛けた。
「待て、ゆ、許さん!」
「負け犬の遠吠えってダサいと思いません? 人望の無い店長さん!」
バイトは捨て台詞を吐いて駆けだした。大志とおっさんも続く。
三人は走った。どこへ行くのかも分からないが、兎に角走った。
取り残された店長の、タコの様な顔。思い浮かべるだけで、笑いが込み上げてくる。
走りながら笑った。笑いながら走った。
もう愉快で愉快で堪らなかった。
「はぁ、はぁ、おい、もう無理だ……」
真っ先に息が切れたのはおっさんだった。
「せやな、僕もそろそろや、よう走ったわ」
「ですね」
暫く、白い息を吐きながら、三人は黙っていた。
「今日は、久々に楽しませてもらったよ。じゃ、もう帰ろうか」
おっさんが明るい声で言う。
「せやな」
「ですね」
「次会うのはいつになるんだろうな?」
「僕のお笑いライブの時に決まってるやろ!」
「お客さんが俺と滝沢さんだけとかは止めて下さいよ?」
「何を言うとんのや、大繁盛でチケット買われへんくっても知らんぞ! 俺は日本一、いや、世界一のお笑い芸人になったるねんからな!」
「はは……じゃあな、何でもいいけど、また会おうぜ!」
「さようなら」
「ほい、さいなら!」
大志は手を振って、二人に背を向けた。
まばゆい都会の灯りが、目の前に沢山灯っている。
お笑い芸人は、いざとなったら止めたらええ。
けど、僕は人を心の底から笑かしてやりたい。嫌な事も吹っ飛ぶ位の笑いを、人に教えてやりたい。
その夢だけは、諦めたらあかんのや。色んな人に支えられて、僕の夢があるんやから。
絶対に、諦めへん――
彼はまた走り出した。今度は、一人で。
最後まで読んで下さり誠に有難う御座います。
P.S.評価・ご感想を賜りました! 有難う御座います!