あなたに振られて、正解だった。
「二人きりで話したいんだ」
そう言われてアイリーンはすぐに冗談だと思った。
使用人を退室させてそんなことをするなんて非常識すぎる提案だ。
「なに言ってるのよ。そんなことできるわけないでしょう」
「そ、そうか? ……私はそれでもかまわないんだが」
そしてすぐに笑って引き下がらないアーロンのことを見て、やっと彼が冗談ではなく本気でそう言ったことを理解した。
それからやっぱり自身の勘は外れてはいないのだと思う。
アイリーンと目の前にいる彼、アーロンはもともと婚約者の候補として名前が挙がっていた関係である。
アーロンは第一王子で王太子、アイリーンは公爵家の娘で王太子妃候補として、王妃教育を受けていたこともある。
そして、アーロンに恋していた。
幼いころは両親から彼の良い所を聞いて育ち、子供時代には周りの多くの人間から将来は王妃になるのだと言われ、アイリーンは選ばれるために努力を重ねた。
「……それにしても久しぶりだな。アイリーン、君は……いつ見ても美しいよ」
アーロンはふっとアンニュイな顔をしてアイリーンのことをほめる。
以前はこうして褒められるたびに期待して、彼の甘い言葉に頭の中がとろけるような思いだった。
「ありがとう、アーロン。あなたも変わらずハンサムね」
「そう、か? ……アイリーン、君なら、私の変化に気が付いてくれると思っていたが、それは私の買いかぶりだったのか……?」
問いかけられて、アイリーンは、小首をかしげて考える。
彼の言葉に、心の奥がむずっとして、どうにか彼が言って欲しいことを読み取ろうと無意識にしてしまう。
そしてそんな自分に気が付いて、アイリーンはふっと息を吐きだしてから頬に手を添えて、困った顔をする。
そのまま「さぁ、わからないわ」と返した。
すると彼は、怪訝そうな顔でアイリーンのことを見た。
「まぁいい。そういう日もあるだろう。最近の君はどうかな……うまく新天地でやれて━━━━」
「それよりも、用件を話してくれる?」
そして彼はまた別の方向へ話を進めようとした。
そんな彼に、アイリーンは、苦笑して早く用件を話すように促した。
そもそもアイリーンは、彼とこんなふうに朗らかに話をするためにやってきたのではない。
仕事に穴をあけているのでできるならばさっさと帰りたいというのが本音だった。
手紙で何度も呼び出して来るからこうして仕方なくやってきただけで会いたかったわけではない。
手紙で伝えられない用件なのかと彼に何度も言ったし、それでもどうしてもというのでこうしてこうしているのである。
だからこそさっさと話すのは彼の義務でもある。
「なんだ。……そう急ぐなよ。余裕のない女は男に捨てられるぞ?」
「無駄な話をする男性も女に嫌われるわよ」
言葉を遮ったからか彼は、少し責めるような目線をアイリーンに向けて、アドバイスのように言った。
その言葉にアイリーンはすんなりと返答が出てくる。
「……」
「……」
すると彼は、同意するでもなく黙りこくって、真顔でこちらをみてしばらく硬直した。
ストレスを受けた兎みたいな行動に、アイリーンも顎に手を当て、彼の心境を考えるように見つめた。
それから彼は、とても大袈裟なため息をついて、自分の髪をガシガシと乱してから俯いて、なにも言わなくなった。
それを見て胸がチクリとする。
反射的に妙な焦燥感に襲われてアイリーンはその嫌な感覚を思い出して、気持ちが荒んで彼に言った。
「用件がないなら、帰っていい?」
自分で想像していたよりもずっと威圧的な声だった。
その声を聞いて彼は困惑しつつもアイリーンの方を見て、首を摩りながら言う。
「……君は変わったな」
まるでそれが悪いことかのように言う彼に、アイリーンは仕方ないので少し口を閉ざす。
用件を聞かないことには、ここを去ることもできないし、こうしてやってきたからには、こんなことがもう二度とないようにきちんと対処をしたい。
だからこそ話が進むのを待つ。
「そうだな。きちんと本題を話そう。その前に、その侍女をそこに居させていいのか?」
最後の確認のように言う彼に、アイリーンは専属の次女であるラナに目線を向ける。すると彼女は大きな眼鏡をきちんとかけ直してきゅっと口角をあげた。
「本題は?」
「……本当にいいんだな?」
彼女を下がらせる気などまったくないのでアイリーンは、いろいろな言葉を飲み込んで彼に問いかけた。
けれどもまだ聞いてくる彼に、ぴきりと青筋がたったが、彼は気がつかない。
ぎこちない笑みで彼に視線を向け続けていると、彼はまた大袈裟にため息をついて、今度は肩をすくめたあとに、やっと本題を話し始めた。
「……本題というのは、ジュリアナのことなんだ」
「だと思ったわ」
やっと言った彼にアイリーンはうんざりしつつもそう返す。
「ああ……半年前、だったか? ついに君とジュリアナの二人のどちらかを選ぶときがきて、私はその時の自分の心に従った」
そうして彼は語りだす。アイリーンが彼に選ばれなかった時のことを。
「多くの人は君のことを推していて、たしかに君はとても優秀で、私を想う気持ちも申し分なかった……でもジュリアナはそうじゃなかった、逆境の中にあっても自分を貫く強い女性だ」
その時のことを思いだして彼は自分の気持ちを吐き出す。
「強くありつつも、自分を奮い立たせている弱い女の子だ。そんなジュリアンアを私は守りたいと思った。君と違って頑張っている彼女の手を取ってあげたいと思わせてくれた」
その言葉は彼視点のあの時のことであるが、アイリーンからすれば、アイリーンを周りが押していたのはアイリーンの方がふさわしい努力をしていたからという正当な理由があった。
彼にはどうやら、そうは思わなかったらしい。
「だから、彼女の手を取った……でもそれは間違っていた」
「間違い?」
「ああ、たしかに私の目は節穴じゃない、その時のジュリアナは手を取るべき女性だったし、間違っていなかった。そうではなく、間違いだったのは選択肢そのものだ。ジュリアナを選んだら君を選べない、君を捨てることになるその選択肢が間違っていた」
「……」
「君だって私のことを愛して尽くしてくれる女で、私の手にするべき人だった。それを私は目の前の価値観に囚われて、ジュリアナの手を取るだけにとどめてしまった」
「……」
「それをとても後悔している。ジュリアナは強い女性だが完璧じゃない」
彼は胸に手を当てて苦しそうに、顔をゆがめてアイリーンへと視線を向ける。
「仕事をできない日も、ミスをするときもある。ストレス発散に買い物をして気分を晴らしたいのだって咎められない。美しい宝石が彼女を彩るのに必要だと君にもわかるだろう?」
「え?」
問いかけられて、アイリーンは首を傾げた。
なんせ、当時アイリーンはきっちりと彼に言ったからである。彼女は散財癖があって、宝石なんかに目が無い。
たしかに品格は重要だけれど、それ以外にもお金を使うべきところはたくさんあるし、彼女の宝石を褒めることをやめるべきだと言った。
それでも聞かずに、アイリーンと比較して華やかで美しいと褒めたのは彼自身だ。
「彼女には欠けている部分がある。けれども、大切な愛嬌という素養を持っている。……そして、君にも欠けている部分があって、その代わり得意なこともある? 違うかな?」
彼の言葉にアイリーンは真顔で「なにが言いたいの?」と返した。
「……君の手を取らなかったことを後悔しているんだ、アイリーン、私の愛を一心に求めて、なんでもしてくれた君に今、私は伝えたい」
「……」
「愛している。そう気が付いたんだ。新しい生活は大変だろう。王都に戻ってくるといい。立場はジュリアナの側近ということになるけれど、君が求めていたものは君にすべて与える」
「……」
「私からの愛も、時間も、その分君は以前と同じように尽くしてくれたらいい、それだけで十分だ、アイリーン。どうか私たちのことを支えてくれないか」
うっとりとするような優しい表情で言われて、アイリーンはぽかんとして、すぐには返答を返せなかった。
しかし数秒してやっとふつふつと感情がわいてくる。
彼の言いたいことがやっとすべて理解できて、そしてアイリーンは、苦い笑みを浮かべて彼に言った。
「頭を床にこすりつけてお願いされても、ごめんだわ、アーロン」
「……ん?」
「勘弁してほしいって言ってるのよ。アーロン」
優しい表情のまま聞き返されて、アイリーンはもう一度言葉を変えて彼に言った。
彼はぱちぱちと瞬きをしてアイリーンのことを見つめている。
「あなた自分が何を言っているのかわかっている? 愛の言葉を並べて私をうまく取り込もうとしているつもりなんでしょうけれど、あなたが考えている事なんて少しも隠せていないわ」
そしてアイリーンは丁寧に説明してやるように彼に言う。
「仕事ができないジュリアナの代わりに私を使いたいのよね。ついでに散財する彼女に、以前のようにきちんと言ってやめさせたいのでしょう?」
「……」
「私がいなくなって半年、それでやっと弊害が出て、彼女ではきちんと王太子妃としての務めも果たせないとわかって、こうしてあなたは私を呼び出した、それで? 私のことも愛するから、私に戻って来てなんとさせてやろうって?」
言葉はすらすらと出てきてアイリーンは、アーロンの浅はかで幼稚な考えを次々、明らかにしていく。
「だってアイリーンはアーロンのことをあんなに愛していて尽くしていたのだから喜んで手を取るだろうって??」
彼はアイリーンの次から次に確信をつく言葉に、目を見開いて、アイリーンのことを見つめている。
「ジュリアナを選んだのはあなたなのに? 自分のその目で見て、王太子妃という立場の人間をあなたが大勢の反対を押し切って選んだのに?? この私にあなたへの愛情を人質に取って、あなたが選んだ彼女の欠点を埋めろと??」
「……」
「呼びつけて、愛してやると言ってやれば、たちまち自分に酔いしれて、あの時のように自分のなんでもいうことを聞く都合のいい奴隷になると思っているのね?」
確認するようにひたすら問いかけると彼はやっとハッとして、取り繕ってアイリーンの言葉を否定した。
「い、いや、違う。そうじゃ、奴隷なんてそんな、でも君は私のことを愛しているはずだだからこそ君にチャンスを、また私と愛し合う機会をこうして━━━━」
そして彼は、アイリーンがどんなに問いかけて自信の行動を顧みる機会を作っても否定する。あくまでアイリーンのためだと口にする。
その様子に、アイリーンは心の中がとても落ち着いて、凪いでいくのを感じる。
アイリーンは幼いころから、彼と結婚するのだと言われて育てられてきた。
彼のために努力をすることも、彼を尊重することも、尽くすこともすべてを教え込まれて、それがアイリーンの人生の当たり前と刷り込まれた。
だからこそ、自分が選ばれるために努力をしたし、自分も犠牲にした。
そして彼の機嫌が悪くなると必死になって、フォローするためにおだてたし彼が言って欲しい言葉をいつも探していた。
その行動は染みついて恋心とともにアイリーンのことをしばりつけてきた。
今でもその焦燥感を覚える。
けれどもアイリーンは選ばれなかったことによって自由を得た。
振られたことによって、自分の価値観のすべてがひっくり返ったような混乱と悲しみを感じつつも自分の道を見つけた。
そして、今、その昔の振られた悲しい気持ちも、彼の徹底した言動によって崩れ去っていく。
刷り込まれた妄信は色を失って、あっけなく崩れ去っていく。
そう思えると彼が怒っていても、苛立っていても恐ろしいとも怖いとも思わない。
ただ愛情を持つべきでもない最低な男に対する、切れ味の良い冴え切った気持ちがあるだけだ。
振ったうえで、今の相手を手にしつつも、アイリーンの努力によって得たものだけを搾取しようとする。
それを愛情だなんだとこじつけてそう言っておけば、いうことを聞いてくれると浅知恵を働かせた愚か者。
格下の相手からならなにを奪ってもいいと思っている正真正銘の悪党である。
撃退するのに同情心の一つも必要ない相手だ。
「うぬぼれないで。こんな提案をする男を心底愛する女性なんているはずないでしょう。恥ずかしい」
きっぱりと伝えると彼は、頬を引きつらせて「なんだと?」と聞き返す。
「自分がやっていることをよく考えてみろと言っているのよ。王妃にふさわしい女性を選ぶ場で、あなたがジュリアナを選んだの。だから、あなたが代わに仕事をするなり自分の予算を削るなりして彼女とやっていくのが筋ってものだわ」
「いや、人には向き不向きってものがな、アイリーン」
「そんな言い訳が通用するわけないでしょう。それに、私は私を選んでほしいときちんと言っていたし選択肢もあった。それを捨て置いたくせに、わかり切っていた答えが出て困ったからって、どんな筋合いで、彼女のサポートを私に頼むの?」
「……」
「あなたが責任を持って選んだ相手とやっていく、それがあなたのやるべきことよ。私を推していた全員がそう思っているわ」
得意不得意は確かにあるとは思う。しかし、それも加味して選んだはずだ。
多くの人がジュリアナでは務まらない、自分が苦労することになると助言していたにも関わらずに、自分の決断を信じたのは彼だ。
得意ではないジュリアナが王太子妃について、仕事ができないことはアーロンの責任であり、またそれを補うのだって彼の仕事だ。
「っ、でも、私は忙しいんだ。私に手を貸すなんて当然のことだろう」
「私だって忙しいわ。自分の人生で精いっぱい、あなたにこれっぽっちも愛情なんてないのにどうして当然なの?」
「そ、それは」
「あなたが選んだのだからあなたの責任よ。多くの人に言われていたのに選んだのだから、あなたがジュリアナとやっていくしかないのよ」
「っでもあいつは、たしかに美しいが、わがままで気分やなところがあるんだっ! 気性も荒くて一度怒ると手が付けられない猛獣のような女だ! そんな彼女に私が、きちんとしろなんて面倒くさいこと言えるわけがないだろう!」
彼の責任だと言うと、今度は彼女の性格を引き合いにだして、そんなことはできないと主張する。
そんなことだって、初めからわかっていたことだ。誰もがわかっていてジュリアナを選んだ彼に同情なんてしない。
「それでも、あなたが自分ですべてを背負うしかないわね。アーロン。そんなジュリアナを選んだのはあなたですもの。生憎、私に彼女がどんな性格だから無理なんだと言われても、なんの言い訳にもなっていないわ。わかっていたことだと思うだけよ」
「なっ、なんなんだっ! なんて薄情な女になったんだ君は!!」
「当たり前のことを言っているだけよ」
「こんなことでは、絶対に結婚相手なんか見つからないな! こんな性悪じゃあ!」
今度は逆切れする彼に、アイリーンはただ静かに冷ややかな視線を向けて、彼に返す。
「結婚しても、支え合えずに浮気同然で以前の女性に助けを求めるような関係なら、無い方がましよね」
「ふ、ふざけたことをっ」
「……更に喧嘩も絶えない間柄になるなんて、いい気味だわ。アーロン。ラナ、きちんと今までのことをメモしてくれたかしら」
アイリーンは顔を真っ赤にして怒る彼を気にも留めずに目を細めて、それから侍女のラナを振り返る。
彼女はソファーに隠れる位置に隠し持っていたペンとメモ帳をぱっと出して「もちろんです!」とにこやかに言った。
「今日のことはきちんとジュリアナに手紙で報告しておくわ。あなたの提案も、ジュリアナに対する猛獣発言もきちんと書くから安心して」
「……は、はぁ?」
「喧嘩のし過ぎでこれ以上、国王陛下からの評価が下がらないといいわね。あなたの地位だって、万全のものではない。自分の立場を過信して、好きなように都合よく人を使うばかりでは、足元をすくわれること、覚えておくことね」
そうしてアイリーンは笑みを浮かべて立ち上がる。
彼は、どうしようもない人で、アイリーンが愛した人は、愛するに値しない狭量で人を見下すくだらない男だった。
……選ばれなかったことはつらかったわ。でもそれが私の人生の正解だったと今なら思える。
「待てよ、話はまだ終わってないっ! アイリーン!」
「私はもう十分よ。むしろあなたのためにもう一分だって無駄にしたくないのだもの」
そうしてアイリーンは王城を後にして、今日の出来事をきっちり手紙にしたためた。
それらをジュリアナの元へと送り、ついでに王都住まいの実家の父の元へも送って、いつも通り仕事に戻ったのだった。
アイリーンの仕事というのは、実家の領地の周辺に位置しているハドルストン辺境伯家での側近業だった。
もとより近隣領地としてハドルストン辺境伯家とは縁も深く、王太子妃候補から外れたアイリーンが身の振り方を考えていると、声をかけてくれたのだ。
側近と言ってもまだまだ若く下っ端なので、軽い事務作業もこなしつつ、時たまやってくる辺境伯令嬢であるエイミーの相手もしていた。
彼女はおしゃまな女の子であり、アイリーンのことをとても気に入っている。
それはもう父がおらずとも執務室にやってきて遊ぼうと誘うぐらいには。
そのたびに彼女の侍女に申し訳ないと謝られつつも、軽い仕事の多いアイリーンは彼女の相手をしてやる。
「ぎゃ~! 何故だ、何故、俺がこんな目に合わないといけないんだ~!」
「……」
「フンッ、あなたなんてこうよ!」
今日の遊びはお人形を使ったおままごとのようで、どうやら修羅場を演じている。
「浮気して私たちを弄んだ罰を受けなさい! ……次、アイリーンの番よ!」
彼女は両手に王子様とお姫様のお人形を持って、浮気者の王子を断罪している。
そしてアイリーンの手にいる人形は熊の人形だったがこれは、知らず知らずのうちに浮気相手にされてしまったか弱い令嬢だったはずである。
「ソウヨ、ソウヨ! 本当に許せないわっ……こんな感じかしら?」
「ええ、いいわ。さあ、二人のパワーで浮気男をやっつけるのよ、えい!」
「えい、やー!」
「おりゃあ!」
踏みつけて、引っ張って、攻撃をするエイミーに倣ってアイリーンも彼女と同じように、王子様を滅多打ちにする。
その様子を見て、先輩の側近がくすくすと笑っているが、エイミーが楽しそうなので恥ずかしいということもない。
厳しすぎるだとか、余裕がないとよく言われるアイリーンだが、こういうことは案外、性にあっているとすら思うのだ。
そうしてしばらく遊んでいると、満足した様子で、エイミーは「コテンパンにやっつけられたわね」とにっこり笑った。
そんな彼女と王子様の人形を見比べてふとアイリーンは、おしゃまな彼女に聞いてみた。
「ねぇ、エイミー様」
「なぁに、アイリーン」
「この男の人はなにが駄目だったと思う?」
アーロンのことを思いだして彼女に聞いた。もちろん今でも心に残っているとかそういうわけではない。
社交界に出回った彼の噂はどんどんと広がって、貴族たちは一致団結して、第一王子を王太子とすることに反対する動きを見せ始めている。
失脚するのはきっと近いうちの出来事だ。
そんな人を今更アイリーンはなんとも思っていないけれども、それだけできっぱりあの出来事が忘れられるわけではない。
「だめって、そりゃあ、人を大事にしなかったってことよ。最低よ、愛すると誓った癖に!」
「……それはたしかにとてもいけないことだけれど、それでも見て、この子とこの子、二人の女の子が騙されているでしょう?」
言いながらお姫様と熊の人形を並べて彼女に問いかける。
「そうね、好きになっちゃっているわ」
「そうよね。一応それでも心の底から愛してはいたのよ……本当に素晴らしい人だと思って……でも、愛すべき人じゃなかった。だからどこがいけなかったのかなって思うのよ」
「むつかしいこと言うのね、アイリーン」
「大人だからよ」
「へー、でも別にうまく騙してただけで、騙された人は悪くないと思う!」
「……そうかしら」
彼女はそうして結論を出してくれるけれど、アイリーンはそう思えずにいた。
彼への愛情があったのは事実で、その時にはとても素晴らしい人だと思っていた。
だからこそアイリーンは彼がああなって幻滅できて嬉しいけれど、それと同時に自分の見る目の無さが心配なのだ。
大人たちの刷り込みもあったけれどそれでも、アイリーン自身もきちんと恋をしていた。
あんな人に恋をして素敵だと思って、一生懸命に尽くしていた。そんな自分は見る目がなかった。
だから自分の気持ちもうまく信じることができない。それが目下の悩みだった。
すると執務室の扉が開いて、側近たちに挨拶をしつつ、辺境伯家の跡取りであるクライドが入ってくる。
彼はアイリーンと目が合って、とても嬉しそうに笑った。
しかしエイミーを見つけて表情を切り替えて「妹がいつもすまないな」と声をかけてからエイミーに視線を向けた。
「ここにいたんだな。エイミー、また側近たちの仕事を邪魔して……」
「別にお邪魔なんかしてないもの、ちょっと一緒に遊んでただけよ!」
「それを邪魔というんだ」
言いつつも彼は同じテーブルについて、人形たちを見て彼女に続ける。
「それに退屈だったら俺が遊んでやるって言ってるだろ」
「嫌よ! アイリーンがいいの。お兄さまはどっか行って!」
「……酷い言いようだな」
エイミーの反抗に彼は苦い笑みを浮かべて、困ったような顔をする。
その表情を見て、アイリーンは少し胸が苦しくなる。
こうして王都からある種出戻るような形で勤めているアイリーンにも、彼は昔のよしみで良くしてくれていて、優しく穏やかな人だ。
少なくともアーロンとは違うと思う。
「まぁ、たしかに彼女と話したい気持ちはわかるが……」
そしてそう言ってこちらに向く視線は少し気まずいような、そわそわしてしまうような熱をはらんでいて、アイリーンもここ最近は勘違いではないと思う。
そして、彼のことをアイリーンも好意的に想っている。
「お互いの時間というのは大事なものだ。急におしかけたりしてはいけない」
「むっ~」
「むくれてもだめだぞ。アイリーンは気にしなくていいからな」
「……ありがとう。でも彼女と遊ぶのは楽しいわよ。私も好きだし、エイミー様」
アイリーンのことを気遣うクライドに、アイリーンは少し迷いつつもその言葉も大切な躾であり、無駄にしないように考えて彼女に声をかける。
ちらりと幼い瞳がこちらを見上げる。
そんなエイミーの頭を撫で続けた。
「今度はきちんと約束をして遊びましょうね。クライドお兄さまが迎えに来てくださったのだから、今日はおしまい。また今度、ゆっくりとお話とお茶会でもしましょうよ」
「……本当?」
「ええ、本当」
「ならいいのよ。絶対ね! 約束よ!」
そうして彼女と約束をして、お人形たちを彼女の侍女に渡す。
立ち上がったエイミーだったが、一方クライドは、口元を抑えて少しうつむいていた。
「クライド様? ……どうかしたかしら」
不思議に思って声をかけると彼は「あ、いや」と慌てたように顔をあげて椅子を引く。
「その、ははっ、深い意味はない。ただ、君が俺のことをお兄さまと言った言葉に変に動悸がしてっ、ちが、いや、忘れてくれ。妙なことを口走った」
「……」
「……」
「クライドお兄さま?」
彼がなんだか妙に照れているので、アイリーンはつい言った。
すると彼は、驚いたけれども妙に嬉しそうで、変なことで喜ぶものだと思う。
「あ、あははっ、揶揄わないでくれ。ただ距離が近く感じる呼び方で、驚いただけだ、決して、妹みたいに思っているとかそういう気持ち悪いことでは、ないから」
そして妙な訂正をして、エイミーのことをガシッとつかんで、ふわりと持ち上げた。
「ともかく忘れてくれ」
そう言って彼は、エイミーにも揶揄われながら去っていく。
その後ろ姿が扉から出て言ってから、アイリーンはやっとふぅと息をついて、それから思う。
……距離が近い呼び方をされて嬉しくてでも、決して妹みたいに思っている訳じゃないなんて……もう告白よね……。
そう思うし側近の事務官たちは、やけにニマニマしていて、雰囲気としてはもういつ二人はくっつくのかと楽しみにしている様子すら感じる。
けれど、彼のことを良く思えばよく思うほど、自身の見る目の無さが足を引っ張る。
素敵だと思うほど、間違いな気がしてきて、彼とアーロンの違いを探してしまう。そんな日々だった。
ある日の事、クライドとエイミーと三人で約束通りに遊んでいるとエイミーはつかれて眠ってしまった。
しかしそれはクライドの膝の上での出来事で、彼の胸元に顔を預けて口を開けて小さく寝息をたてていた。
「重くない?」
「重いな」
「急に抱っこしてと言い出したから何かと思ったら、眠かったのね」
「よくあることなんだ」
短く言葉を返しながらも、抱え直してなんとなしに背中を撫でる様子はとても優しげだ。
アイリーンはどこからどう彼のことを見ても、悪いところなんて見つけられなかった。
「……父上も母上ももう歳だからな。俺と十歳以上歳の差で生んだんだから仕方ないが、抱き上げてやることが少ない。自然と手を貸していたら、いつの間にか俺の膝の上で寝ることが割と多くなった」
説明するように彼は言って、アイリーンは納得した。
そういう事情もあって彼によく懐いていて彼が面倒を見ることが多いのかと思う。
それを厄介に思うでもなく、彼はその役目をまっとうして、多くの人が彼に信頼をよせていた。
「あなたは、優しいのね」
「どうだろうな。そうでもない」
「そうでなくちゃ懐かないでしょう?」
「そうか? 案外、寝心地がいいだけかもしれない」
彼は少し照れて否定する。
その可能性を考えて彼の胸元を枕にしているエイミーに視線を落とすと、たしかにがっしりとしていて彼は安定感がありそうで、安心できそうだと思う。
そんな人のもとでぐっすり眠れたら、それはきっと心地がいい。
そう思うと、ふいに自分がそうしている絵面が想像できて急に心臓が音をたてた。アイリーンは平静を装うのが大変だった。
「それに、それを言ったら君も同じだ。俺以上にエイミーは君にご執心だ。むしろ俺を差し置いて……ええと……」
クライドは言葉を詰まらせて、チラリとアイリーンのことを見る。
「……」
続きを促すように首をかしげると彼は、少し視線を逸らしてから再度アイリーンを見つめて、ゆっくりと低い声で言った。
「君にまっすぐ好意を伝えられて、うらやましい。俺はこんな小さな妹にまで焼いてしまうような器の小さい男だ」
「!」
「……そのうえ、隠しきれてすらいない……きちんと告白もできていない」
「……」
「すまない。もっとかっこをつけて言いたかったが。もう隠しきれないような気がして」
それは名実ともに告白だった。
エイミーの子供っぽいメルヘンな遊び部屋での、何の飾り気のない言葉だ。
それでもアイリーンはとても嬉しくて、その答えはもう決まっているようなものだった。
けれども、その嬉しい感情すら足を引っ張る。
「……」
「無理に今すぐ答えを欲しいとは思わないし、断って気まずく思うのも嫌だろうからスルーしても構わない、あまり重く受け止めないでくれ」
さらに言われる彼の言葉に、アイリーンは反射的にそんなことはないと思うけれども、すぐに嬉しいとも返せない。
どうにか時間を貰うべきか、それとも投げやりにでも関係を結んでしまおうか。
アイリーンは散々悩んだ。
長い沈黙が彼をつらくさせているかもしれないと焦りながらも、悩んでそうしてやっと、本当のことをぽつりと口にした。
「……嬉しい……私もあなたが、好きよ。とてもいいと思っている。でもそう思えば思うほど、自分の見る目の無さが怖いのよ。知っているでしょう? アーロンのことをとても愛していた」
「……」
「でも、彼は知られている通り、私以外の人を選んで、更には私にしりぬぐいをさせようとしたり、そんなとても仕方のない人だった。でも彼が誰より素敵な人だと私は信じていた。そんな自分が信じられない……」
アーロンとはくらべものにならないし、クライドに失礼だとも思うけれどもどうしてもそれが引っかかってしまう。
「だから、あなたの好意を純粋に受け取れない……と言ったら怒る?」
恐る恐る問いかける。
すると彼はとても優しい声で返した。
「怒るわけないだろ。それに、それはとてもつらいな、アイリーン」
そして共感して、慰めるように言った。
あんな噂の出ている彼と比べて、自分の見る目に自信がないからと好意を受け取れないと言ったアイリーンに対しても思いやってくれる。
「にっちもさっちもいかないだろうし、逆に悪いと思った人とどうにかなるわけにも行かない。答え合わせもできない」
「……ええ」
「俺も君に好かれているということがわかって嬉しいが、こうなると話はむずかしいな、信じてほしいと言い募るだけでは君の負担になるだけだし」
思案しつつ彼は、エイミーの背中をトントンとしていて、そしてはたと思いついたようにチラリとアイリーンを見る。
しかし、少し考えるように口をつぐんだけれども意を決して口を開く。
「……なら、アイリーン。少しズルを言うようだが聞いてくれるか?」
「もちろん」
「君の気持ちが信じられないなら、ほかの人間の指標を信じてみたらどうだ? 例えば、そういうことにたけている友人の助言を聞くとか、もしくは……純粋な子供が懐いているかどうか、とか」
言いながら彼は、苦笑いを浮かべていてアイリーンはエイミーに視線を落とした。
とても安心しきった様子で眠っている彼女は、間違いなくクライドを深く信じている。
弱く小さい存在が身を預けて幸福そうにできる相手、彼女は嘘をついたりしない。
ないがしろにされたら簡単に傷つくし、壊れてしまう。その小さな手を取って優しく出来る人、そんな人が打って変わってアイリーンが尽くした途端に傲慢になる。
そんなことはきっと世界がひっくり返っても起こらない。
アイリーンは確かに見る目が無かった。けれども、それはアイリーンがいいと思った人全員が酷いことをするなんて言う保証にはならない。
「なんてな。それじゃあ、俺がただ君と胸を張って一緒になりたいからこじつけているだけか」
冗談だというように自分の言葉を茶化す彼に、アイリーンは小さく首を振った。
「いいえ……いいえ。そうね。こんなに小さな子があなたのことを心の底から信頼しているんだもの、いくら私が疑ったってそれが真実だわ。それを私も疑わない。あなたを信頼している人のことを疑わない」
口にするとしっくり来て続けた。
「それに信用されるようなことを毎日積み重ねているあなたのことも疑いたくない。それは私が、見る目がないことよりももっと重要なことで、それが人を好きになる指標であったらいいと思う」
そうしてうんと一つ頷いてそれから、そっと手を取った。
「だから、あなたの気持ちちゃんと受け取るわ。私も……あなたが好きよ。クライド様」
「……い、いいのか?」
「ええ。こ、これからよろしくお願いします」
アイリーンがそう言うと彼はぎゅっと手を握って、嬉しさの滲んだ声で答えた。
そうしてアイリーンはやっと昔のアーロンの残した呪縛すら忘れ去って、開けた正解の道をまた一歩進んだのだった。
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