月の根
もし、あなたの愛する人が、生命の危機に瀕したとしたら?
あなたはその人のために、何を差し出し、どこまで踏み込めるだろうか。
たとえその代償が、あなた自身の記憶の一部であったとしても。
たとえその先に、人の理では測れない、不可解な世界が口を開けて待っていたとしても。
これは、愛する者を救いたいという、たった一つの純粋な願いが、現実と幻想の境界を溶かしてしまった一夜の物語。
人の想いが奇跡を呼び、そして、得体の知れない“何か”との契約を結んでしまった男の記録でもある。
さあ、ページをめくり、潮霧深い港町に迷い込んでみてほしい。
そして、自問してほしいのだ。
──記憶と愛、その天秤の先に残るものは、果たして何なのか、と。
僕が暮らす月海町は、時の流れから取り残されたような古い港町だ。昼間でも潮霧が立ち込め、世界の輪郭を曖昧にする。僕はこの町で、民俗学を学ぶ大学院生として静かに暮らしていた。
僕には、雫という恋人がいた。この町の旧家の生まれである彼女は、まるで繊細なガラス細工のように儚げで、それでいて海の底のような静かな瞳を持つ人だった。僕たちは、町の外れにある彼女の古い家で、穏やかな時間を共に過ごすことが多かった。
あれは、空が泣き出しそうなほど低い雲に覆われた、晩秋の夜のことだった。
昼過ぎから降り始めた雨は、夜の帳が下りる頃には嵐へと姿を変え、古い木造の家を激しく揺さぶった。その嵐に呼応するかのように、雫が突然、高熱を出して倒れた。
体温計は見たこともない数字を示し、彼女の体はまるで青い炎のように熱かった。冷却シートを額に貼っても、濡れたタオルで体を拭いても、熱は一向に引く気配がない。それどころか、雫は「寒い、寒い」とうわ言を繰り返し、浅い呼吸の合間に、聞いたこともない言葉を呟き始めた。
「灯明堂…へ…」
「え?」
「月ノ根の…お薬を…」
灯明堂。その名に、僕はかすかな聞き覚えがあった。町で最も古い、迷路のような路地が入り組む「海洞筋」の奥の奥に、忘れられたように存在する薬種問屋のことだ。町のお年寄りが、まるでおとぎ話でもするように語っていたのを、一度だけ聞いたことがあった。
彼女の苦しそうな顔を見ていると、一刻の猶予もないように思えた。救急車を呼ぶべきか。いや、この嵐では到着がいつになるか分からない。それに、彼女がうわ言で口にした「月ノ根」という言葉が、まるで絶対的な処方箋のように僕の頭にこびりついて離れなかった。
僕は意を決した。
「雫、待ってて。必ず、持ってくるから」
嵐の中へ飛び出すと、叩きつける雨が瞬く間に僕の体温を奪っていく。深夜の町に人の姿はなく、公共交通機関はもちろん動いていない。頼れるのは自分の足だけだった。
海洞筋の入り口は、まるで巨大な獣の口のように、黒く開いていた。一度入れば二度と出られないと噂される、入り組んだ路地。僕はそこを、ただひたすらに走った。不思議だった。一度も来たことがないはずなのに、足は自然と次に進むべき道を選んでいた。まるで、見えない誰かが僕の手を引いているかのように。
息が切れ、心臓が張り裂けそうになったその時、奇跡が起きた。
あれほど厚かった嵐雲が、まるで舞台の幕が開くようにすっと割れ、真上の空だけがぽっかりと円形に開いたのだ。そしてそこから、狂おしいほどに白い満月が、僕が走る一本の道を神々しいまでに照らし出した。
月光に導かれた先に、その店はあった。
「灯明堂」
古びた看板の下、たった一つの古い角灯が、嵐の中で消えることなく揺らめいている。
引き戸を開けると、百種の薬草が混じり合ったような、むせ返る匂いがした。店の奥の暗がりから、顔に深い皺を刻んだ老婆が、音もなく現れた。僕の姿を見ても、驚く様子は微塵もない。
「…遅かったのう」
老婆は、僕の顔をじっと見つめて言った。
「あ、あの、薬を…月ノ根という…」
「わかっておる」
老婆は僕の言葉を遮り、奥の棚から古びた桐の小箱を持ってきた。中には、和紙に丁寧に包まれた、指先ほどの大きさの包みが一つ。
「代金は…」
僕が財布に手をやると、老婆はゆっくりと首を横に振った。
「代金は、もう貰うておる」
意味が分からなかった。しかし、問いただす時間はない。
「急ぎなされ。その子の刻限が近い。…これを持っていくがよい」
老婆が指さしたのは、店の壁に立てかけられた、錆だらけの古い自転車だった。
その後の記憶は、ひどく曖昧だ。
軋むペダルを無心で漕いだこと。僕の頭上だけを、あの白い月がどこまでも追いかけてきたこと。風の音に混じって、老婆の「代金はもう貰うた」という声が、何度も耳の奥で反響したことだけを、断片的に覚えている。
次に気がついた時、僕は雫の部屋の床で眠っていた。
窓の外からは穏やかな朝日が差し込み、嵐が嘘だったかのように空は晴れ渡っている。部屋には、潮の香りと、嗅いだことのない薬草の匂いが満ちていた。
「…おはよう」
ベッドから聞こえた声に振り返ると、そこには、いつもの穏やかな表情をした雫が座っていた。
「体は…?」
「うん。もうすっかり。変な夢を見ていたみたい」
夢?僕も、あの嵐の中の出来事がすべて夢だったのではないかと思った。
しかし、部屋の隅には、泥と潮水に濡れてぐっしょりとなった僕の服が脱ぎ捨ててあった。そして、テーブルの上には、空になった小さな和紙の包みが、静かに置かれていた。
僕は、外を見た。
雫の家の壁に、あの錆だらけの自転車が、まるで何十年も前からそこにあったかのように、静かに立てかけてあった。
後日、僕はもう一度、あの海洞筋を訪ねた。
しかし、どれだけ歩き回っても、「灯明堂」を見つけることはできなかった。僕が店を見つけたはずの場所は、崩れかけた石垣が残る、ただの空き地になっていた。近所の人に聞いても、「そんな薬屋は、とうの昔になくなったよ」と笑われるだけだった。
雫も、うわ言で「灯明堂」と言ったことなど、全く覚えていないという。
すべては本当に、一夜の幻だったのだろうか。
だが、僕には確信があった。あの夜の出来事は、紛れもない現実だ。
そして、その代償。
あの日以来、僕の身には一つの奇妙な変化が起きていた。鏡で自分の瞳を覗き込むと、その奥に、時折、あの夜の狂おしいほどに白い月が、静かに浮かんでいるのだ。まるで、僕の魂の一部が、あの夜、あの場所で、何かと入れ替わってしまったかのように。
老婆の言った「代金」とは、一体何だったのか。
その答えを、僕はおそらく一生、この瞳の奥の月と共に、問い続けていくのだろう。
この物語は、ある方が実際に体験したという「記憶の断片」に、私が偶然出会ったことから始まりました。その元の体験談は、もっとシンプルでありながら、人の想いが理屈を超えてしまう瞬間の、生々しいほどの熱量を宿していました。その核にある「誰かのための無我夢中の献身」というテーマに、私は強く心を揺さぶられたのです。
灯明堂の老婆は、本当に存在したのでしょうか。
それとも、海斗の強い願いと、雫の生命力が生み出した、一夜限りの幻影だったのでしょうか。
老婆が口にした「代金」とは、一体何だったのでしょう。
奇跡というものには、必ず対価が必要なのでしょうか。もしそうだとしたら、私たちは知らず知らずのうちに、日々の小さな幸運のために、何を支払っているのでしょう。
この物語は、明確な答えを提示しません。
なぜなら、あの夜の出来事の真相は、主人公である海斗自身にも、永遠に分からないままだからです。私たち読者にできるのは、ただ彼の瞳の奥に静かに浮かぶ「月」を見つめ、そこに映るものに思いを馳せることだけです。
もしかしたら、私たちの日常と不可思議な世界の境目も、月海の町の霧のように、案外曖昧なのかもしれません。そして、どうしようもないほどの強い想いを抱いた時、誰の目の前にも「灯明堂」への道は、ふと現れるのではないでしょうか。