元令嬢は辺境で生きる ~婚約破棄から始まる自由な私~
薄く霧がかかった湖のほとりに、小さな城館が建っていた。
そこに住むのは、カーラ・ウェストフィールド。貴族の令嬢でありながら、政略の都合で湖畔に追いやられた身だ。今夜は、王都の学院の卒業パーティ。彼女にとっては久しぶりに社交の場へ戻る日だった。
ドレスの裾を整えながら、カーラは息を吐いた。
「これで、また普通の令嬢に戻れる……かもしれないわね」
鏡の中の自分は、まだあどけなさの残る顔をしていた。けれど、それでも目だけは、幾度も傷ついてきた者の色を宿していた。
会場に到着すると、華やかな音楽と甘い香りが迎えてくれた。
カーラはためらいがちに一歩を踏み出す。その隣には、唯一彼女を気にかけてくれた婚約者、エドワード・ランディルが立っていた。
「緊張しているのかい?」
「……少しだけ」
優しく微笑む彼に、カーラもわずかに笑った。エドワードは、金色の髪と深い碧の瞳を持つ、誰もが振り返る美貌の持ち主だ。だが、彼がカーラを選んだのは、家柄でも財力でもない。ただ一緒に笑い合える相手を求めていたからだ。
カーラはその優しさに、どれだけ救われたか分からない。
会場では、未来を誓う貴族たちが集い、杯を交わし、笑い合っていた。カーラもエドワードと共に、軽い挨拶を交わしながら人混みに溶け込んでいった。
しかし、そんな穏やかな時間は、長くは続かなかった。
「カーラ」
エドワードが、静かな声で名を呼んだ。
胸がきゅっと縮まる。
彼が何かを決めた時の声だと、カーラは知っていた。
「……なに?」
笑みを作りながら、振り返る。
「僕たちの婚約を、解消したい」
一瞬、世界から音が消えたようだった。
カーラは、胸の奥で小さく、でも確かに何かがひび割れる音を聞いた。
周囲の視線が集まるのを感じた。誰もが何かを言おうとしながら、言葉を飲み込んでいた。
「理由を聞いても、いいかしら」
「君には、もっとふさわしい未来がある」
その言葉は優しく、それでいて残酷だった。
カーラは小さく笑った。
「そう……あなたがそう思うなら、仕方ないわね」
言葉は驚くほど冷静に出てきた。長い間、傷つき続けた心が、これ以上の痛みを恐れて、感情を押し殺しているのだろう。
「ありがとう、エドワード。今まで、楽しかったわ」
深く礼をし、そのまま背を向ける。
二度と振り返らなかった。
屋敷に戻ったカーラは、月明かりだけが灯る部屋で、一人ベッドに腰掛けた。
ドレスを脱ぐ気力もなかった。
窓の外には、まだ春の夜の柔らかな風が吹いていた。甘い花の香りが、かすかに部屋の中へ漂ってくる。
「……また、こうなるのね」
誰にも聞こえないように、そっと呟いた。
幼い頃、カーラには一つだけ願いがあった。
「誰かに、大事にされたい」
それだけだった。
だが、貴族社会は甘くなかった。家の事情、周囲の期待、欲望――カーラの心など、誰も気に留めなかった。
エドワードだけは違った。そう思っていたのに。
カーラは膝を抱え、顔を伏せた。
「泣かない」
唇を噛みしめた。
泣いたところで、誰も慰めてはくれない。
ならば、強くなるしかない。
カーラはそっとベッドを降り、棚の奥にしまってあった小さな箱を取り出した。
中には、学院時代の友人から贈られた一本の剣が入っていた。
「あなたには、まだ道がある」
友人はそう言って、笑ってくれた。
カーラは剣を手に取り、柄を強く握りしめた。
「私は、私を捨てた人達を……見返してやる」
淡い決意の光が、その瞳に宿る。
翌朝、カーラは従者に一通の手紙を残して、屋敷を後にした。
「カーラ様! どちらへ……!」
従者の叫びが背中に届く。
しかし振り返らない。
これまでの自分に、別れを告げるために。
湖畔の小道を抜け、まだ開けぬ森を越え、カーラは歩き出した。
どこへ行くのか、まだ分からない。
ただ一つ、心に誓ったことがある。
「私は、私のために生きる」
もう、誰かに寄りかかる人生は終わりだ。
春の空気が、頬を撫でた。
遠くで、鳥の声が聞こえる。
それは、新しい始まりを告げる音だった。
カーラは、歩き続けた。
もう二度と、誰にも支配されることのない未来へ向かって。
湖畔の小道を抜けた先に広がっていたのは、見渡す限りの草原だった。
春の陽がまだ柔らかい。カーラはゆっくりと歩を進めながら、薄く汗ばむ額を袖で拭った。
あれから二日。屋敷に戻ることはなかった。
泊まったのは、小さな宿場町の端にある、古びた旅籠だった。木造の階段はきしみ、寝台は硬かったが、カーラにとっては十分すぎるほど自由だった。
財布には、もともとあまり多くの金はなかった。身の回りのものだけを鞄に詰めて飛び出してきたからだ。だが、それすら構わなかった。
金がなければ、働けばいい。貴族の娘として育ったカーラには、それまで考えたことのない発想だった。
「さて、まずは……仕事を探さないと」
独り言のように呟いて、カーラは腰に吊るした短剣に手を当てた。
剣技には多少覚えがある。学院での必修科目だったし、父の影響で多少の訓練は受けていた。
町外れの掲示板には、冒険者ギルドが出した依頼が貼られていた。
「薬草採取、護衛依頼……」
一つ一つ目を通しながら、カーラは迷った。
どれも危険を伴う仕事だ。それでも、やらなければ生きていけない。
「……これにしよう」
カーラが手に取ったのは、小さな村への配送護衛の依頼だった。
荷馬車に乗り、村まで商品を届けるだけ。護衛対象は商人一人。報酬も悪くない。
受付で手続きを済ませると、翌朝には出発だと言われた。
宿に戻ると、カーラは剣の手入れを始めた。
砥石を使い、丁寧に刃をなぞる。
一度も実戦で使ったことはない剣だが、それでも心を落ち着けるためには必要な作業だった。
夜、細い月を眺めながら、カーラはそっと自分に誓った。
「誰にも負けない」
明日から、彼女は“貴族の令嬢”ではない。
たった一人の、ただのカーラ・ウェストフィールドだ。
ベッドに潜り込み、瞼を閉じた。
夢の中では、誰かがそっと手を差し伸べていた。
それが誰なのか、カーラは思い出せなかった。
翌朝、集合場所に向かうと、すでに馬車が準備されていた。
荷台には木箱がいくつも積まれている。商人らしき中年の男が、せかせかと荷物を確認していた。
「お嬢さんが護衛かい? 本当に大丈夫か?」
男はカーラの姿を見て、あからさまに不安げな顔をした。
カーラはにっこりと微笑んだ。
「お任せください。見た目よりは頼りになりますから」
短剣を腰に下げ、身軽な旅装を整えたカーラは、誰が見ても冒険者に見えるはずだった。
渋々頷いた商人と共に、馬車はゆっくりと街を離れた。
草原を抜け、丘を越え、木立の間を進む。
鳥のさえずり、風の音、馬の蹄のリズム。
カーラはそれらを耳にしながら、緩やかに流れる時間を味わった。
ここには、王都の閉塞感も、家の重圧もない。
ただ、自分の足で進む世界が広がっている。
「なあ、お嬢さん。あんた、貴族の出か?」
ふいに、商人が尋ねた。
カーラは少しだけ驚いたが、すぐに笑った。
「ええ、昔は。今はただの流れ者です」
「へえ、立派なもんだ。こんなとこに来る元貴族なんて、そうはいねえよ」
商人は感心したように笑い、手綱を操った。
カーラもつられて微笑んだ。
新しい生活は、きっと悪くない。
そう思えた。
だが、油断はできなかった。
森に差しかかったとき、不意に空気が変わった。
カーラは短剣の柄にそっと手を添える。
「止まって!」
馬車を止めさせ、耳を澄ます。
かすかな、足音。
それも、一人や二人ではない。
「……囲まれたわね」
カーラがそう呟いた瞬間、木立の間から影が飛び出してきた。
盗賊だ。
粗末な鎧に身を包み、剣や棍棒を手にしている。明らかに素人集団だが、数だけは多い。
商人は顔を青ざめさせた。
「ひ、ひぃっ……!」
カーラはすっと短剣を抜き、馬車の前に立った。
「下がって。ここは私がやるわ」
自分でも、なぜそんなに冷静でいられるのか分からなかった。
だが、体の奥底に火が灯ったような感覚があった。
初めて、自分で選んだ戦いだ。
だから、絶対に負けたくなかった。
盗賊たちは、女一人を見て油断したのか、軽い足取りで迫ってくる。
カーラは、呼吸を整えた。
そして、一歩踏み出す。
短剣が風を裂いた。
盗賊の棍棒をかわし、間合いに入る。
小さな体躯を活かして、腰を落とし、相手の脇腹へ鋭く一閃。
悲鳴が上がる。
続いてもう一人。
間合いを見切り、手首を切り払った。
武器を落とした盗賊を蹴り飛ばし、地面に転がす。
「なんだ、この女……!」
盗賊たちがざわめいた。
カーラは短剣を構えたまま、冷たい目で彼らを見据えた。
「ここから先に進みたければ、私を倒してからにして」
誰に向けるでもなく、そう告げた。
盗賊たちは顔を見合わせたが、やがて腰が引け、次々に森の奥へと逃げていった。
戦いは、終わった。
カーラは静かに短剣を収めた。
商人は放心したようにカーラを見つめていた。
「す、すげえ……」
カーラは照れたように肩をすくめた。
「たまたまよ。でも、危ない目に遭ったら大声を上げるの。そうすれば、逃げる連中もいるわ」
商人は何度も頷き、馬車を進め始めた。
カーラは、ふうと息を吐いた。
剣を握る手は、微かに震えていた。
だが、胸の奥には確かな自信が芽生えていた。
自分にも、できることがある。
誰かに守られるだけじゃない。
誰かを、守れる力が。
馬車は再び静かに進み出した。
春の風が、彼女の髪を優しく撫でた。
新しい世界が、少しずつ、広がっていく。
小さな村に辿り着いたのは、日が沈みかけた頃だった。
馬車の車輪が土を巻き上げ、門の前でぎしぎしと音を立てて止まる。
門番らしき青年が駆け寄ってきて、商人と何やら話していた。カーラはその様子をぼんやりと見つめながら、やっと肩の力を抜いた。
無事にたどり着けた。たったこれだけのことが、胸の奥にじわりと温かいものを広げる。
「ご苦労だったな、お嬢さん」
商人が荷台から降りながら、粗末な袋を取り出し、カーラに手渡した。
ずしりとした重み。中には約束通りの銀貨が入っていた。
「助かったよ。あんたがいなきゃ、俺ぁ今頃、盗賊どもの餌になってたろうな」
「そんな大袈裟な」
苦笑しながらカーラは銀貨を受け取った。
だが、それ以上に得たものがある。
"自分で稼いだ金"という現実が、カーラの心を確かに支えていた。
村の中へ入ると、素朴な木造の家々が並び、あちこちから夕餉の匂いが漂ってきた。
子供たちの笑い声、家畜の鳴き声、鍋の沸く音。
王都のような煌びやかさはないが、この村には、確かに"生きる"音が満ちている。
カーラは深く息を吸い込んだ。
「しばらく、ここにいようかな」
そんな風に自然に思えた。
夜になる前に、村の小さな宿屋に部屋を取った。
粗末だが清潔な部屋。窓からは、満点の星が見えた。
ベッドに倒れ込むと、全身に心地よい疲労感が広がる。
「明日から、どうしようかしら」
小さく呟いたが、不思議と焦りはなかった。
この村でできることを探す。それだけだ。
そう思いながら、カーラは瞼を閉じた。
翌朝、早くに目を覚ましたカーラは、宿の食堂で簡単な朝食を取った。
温かいミルク粥と焼きたてのパン。シンプルだが、体に染み渡る味だった。
食後、宿の主人に声をかけられた。
「姉ちゃん、もし仕事を探してるんなら、村の診療所に行ってみな。最近、人手が足りないらしいからな」
「診療所?」
カーラは思わず聞き返した。
主人はふんと鼻を鳴らして言った。
「村の外れにある小屋だよ。腕は確かだが、医師がひとりで切り盛りしてるから、何かと手が回らねえんだとさ」
カーラは礼を言い、食器を片付けてから宿を出た。
診療所は、村の外れにひっそりと建っていた。
石造りの質素な建物。庭には薬草らしき植物がいくつも育てられている。
扉を叩くと、中から初老の男が顔を出した。
「なんだ、お前さんは」
「お手伝いできることがあればと思って」
そう告げると、男はカーラを頭からつま先までじろじろと見た。
「見かけは貴族のお嬢様だが、根性はありそうだな」
短い一言で、カーラを診断した。
男の名はゲルト。元々は王都の大学院で教鞭を執っていた医師だったらしい。
今はなぜか、こんな辺境の村に流れ着いている。
ゲルトは短く説明した。
「診療所の手伝いってのはな、ちょっとやそっとの覚悟じゃ務まらんぞ」
「それでも、やらせてください」
迷いなく答えたカーラに、ゲルトは鼻を鳴らして笑った。
「よし。ならば試しに、草摘みからやってもらおう」
診療所の裏庭には、ゲルトが手塩にかけた薬草畑が広がっていた。
薬草の種類は多岐にわたり、使い方もそれぞれ異なる。
カーラは必死に覚えた。
メモを取り、何度も確認しながら、間違えないよう慎重に摘み取る。
夕方には、指先が土と草の香りに染まっていた。
「思ったより筋がいいな」
ゲルトがぼそりと言った。
カーラは汗まみれの顔で、にっこりと笑った。
その夜、診療所で簡単な夕食をご馳走になった。
ゲルトの話を聞きながら、カーラは思った。
ここには、確かに誰かを助ける仕事がある。
"誰かの役に立つ"ということ。
それは、これまでの人生では知らなかった喜びだった。
「カーラ」
ふいに、ゲルトが真面目な顔で言った。
「お前、何か事情を抱えているな」
カーラは箸を止めた。
「まあ、いい。誰だって、ここへ来る奴は、何かしら過去を引きずってるもんだ」
ゲルトはそれ以上は何も聞かなかった。
カーラは心の中で、静かに感謝した。
誰も、過去を責めない場所。
誰も、傷を抉らない場所。
そんな場所が、この世にあることを、カーラは初めて知った。
夜が更け、満天の星空の下、カーラは小さな祈りを捧げた。
「どうか、私にできることを、見つけさせて」
新しい世界が、確かに広がり始めていた。
診療所での日々は、思った以上に忙しかった。
朝は薬草摘み、昼は診察の手伝い、夜は薬の調合と記録整理。毎日、泥のように眠りに落ちる。
それでも、カーラの胸の奥には、かつて味わったことのない満足感が満ちていた。
誰かのために働き、誰かに「ありがとう」と言われること。
それは、かつて王都で望んでも得られなかったものだった。
「カーラ、手際が良くなったな」
ゲルトがぼそりと呟いた。
カーラは小さく笑った。
「先生の教え方がいいんです」
「おだてても、給金は増えんぞ」
ぶっきらぼうな物言いも、今ではすっかり慣れた。
そんなある日の午後、診療所に一人の来訪者が現れた。
砂塵にまみれた旅装。鋭い目を持つ青年騎士だった。
「ここに、カーラ・ウェストフィールドという者がいると聞いた」
カーラは、驚きのあまり息を呑んだ。
なぜ、ここに彼が――
「エドワード……」
呟きに似た声が、自然と漏れた。
エドワード・ランディル。
かつて、カーラの婚約者だった男。
ゲルトが怪訝そうに二人を見比べた。
「知り合いか?」
カーラは小さく頷き、手にした薬草を置いた。
エドワードの顔は、以前よりもずっと精悍だった。
だが、その瞳の奥に、拭いきれない後悔の色が滲んでいることに、カーラはすぐに気づいた。
「少し、話せるか」
エドワードが低く言った。
カーラはゲルトに軽く頭を下げ、診療所の裏手に回った。
春の風が、草の香りを運んでくる。
「……君を探していた」
エドワードは、戸惑いを隠さずに言った。
カーラは静かに首を傾げた。
「どうして?」
「あのとき、僕は――」
エドワードは言葉に詰まった。
カーラはじっと待った。
やがて、彼は苦しそうに続けた。
「僕の家は、王都での立場を守るために、君を手放すよう仕向けた。君を巻き込まないために……そう思っていた」
「でも、結局はあなた自身が選んだのでしょう」
カーラの声は、柔らかかった。
怒りも、恨みもなかった。ただ、静かな事実だけがあった。
エドワードは俯いた。
「君がこんな辺境で、一人で生きているなんて知らなかった」
「知らなくて、当然よ」
カーラは微笑んだ。
「私は、私の人生を選んだの」
かつて、ただ誰かに愛されたいと願った少女は、もうここにはいない。
今ここにいるのは、自分で道を切り開く女だった。
エドワードは、そんなカーラを見つめたまま、拳を握りしめた。
「君を取り戻したい」
その言葉に、カーラは驚かなかった。
きっと、こうなることは、どこかで分かっていた。
でも、カーラは首を横に振った。
「遅いのよ」
エドワードの顔に、絶望が浮かぶ。
カーラは、そっと微笑んだ。
「私はもう、あなたに守られるためにここにいるんじゃない。私自身のために、生きるためにここにいるの」
「それでも、僕は――」
「あなたは、あなたの道を歩んで」
カーラは言葉を切り、静かに背を向けた。
もう、過去に縋る必要はない。
風が頬を撫でる。
春の空は、限りなく高く、青かった。
カーラは、歩き出した。
未来へ向かって。
後ろから、エドワードが名前を呼ぶ声がした。
だが、振り返らなかった。
これでいいのだと、心から思えた。
診療所に戻ると、ゲルトが呆れたように言った。
「何を揉めてたんだ」
「ちょっとした、昔話よ」
カーラは肩をすくめた。
ゲルトはふんと鼻を鳴らし、作業に戻った。
カーラも、すぐに薬草の仕分けを始めた。
日常は、こうして続いていく。
誰かに選ばれるためじゃない。
自分で、自分を選ぶために。
カーラは、微笑んだ。
窓の外には、春の光が溢れていた。