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『腹黒』タグ追加しました。
少し寒いな、私はそう思いながら、鈍色の牢屋の天井を見上げた。煤けたような黒い模様が水玉模様のように広がっている。
何故、こんなに肌寒いのだろうか。不思議に思った。
私は麻のシーツが敷かれた寝台に腰を下ろしていた。座り心地が悪いせいで、そのことばかりが頭を占めるので、悲しい気持ちにならないのが良かった。
俯いたときに、自分の身につけている服が眼に入った。人差し指と親指で摘んでみる。ザラリとした感触、薄い生地。
数日前の服装と比べてみてちょっと苦い笑いがこみ上げたが、不思議と落ち着いた気分だった。この服が気に入っているわけではなくて、たぶん数日前に着ていた服がそこまで好きじゃなかったからだろう。
独房、この牢の天井には小さな窓がある。夜だから、入ってくる光は月の青白い光だけだ。その薄っすらとした明るさは、心地よかった。昔から夜の方が好きだった。一人で過ごす夜は寂しかったけれど、一人で居ると言う実感を持てた。一人でいるというのはとても気楽なのだ。
誰も面会に来ないのも、気楽だった。リアはこの前のことで私を見限ったのだろう、来ない。そして実の父と母も来ない。部下も来ない。寂しさを感じるほど、可愛い性格はしていない。
壁にもたれかかった時、耳に慌ただしい足音が聞こえた。看守の足音は特徴的だ。少し足音を引きずるようにして、ガチャガチャと鍵の音を鳴らす。だがこの足音は看守のものではなかった。規則正しく、コツコツと。
私が扉を見つめると、四拍ほど置いて開いた。ギィーと鈍く擦れた音が耳に滑り込む。
立っていたのは、この監獄の主人だった。神経質そうな顔の目元が時折ぴくぴくと動く。せわしなく眼球が泳ぐ。目元がそんな風なのは腹を立てているわけではなく、病気だからだ。前世で言う神経症。
「おっ、起きていた、のですか」
どもりながら言うのに頷く。彼はぎこちなく私に近づいて、口をもごもごと動かした。本当にもごもごとしか聞こえない。私が苛立ちを感じ始めた頃、またひとつの足音が聞こえた。ゆっくりと、ただ妙なほど足音には個性がなかった。
開いた扉から一人の黒髪の男性が顔を出す。漆黒に染まった顔が青白い月に照らされ浮かび上がる。
ヨルム――私の逮捕を支持した、その男だった。
独房に粗末な机が運び込まれた。この監獄の主人はヨルムを前に緊張しているのか、もごもごと焦りながら、何か言っていた。ヨルムは「ああ、そうだな分かった。悪いが二人にしてくれるか?」と穏やかに言った。そして不釣合いな木の椅子に腰を下ろした。
私は寝台の上に座ったまま動かない。
ヨルムが会いに来るのは想像していなかった。ヨルムが私に色々な思うことは知っていたが、彼は感傷や自分の欲求を満たすために会いにくる、そういうタイプではない。人払いをして、ただ一人でじっと執務机に座り、飲み込むのだ。肘を机に置き、手を握りこみ目を閉じ。自分なりに飲み込む。
ヨルムのその妙な悲しさが愛おしい。
「出るか……? ここから」
最初に口を開いたのはヨルムのほうだった。擦れた苦しそうな声だ。
問われた意味を反芻し、私の手が震えた。
「ふざけているの?」
感情をこめずに言おうとしたが、心なしか自分の声は震えているように聞こえた。誤魔化すように溜息を、わざとらしく吐いた。
「……俺に何を求めてるんだ」
苛立ちを篭めて言い、ヨルムは漆黒苛烈な目を私に向けた。それに縋る色があるのを私は久々に見た。その色はすぐに隠れた。
ヨルムは有能だから、気付いただろう。私の計画ぐらい。そして計画は、ヨルムに確実に分かるようにしてある。だから縋っているのだろうか。あの頃――私がヨルムと仲が良かったころ、幾度も助けたことを思い出して。
「貴方は皇帝でしょう。自分で考えなさい」
目の前の皇帝は、私に縋っている。そんなことは許容できない。
ヨルムは皇帝であることを自覚している。そしてその自覚は在位中に根付き、もはや身体の一部になっている。そう、私には理解できなかったけれど、ヨルムはもう『皇帝』という生き物なのだ。
だからこそ、私はヨルムのためではなく、ある意味皇帝のために行動した。そしてその皇帝のための行動はヨルムへの愛に起因する。自分でも矛盾すると思う。
ただヨルムへの思いはいつも、矛盾する。
時には愛していると、分からないときもある。ヨルムのどうしようもないほどの無常を愛おしく思うときもあれば、苛立つときもある。
「貴方はもう俺のことはどうでもいいのか」
紡がれる言葉に、否定の言葉が浮かぶ。
そんなこと、あるわけない。どれだけ好きか、分かっているのだろうか。
前の皇帝、私は彼のことも好きだった。だけどその感情と、ヨルムへの感情は余りにも違いすぎる。
「貴方は、私のしたことを分かっているのでしょう? その意味も」
「……ああ、分かってる。今までのお前の姿は擬態だった。エレミー……俺に嘘をつく必要があったのか。俺は、父と違って信用に値しないパートナーだったのか?」
パートナー、その響きに思わず失笑が漏れた。ヨルムは綺麗に勘違いしている、いやさせられている。
私と前の皇帝がパートナーだったことは一度もない。彼が幾度も言った『愛している』という言葉には嘘はないだろう。そして世界を変えよう、その言葉にも。ただ私には彼の提案しか糧がなかったけれど彼にはたくさんのものがあったのだ。宮廷で囲っていた美姫達や、彼の愛する武道や武術。そして暇つぶしといいながらも、楽しげにしていた権力争い、陰謀の数々。
私の命を掛けた『帝国を救う』ことはその中の些事のひとつだった。
詰まるところ、私は彼の人形だった。それを不満に思うことのない。
ヨルムにこの計画がばれるのは彼が仕組んだことだ。私の気持ちを踏みにじり、前皇帝は自分の人形遊びに最後まで私を付き合わせた。
こうなることは分かっていた。私が前皇帝の指示に従ったのは、私の命の価値を測りたかっただけだ。
「ヨルム、私は死ぬわ。今更、そんな計画とか、終わったことを話してもしょうがないように思うわ。
楽しい話をしましょう」
「……俺はそんな気分じゃないな。そして最後の最後まで、あんたら二人に付き合うつもりはない」
「そっか。
ヨルム、王妃とは仲良くしてるのかしら?」
「……話ぐらい聞け」
「あの王女は、どういう人間なの? 噂で聞いたわ、それなりに仲良いのでしょう?」
空気を読まない、という行為に最初はストレスを感じたものの、最近では商談でこれをするのが楽しくなってきた。
演技に性格が釣られてきたのだろうか。それを考えると辛いものがある。ほら、演技中の性格はちょっとあれだから。
「あれは、な。子供だ」
返事を返してくれるヨルムに笑みが浮かんだ。一見すると、弟の恋愛話を聞く姉に見えないこともないだろう。
「子供? 不思議な発言ね。どういう意味なの」
「何も知らないんだ。教養はある。頭も悪くない。ただ人間というものを余りにも知らない」
その口調が、不快だった。厳しい発言にもかかわらず、とても優しい口調だったから。私は胸に積もった感情が醜いものだと認めたくなかった。嫉妬――そういう感情を抱く自分が妙に哀れな気がした。
「好きなんでしょう」
私の悟りきったような声に、ヨルムは一瞬虚をつかれた表情をした。しかしすぐに穏やかな表情を浮かべ、首を振った。
「いや、恋情じゃない。ただ、あの子供はとても、ああ言い表せないな。複雑なんだ」
好きに決まってる。投げやりな気持ちで思った。ヨルムの鈍感さに、泣きたい気分になった。好きなんだ、と言ってくれれば私も救われる。
ヨルムに対する愛情も昇華できるのに。
「…………ああそうだ。あの女はとても純粋なんだ。心のどこかが、生まれたての子供のように柔らかく穏やかなんだ」
一度だけ見たあの王女の姿を思い出す。まるで子供のように細く、頼りない。しかし、きっとヨルムは、あの王女に救われている。そして気付いていないだけで、頼ってもいる。
あの王女はきっと素直な人間だ。私のように偽らない。
私は最後にヨルムを手招きした。
あからさまに戸惑った様子を見せたが、静かにヨルムは頷いた。
椅子から立ち上がり、近づいてくる。私の座っている、硬い寝台の前に立ち、私を見下ろす。
私はヨルムの腰に抱きつき、引き寄せた。ヨルムの頭が私の胸にすっぽりと収まった。そっと柔らかな黒髪を撫でてみる。
「貴方を皇帝以外としてみてくれる人はもういないわ。きっと貴方は上手く作れない、自分を一人の人間としてみてくれる人を」
「……姉上……」
引き絞る声。久々に呼ばれたその名称に悲しくなる。
「私は貴方の姉よ。ずっと。死んでもね。
――――私が死ぬのは、貴方にもう一つだけ、可能性があったからよ。貴方の后は弱いから、貴方のことを一人の人間としてみるのは難しいのかもしれない。だけど貴方が素直に自分をただの人間だと思うことで、彼女は気付いてくれる」
姉上、ポツリとヨルムが言う。
「姉上は、俺のことを愛してくれていたのか。この計画も、俺のためのものだったのか……?」
演技を続けよう。
「……ヨルム、貴方のことは愛していないわ、私がこの世で好きだったのは貴方の父親唯一人なのだから。計画は貴方の父親に頼まれたからよ」
ヨルムは誰からか計画の目的を教えられたのだろう。誰に教えられたのか、知りはしない。しかしその裏で糸を引いているのは前皇帝だ。
ヨルムを抱きしめ、温かいその体温を感じながら、心の奥底では酷い虚無感を感じた。
私はこの計画の目的を誰にも知られたくなかった。特にヨルムには。
何故なら、ヨルムは気に病むから。私が自分の所為で人生を棒に振ったと。
そんなことあるわけないのに。全て私の自己満足なのに。
前の皇帝は優しく、頼りになる男だった。彼の独善的な行動に目を瞑るのなら、彼ほど頼りになり、頼りたいと思う男はいないだろう。
しかし彼は世間一般で言えば、最低なことを私にした。
皇女とはいえ、養子の私が何故商会をそこまで大きくできたか。とても単純なことだった。前皇帝は私に『手を出している』、そういう噂があったから。そしてそれが事実だった。
彼は自分の『モノ』にはとことん甘い人だった。愛妾のために、大陸を渡って宝石をプレゼントしたこともある。だから貴族達、商人達は私には逆らえなかった。彼に脅え、所有物である私に媚びた。
彼は認識していたと思う。自分が他人のことを所有物という価値でしか計れないということを。愛しているという言葉も、圧倒的優位から投げかけられるものだった。そして甘やかしたぶんだけ、彼の独占欲は増長した。
私は最後に――死ぬときに、ヨルムのことを愛していると言おうと思っていた。もしこれがヨルムのための計画だと知らなければ、彼は私の言葉を性質の悪い冗談だと思い、相手にしなかっただろう。だから何の迷いもなく、気持ちを伝えられるはずだった。
でも計画の目的が知られれば――加えて気持ちを伝えれば、ヨルムは一生悲しく、辛い思いをする。
そんな可哀想なことは出来い。
前皇帝は自分の所有物が他の『男』に気持ちを伝えることを許さなかったのだ。だからこんな風な結末を用意した。全てが中途半端な。
最後の思いすら、独善的な独占欲で消された。
ヨルムの手を握った。全てが整ったヨルムの中で、手だけは不恰好なのだ。
目元を押さえた。
きっと――。
私がいなくても、ヨルムは大丈夫。心配で心配で堪らなかったけど。
一人きりになってしまわないだろうかとか。
一人きりの、冬のような寒さの執務室で蹲っていないかとか。だけど、それも大丈夫。あの王女は暖かさを少ししかもっていないけれど、人に与えることが出来る。寂しさを抱えているからこそ、人の寂しさを理解して、ヨルムのことを受け止めてくれる。
ヨルムを押し返して、
「そろそろ、戻りなさい」
と笑った。
色々な感情を押し殺した表情で、彼は尋ねた。
「教えてくれないか。死んでもいいくらい、あの人のことが好きだったのか」
そうであれば、良かった。そうであれば浸れただろう。
だけど違う。現実はただ『どうでもいい』という投げやりな思いから生まれた。そしてヨルムへの想いが全てを完結に導いた。
沈黙は一番の答えと言う。だから「どうなのかしらね」と微笑んだ。