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澱んだ都市の探偵事務所

作者: Rishas

 古いビルの三階、窓ガラスには長年の埃が積もり、隣のネオンサインの光が不気味な影を落としていた。


 ネオンに照らされた『ウィスパー探偵事務所』とだけ記された真鍮のプレートは、錆びついて、この都市の澱んだ空気を映しているかのようだった。


 その下で、私は依頼人から聞いた奇妙な話に耳を傾けていた。


 一人の男、いや、ドワーフが震える声で語った。友人がおかしくなってしまった、と。いないはずの妻や子がいるかのように話し、情緒不安定になったり、無感情になったりする、と訴えた。まるで、現実と虚構の境界が溶けだしたかのように。


 ドワーフの顔に浮かぶしわが、そして震える手が、何よりも自分の日常を脅かされていることへの恐れを物語っていた。

「まったく、別人のような有様でな。鍛冶場の火よりも厄介になっちまったんじゃ」

 彼の言葉は、自分の理解の範疇を超えた事態への困惑で満ちていた。


 私は、ドワーフの心の奥底に潜む、友人への強い心配の念を、遠いエコーのように感じ取った。それは、私の精神魔法が拾い上げた、微かな情報の断片だ。


 それは、この都市の闇に慣れきった私にとって、稀にしか出会うことのない、純粋な感情だった。


「全く、滑稽なものだ」

 私がそう呟くと、ドワーフは顔を曇らせた。

「どういう意味だ?」

「いえ、なんでもありませんよ」


 私は、自分でもなぜそう口にしたのか分からなかった。ただ、この依頼人も、友人の記憶が混濁していることより、その友人が自分にとって都合のいい人間ではなくなっていることに困惑しているだけなのかもしれない。


 この都市では、真実を探すことよりも、心地よい虚構に安らぎを求める者の方が多い。だが、彼の友人はその虚構の世界に閉じ込められ、帰る場所を失っている。それだけのことだ。


 私はドワーフの依頼を引き受けることにした。この澱んだ都市で、歪んだ真実を追いかけることに、私は一縷の面白さを見出していた。


 私は、濁った都市の空気に溶け込むように、アンダーグラウンドのクラブを見つめていた。その汚い空気を吸い込まないように、呼吸を極力浅くしながら。

 入り口は、派手なネオンサインに彩られているわけでもなく、ただ薄暗い路地裏に口を開けた、錆びついた鉄扉だった。


 その奥からは、乾いた電子音と、囁くようなノイズが混ざり合った、この都市の深奥を思わせるような音楽が漏れ聞こえてくる。それは、まるで人魚の怪物が船を誘う歌声のように、甘く、抗い難い誘惑に満ちていた。


 目的は、依頼人の友人を惑わせたドラッグの売人を探すこと。この都市は、いつも薄汚れた嘘で満ちている。


 クラブの中は、壁を這うレーザーライトの光線が、青緑と紫のグラデーションを織りなしていた。それは、煙草の煙と埃の粒子が渦を巻く空中にくっきりと浮かび上がり、光の剣のように空間を切り裂いていた。


 その薄暗い光の中、人々は無感情な表情で、意志を失ったおもちゃの残骸のように、ただ体を揺らしていた。彼らの瞳は虚ろで、この場所に満ちる偽りの高揚感に浸っていた。その場の空気に、甘いサイバー・ドラッグの匂いが、電子的な幻覚のように漂っていた。


 そんな中で、場にそぐわない存在を見つけた。


 堅苦しいレザージャケットを身につけた、一人の女性。いや、私と同じ、ダークエルフの女性だった。いかにも潜入捜査中の秩序審問庁の役人といったところだろうか。あの服装、歩き方、そして何よりも、この場所に馴染もうとしない、彼女の纏う『正義』の空気が、酷く場違いだった。


 全く、お堅いダークエルフもいるものだ。そんな格好で潜入しているつもりなのだろうか。せめて、もう少し楽しそうにしたら? ここの住人たちは、誰かが楽しんでいるフリをしていることなんて、一瞬で見抜くのに。


 彼女はまだ私に気づいていない。私は彼女の存在を静かに観察していた。彼女の瞳の奥に宿る、真実を探求する強い意志だけは感じ取れた。それは、私がこの都市で、時折抱く感情と、どこか似ていた。


 彼女は、人ごみをかき分けてバーカウンターに近づき、私に先んじて売人に接触した。あくまで利用者を装い、「ねぇ、ちょっといいかしら? 探してるものがあるんだけど」と、上手に尋問を開始する。彼女は、私が遠くから観察していることに気づいていない。


 売人は、一見すると何の変哲もない男だった。表情は冷静で、言葉に矛盾はない。

 彼女の眼は、精密な天秤のように、売人の言葉のわずかな揺らぎや、表情筋の微かな動き、瞬きの回数を正確に読み取ろうとしていた。それは、まるで彼というジグソーパズルのピースを、論理という定規で測ろうとするかのように見えた。だが、彼の心は厚い壁で覆われているかのようだった。


 彼女は、売人の行動パターンを解析し、心の深層に潜む矛盾点を突き止めようとしていた。どんなに質問をしても、どんなに心理的な揺さぶりをかけても、売人の心の壁の全容を把握することはできなかった。それはまるで、彼の内面に何層もの防御壁が築かれているかのようだった。


 彼女の眉間に深いしわが寄るのが見えた。彼女は、自身の人間観察が通用しないことを悟り、焦りを覚えている。彼はただの売人ではない。あるいは、何らかの精神的な防御策を施されているか……。彼女は、これまでの経験則が通用しない未知の事態に直面していた。


 彼女の尋問が難航している様子を見た私は、この場に溢れるノイズに隠れて、売人のそばにそっと立つ。


 私は、彼女の知識が解き明かせない、心の深層に触れる。私の精神魔法は、売人の心に渦巻く複数の異なる記憶と感情を感知した。


 それは、まるでジグソーパズルのようにちぐはぐな断片だった。ドラッグの売り手としての警戒心。そして、全く別の誰かの、「愛する人を失った悲しみ」。さらに奥には、「成功と栄光に満ちた高揚感」。売人の心は、他人の記憶を寄せ集めた、歪んだパッチワークのようだった。


 私は、その歪みの正体を彼女に告げる。


「彼は、意識的に嘘をついているんじゃない。複数の記憶が、彼自身の『誰であるか』をわからなくしているの」


 彼女は、私の言葉に驚愕した。私の言葉が、彼女のプロファイリングを無力化しただけでなく、彼女の捜査の前提を根底から覆したからだ。


 二人は売人を放置し、クラブの喧騒から逃れるようにして外へと出た。


「あなたは、いったい何者ですか?」

 彼女の声は、張り詰めた緊張感を含んでいながらも、物静かで丁寧な口調だった。

「この都市の探偵よ。あなたの同僚が、この界隈で一体どんな顔をしているか、私にはわかるから」

 私の言葉に、彼女は少しだけ警戒を解き、だがその瞳の奥には、変わらぬ探求心が見て取れた。彼女は、私の言葉の真偽を確かめるかのように、じっと私を見つめた。


「……お名前を伺っても、よろしいでしょうか?」

「ウィスパーよ」

 私の名前に、彼女は静かに頷いた。

「サイレンです」

 彼女は、自分から名乗った。それは、彼女が私を、危険な部外者から、対等な立場の人間として認識し始めた証拠だった。


「……もしよろしければ、共同で捜査を進めていただけませんか? あなたのその能力が、この事件を解き明かす鍵になるかもしれません」

 私は、彼女の目を見た。その瞳は、秩序審問庁の守護者としての冷たい使命感に満ちた、ほんのり赤みを帯びた光を宿していた。その思惑は、この都市の重苦しい空気と同じくらいに、私には透けて見えた。

「ふん。道具、ね。結構な話じゃない」

 私は、皮肉な笑みを浮かべた。どうせ、この人には、私の能力の真の意味は理解できない。それでも、彼女が本気でこの事件を解決しようとしていることはわかる。その瞳の奥に、私と同じ「真実を求める意志」を感じ取ったから。

「いいわ。せいぜい、お役に立てるように頑張ってみせるから」

 私は静かに頷いた。秩序の番人がどれだけ必死になっても解き明かせない謎を、この目で見るのも悪くない。まあ、ちょっと遊んであげるわ、と私は内心でそう呟いた。


 二人は協力して、情報収集を始めることになった。秩序の番人と、この都市の影に生きる探偵。全く皮肉な組み合わせだ。


 サイレンは、売人から受け取ったドラッグ「メモリー・エコー」のサンプルを秩序審問庁の研究所に持ち込んだ。彼女は、自身の立場を最大限に利用し、分析官に圧力をかけて最優先で成分分析を行わせた。


 私は、秩序の番人であるサイレンが、普段は軽蔑しているであろうこの都市の闇に、真摯に向き合っている様子を、興味深く見つめていた。結果は、ある種の幻覚剤と過去の事件で使われた化学物質が、高度に合成されて作られていることを示した。


 一方、私はというと、依頼人の友人のような「記憶の歪み」を抱える利用者を地道に探し、彼らの精神の奥底にある断片的な情報を拾い上げていった。薄汚れた路地裏を歩き回り、廃ビルの片隅で、あるいは、薄暗いバーのカウンターで、彼らの心の「声」を拾い集める。


 ある利用者の精神から、私はドラッグの製造に携わったと思しき人物の思考の断片を拾い上げる。それは、愛する者を失った悲しみと、その苦しみから逃れるために禁忌を犯した後悔の感情だった。この都市に蔓延る偽りの安らぎを、彼は自ら作り出していた。全く、愚かな人間だ。


 その心の声が示す場所は、秩序審問庁のデータベースに記録された、五年前に閉鎖された研究所の座標と一致した。サイレンの無駄な努力が、ここで少しだけ役に立ったようだ。


 二つの情報が一つになったとき、元科学者の隠れ家が特定された。


 隠れ家は、この都市の外縁部、廃墟となった研究所の奥にひっそりと隠されていた。錆びついた鉄骨やパイプが剥き出しになった通路を、私はサイレンと共に進んでいく。足元の水たまりが、私たちの姿を歪ませて映し出す。不気味なほどの静けさの中、二人の足音だけが虚しく響いた。


 サイレンは、常に周囲に警戒の目を光らせ、手にしたボルトガンをいつでも撃てるように構えていた。彼女の足音は静かで、一見すると何の変哲もない歩き方だが、私にはその一歩一歩に込められた、訓練された戦士の気配を感じ取ることができた。


「この先、罠があるかもしれません」

 サイレンの囁くような声が、不意に暗闇を切り裂く。私は静かに頷き、精神魔法で壁の向こうを感知する。彼女は「物理」、私は「精神」、二つの異なる武器でこの迷宮を解き明かしていく。


 通路の先で、私は製造者の精神の波動を捉えた。それは、狂気と恐怖と、そしてわずかな安堵が混ざり合った、歪んだ波だった。私たちは慎重に、闇そのものに溶け込むかのように、製造者のいる部屋へと近づいていく。


 そして、過剰なドラッグ摂取で錯乱した製造者の男と対峙する。

「待って」

 私は静かにそう言って、彼を鎮圧しようとするサイレンを制した。

「何を?」

 サイレンの声が、僅かに苛立ちを帯びる。彼女はいつでも発砲できるようにボルトガンを構え、私の背後で製造者との間に距離を保っている。

「私に任せて」

 私の静かな行動とは対照的に、サイレンは戦闘態勢に入っていた。


 製造者は、愛する者を失った悲しみと、その苦しみから逃れるために禁忌を犯した後悔の念に、心を蝕まれていた。私は、自身の信念に従った。彼を単なる犯罪者ではなく、救いを求める「弱い者」として認識し、彼を救おうと試みる。

「……大丈夫。もう、どこにも行かなくていい」

 私が静かに語りかけると、製造者の瞳に一瞬だけ、正気の色が戻った。彼は恐怖に顔を歪ませ、自らの足元に目を落とす。


「はぁ、やっと来たか。俺たちだけで完璧な家族を作った。報告書もちゃんと書いたぜ。……あんたたち、誰だ? いつもの奴らじゃない。……なんだ、その銃は……! お前らは一体……?」

 彼の目は、サイレンのボルトガンを見た後、私をまっすぐに見つめていた。まるで、私にだけ彼の悲痛な叫びが届くことを願うかのように。

「違う。私は、あなたの居場所を壊しに来たんじゃない」


 彼の瞳に宿った正気の光は、しかし、すぐに燃え尽きてしまった。彼は私の言葉から逃げるかのように顔を背け、床に落ちていたボルトガンを震える手で掴んだ。金属の冷たい質感が、彼の狂気をさらに加速させるように見えた。


 彼はまるで壊れた機械のように、ガクガクと銃口を私に向けた。彼の目に宿る殺意と恐怖が混じり合った歪んだ感情が、私の心に鋭く突き刺さる。


 その瞬間、私の背後にいたサイレンの息が止まるのがわかった。彼女の気配が、一瞬で「静」から「動」へと切り替わったのがわかった。


(……私の信じる正義は、一体何なんだ)


 私は、サイレンの心の奥底から漏れ出る、か細い囁きを確かに感じ取った。


 それは、この場所で、私の能力に触れ、私の行動を見たからこそ生まれた、サイレン自身の内なる疑問だった。目の前の男は、秩序を乱す犯罪者。だが、同時に救いを求める人間だ。彼女の訓練された判断は、即座に「脅威を排除せよ」と叫んでいる。


 しかし、私の行動が、彼女の心にさざ波を立てていた。その躊躇が、彼女の腕に、足に、わずかな麻痺をもたらしていた。サイレンは、法と、そして私への信頼の間で、激しく葛藤していた。


 製造者の震える指が、ゆっくりと、しかし確実に引き金にかかる。そのたった数センチの動きが、永遠にも感じられた。


 そして、その悲劇的な選択がなされる直前、私の背後から放たれた閃光が、暗い部屋の空気を引き裂いた。超音速で放たれたボルト弾が空気を引き裂く甲高い音を立て、製造者の男はその場に倒れ込んだ。


「……あなたの正義は、そうやって、人の心を救うためにあるのですね」


 私は、倒れ伏した男を見下ろし、そして静かに振り返ってサイレンを見た。


 彼女の瞳には、法の硬い鎧でも、任務の冷たい重さでもなく、私が与えた救いの温もりが残っていた。サイレンは、この都市の闇に慣れきった私の心に、探偵として、そして一人の人間として、初めて出会った、真実を求める同類だった。


 私は、今まで自分をただの傍観者だと思っていた。この澱んだ都市で、歪んだ真実を追いかけることに、一縷の面白さを見出しているだけの、孤独な探偵だと。


 だが、彼女と出会って、私のその信念は、ほんの少し揺らいだ。彼女が、その冷たい正義の皮を剥ぎ取って、私と同じように、真実と、そして命そのものを守ろうと行動したのだ。


 事件後、私たちは多くを語ることはなかった。


 しかし、彼女が法の光で照らし、私は心の闇に潜む真実を探る。


 この皮肉な組み合わせが、いつか、この都市の重苦しい空気を切り裂く、一筋の希望になるかもしれない。そしてそれは、この、ままならぬ世界で、弱きを助け、真実を追い求める私の、唯一の救いになるのかもしれない。


 私は、そんな予感に、静かな高揚感を覚えていた。

「Beyond the Silent Code:影の残響」というハードボイルド作品を公開しています。この短編はそのスピンオフ作品になります。

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