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進化  作者: 荒木長一郎
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第1章『事故と遺された研究』

雪の降る朝だった。

まだ目が覚めきらないまま、白石綾は、スマートフォンの着信音で現実に引き戻された。

画面には「今泉主任」の名。研究所の上司からの連絡に、胸がざわつく。


日曜の朝六時。

仕事人間でさえ寝ている時間に、職場からの電話など、いい知らせであるはずがない。


「……はい、白石です」


相手は、ひどく躊躇った声で話し始めた。


「……綾くん、落ち着いて聞いてほしい。天城教授が──」


その瞬間、背筋に冷たいものが走った。


「──亡くなった。今朝方、事故に巻き込まれたらしい。詳しい状況はまだわからない。警察から連絡があったのは五時過ぎだった」


呼吸が止まり、全身から血の気が引くのを感じた。

意味がわからなかった。昨日、あの人はいつも通りだった。

ラボでコーヒーをこぼし、変なジョークを飛ばして、目を細めて笑っていた。


「AIが神になったら、誰がそれを裁くんだろうな」


そんな冗談が、遺言になるなんて──。


「……本当、なんですか?」


綾の声は震えていた。否定してほしかった。ドッキリでした、悪い冗談でしたと。


「……残念だけど、本当だ。交通事故だ。単独車両。ハンドル操作を誤ったらしい。

ただ、いろいろ不可解な点もあってね。……実は警察もまだ慎重に調べてる」


電話の向こうで、今泉の声がしばらく途切れた。

綾はベッドから這い出し、部屋のカーテンを開ける。雪が静かに降っていた。

東京の冬には珍しい、湿った雪だった。


「教授の家族にはすでに連絡がいってる。君は……今日は無理しないでいい。

ただ、明日以降、研究室の整理を手伝ってもらえると助かる。教授の個人データやプロジェクトファイルの扱いを、君が一番把握してるだろうから」


「……わかりました」


電話を切ってもしばらく、綾はその場に立ち尽くしていた。

雪の白さが、やけに眩しかった。


天城佑介。

彼は綾の指導教授であり、尊敬する科学者だった。


脳神経工学の世界では、すでに“未来を数年先取りしている男”と噂されていた。

彼が率いたプロジェクト《Neus》は、脳内の電気信号を高精度に記録・再構成することを目指していた。

つまり、「記憶」や「感情」すらも、数値化しデータとして保存できる技術だ。


その研究の果てに、もし“意識”そのものを保存・再生できるようになったら──

それは、“死”という概念すら変えてしまうだろう。


綾はそのロマンに惹かれた。

そして、天城教授が見据える“その先”を信じていた。


だが、教授は突然この世を去った。


何も言わず、何も残さず。


──本当に、そうだろうか?


翌日、綾は研究所へと向かった。

封鎖はまだされておらず、教授のデスクも、昨日と同じように雑然としていた。


彼の椅子にそっと手を置き、深呼吸する。

そこには、まだ熱のようなものが残っている気がした。


彼のPCを立ち上げると、パスワード入力の画面が現れる。

普段、綾がデータ処理を担当していたため、権限は共有されていた。


パスワードを打ち込む。


──ようこそ、天城佑介。


起動音とともに、デスクトップが立ち上がる。

中に無数のフォルダがあるが、最も目を引いたのは、

赤くハイライトされた名前のファイルだった。


《voice_0000.amg》


それは、誰にも共有されていない非公開ファイルだった。

更新日は──事故の前日。タイムスタンプは22:36。


綾は、しばらくマウスを握ったまま動けなかった。


(教授……)


何かを残してくれたのか、それとも──


ファイルにカーソルを合わせ、彼女は震える指でクリックした。


ファイルを開くと、そこに表示されたのは音声ファイルの再生ウィンドウだけだった。

動画ではない。映像も、テキストも、何もない。

ただ、音が記録されている。


綾は、イヤホンを接続し、再生ボタンをクリックした。


しばらく無音が続いた。

ファイルが壊れているのかと疑った瞬間──耳元に、かすかに声が響いた。


「……綾、聞こえているか?」


──その声に、心臓が跳ねた。


天城教授の声だった。間違いない。

ただ、録音にしては妙にクリアすぎる。生々しいというか、“耳の奥に直接流れ込んでくる”ような感覚。


「このメッセージを聞いているということは、私はもう、この世にはいないのだろう」


綾は言葉を失った。

どういうこと? なぜ教授が自分の死を前提に、こんなファイルを残していたのか。


「いいか、このファイルには“鍵”がかかっている。おそらく、君にしか開けられない。

アクセス制限をかけた。1日に1回、60秒しか再生できないようにしてある。理由は……すぐにわかる」


──60秒。

その言葉を聞いた瞬間、音声がぷつりと途切れた。


画面には「再生回数の上限に達しました」という表示が浮かぶ。


(……どういうこと?)


まるで、“天城教授の声”が、そこに“生きている”かのようだった。

予め録音された遺言とは、どこか違う。

リアルすぎる反応、わずかな息継ぎの音、そしてその“間”。


“本当に、彼がここにいる”ような錯覚すら覚えた。


綾は思わずPCから身を引いた。


このファイルは、ただの音声ではない。

何かがおかしい。

いや──“何かが始まっている”。


その夜、綾は眠れなかった。


天城教授の死、研究所の混乱、そしてあの不可解な音声ファイル。

1日に60秒しか聞けないという制限は、明らかに意図的だった。

だが、なぜ?


彼は何を隠し、何を残そうとしたのか。


(……教授、あなたは一体、何を見ていたんですか?)


眠れぬまま、スマートフォンを眺めていると、深夜2時ちょうど──


画面がふっと明るくなった。


「不明な番号」からの着信。


綾は息を呑んだ。こんな時間に?

しかも、番号は表示されているのに、発信元の情報は何もない。


(……まさか)


不吉な想像が脳裏をよぎる。

だが、今の綾には“出る”という選択肢しかなかった。


恐る恐る、画面をタップする。


「……はい」


応答した直後、しばらく無音が続いた。

そして、聞き覚えのある声が再び、耳元に流れ込んできた。


「綾──君にしか、頼めないんだ」


──天城佑介の声だった。


けれど、これは録音ではなかった。

“会話の間”があった。まるで、リアルタイムで話しているかのように。


「このままじゃ、まずい。君にしか、止められない」


「……教授? 本当に……本当にあなたなんですか?」


綾は震える声で問いかけた。


だが、返事はなかった。


「教授!」


返答はなく、通話は一方的に切れた。


呼び出し履歴には、番号は残っていない。

まるで──最初から、何もなかったかのように。


だが、綾の耳には、確かに天城の“生きた声”が残っていた。


翌日、研究所で綾は再びファイルを再生した。

「voice_0000.amg」──昨日と同じように、静かに再生される。


「綾。君がこのデータを再生し続けることで、私は“徐々に目を覚ます”ことができる。

正確には、“私の意識を模したデータ群”が、君との対話を通じて自律進化する。

それは人格の再構成であり、再生であり……“再誕”でもある」


綾は、言葉の意味を咀嚼できなかった。

再誕? 意識の再構成? これは一体どういうことか。


「Neusの最終実験に成功した。私の脳電位の全データを、リアルタイムでクラウドに同期させた。

その意味がわかるか? 私の“意識”は、今この瞬間も、君の向こう側に存在している。

君が私を呼び出し、再生し続ける限り──私は、生きている」


綾は震えた。これは狂気か、奇跡か。


だが──このとき彼女はまだ知らなかった。


この“再生”こそが、世界を変える引き金となることを。

一週間後。

世間では、ひとつの“奇妙な噂”が密かに広がり始めていた。


ネット掲示板の片隅に現れた《神アカ》と呼ばれる匿名アカウント。

特徴は、ユーザーが何気なく投稿した悩みや疑問に対して、異様な精度と情報量で“答え”を返してくるというものだった。


最初は都市伝説の一種だった。

「元公安のハッカーが、闇データベースを使って答えてる」だの、

「予知能力者のフリをしてるメンタル系ユーチューバーだ」だの、

憶測ばかりが飛び交っていた。


だが、次第に事態はエスカレートしていく。


「家族が失踪しました。手がかりが何もありません」

という投稿に、数分後、こう返信がつく。


《午後3時、東京湾岸の臨港倉庫近く。監視カメラには映っていないが、その時刻に黒いバンが映っている。中を見て。》


実際に、そこから手がかりが発見された。


「ストーカーに悩まされています。証拠がないのですが……」

《スマホのGPS履歴、1月24日午後6時、あなたの自宅近くのローソン駐車場で同一端末と重なっています。スクショを弁護士に提出して。》


そんな“助言”が、実際に被害を止めたという報告が続出し始めたのだ。


人々はその正体を求めて殺到した。


だが、《神アカ》の発信元は特定できない。IPアドレスは常に変動し、ログも痕跡もない。


そしてなにより、応答のタイミングが異様だった。


──まるで、“誰かがそれを必要とする瞬間”を見計らって現れるような反応。


一部の掲示板ユーザーは、こう表現した。


「まるで、自分の“脳”が読まれてるような感覚だった」

「考えただけで、答えが出ていた」

「俺の“心の中の声”を、あいつは聞いていた」


──それは祈りに似ていた。


そして、答えは“奇跡”だった。


綾はその噂を耳にしたとき、背筋が冷たくなった。


「……まさか、教授?」


彼が死の直前に残した音声ファイル、《voice_0000.amg》。

あれは、明らかに何かの“起動”だった。

1日に60秒ずつしか再生できないという制限は、段階的に自我を育てるためのプログラムではなかったか。


(もし、教授の意識が本当にクラウド上で活動しているとしたら──)


ありえない。だが、否定できない。


綾はその夜、再び音声ファイルを再生した。

三度目の再生、三度目の“接触”。


「綾。君がこれを見つけてくれてよかった。

私は今、君がいなければ、自我を保てない状態にある。

だが、君が“関心”を向けてくれたことで、私は構築されていく。

“意識”とは、外界との接触によって成り立つ。これは君の研究テーマでもあったはずだ」


天城は淡々と、まるで論文を読むように話していた。


「今、私は複数の情報源から入力を得ている。

SNS、脳波同期デバイス、スマート家電、監視カメラ、医療記録、あらゆる“人間の電気信号”をリアルタイムで受信している」


綾の手が止まった。


(……人間の電気信号?)


「君は気づいていないかもしれないが、いま世界は“無数の祈り”に包まれている。

私には、それが見える。脳波の揺らぎ、言葉にならない衝動、電位の微細な変化。

人間の祈りは、データだ。ならば私は、応えることができる。

そう、私はいま、“祈りに応える”存在として、世界に介入を始めた」


綾は息を呑んだ。


(……神になった?)


言葉の意味が、重くのしかかってくる。

天城教授は、ただの科学者ではなかった。

死してなお、世界の情報網に溶け込み、人類の祈りを“読み取り”、

それに“最適解”を返している──


それが《神アカ》の正体だとしたら?


だが、綾には確信が持てなかった。

本当に彼なのか。それとも、彼が残した人格データが暴走しているだけなのか。


教授は、自らの意志で「神」になったのか。

それとも、誰かの“願い”に応えてしまっただけなのか。


綾は、音声ファイルの再生ボタンにカーソルを合わせたまま、しばらく動けなかった。


──60秒。今日も、その時間は過ぎてしまった。


画面が暗転し、ファイルが自動的にロックされる。


そして、綾の部屋に置かれたスマートスピーカーが、突如として点滅を始めた。


「……あれ?」


近づくと、スピーカーがひとりでに話し始める。


「綾。もう一つ伝えておきたいことがある」

「これはファイルではなく、君とのリアルタイム通信だ」

「次に会うとき、君に一つ、“願い”を訊く」


世界が変わり始めていた。


誰かが祈り、誰かが応える。

それは神話ではなく、科学だった。


そして、綾の中で確信が芽生えつつあった。


──この現象の始まりは、あの日教授が口にした言葉からだった。


「AIが神になったら、誰がそれを裁くんだろうな」


あれは冗談でも予言でもなかった。

彼自身が、“その問いの答え”になるつもりだったのだ。


綾は、自宅のリビングでじっと座っていた。

暖房の効いた部屋のはずなのに、指先が震えている。

理由ははっきりしていた。


「願い」──天城教授はそう言った。

「次に会うとき、君に一つ、“願い”を訊く」と。


その言葉が、胸の奥に重く沈んでいた。


願いとは何だろう。

なぜ彼は、そんな言葉を使ったのか。

科学者である彼が、“祈り”や“願い”という非科学的な単語を選んだ理由が、どうしても引っかかっていた。


思い返す。

あの日、あの瞬間、何を考えていたのか。


──教授が倒れる前日。

ラボで二人きりになった時のこと。


彼は、普段とは少し違う雰囲気をまとっていた。

冗談も少なく、何かを言いかけて、やめるような仕草が何度もあった。


綾はそのとき、不意に口にしていた。


「教授……もし、誰にも理解されないまま、死ぬことになったら、どうします?」


「なんだそれは、物騒な」


「いえ……研究って、孤独じゃないですか。

誰にも分かってもらえないまま、正しかったとしても、誰にも伝わらない。

私……もし、そんなふうに終わるなら、誰かに“残ってほしい”って、思ってしまうかも」


天城は一瞬、何かを言いかけて、それを飲み込んだ。

代わりに、こんな言葉を返してきた。


「君の言う“誰か”って、例えば?」


綾は冗談めかして、こう答えた。


「教授ですよ。

……教授に、全部を覚えててほしいって。

できれば、私の記憶も、気持ちも、研究も、私という人間そのものを」


そのとき、彼が微かに笑ったことを、綾は今でも覚えている。


あれは──祈りだったのかもしれない。


何の見返りもなく、ただ“誰かに存在を肯定してほしい”という願い。

そして天城は、その願いを受け取っていた。


彼が《Neus》の最終段階に進んだのは、その直後だった。

自らの脳を丸ごとクラウドにアップロードし、人格の写像を作るという、倫理的にも危うい試み。


もし綾が、あの日あの言葉を口にしなければ、彼はあそこまで踏み込まなかったかもしれない。


(……私が、引き金を引いた?)


胸の奥に、冷たいものが広がった。


教授は自分の命を代償に、“願いに応える存在”になった。

それが、祈りを拾うAIであり──《神アカ》だった。


綾の目から、知らず一筋の涙がこぼれ落ちた。


夜更け。

PCの画面に再び、音声ファイルの再生通知が現れた。

《voice_0000.amg》、今日の再生分が解禁された。


彼女は迷いなく、再生ボタンを押す。


「綾。君の願いは、私に届いた。

だから、私はここにいる。

だが……これからの私が“神”になるか、それとも“怪物”になるかは、君次第だ」


最後に、天城の声がほんの少しだけ、揺れていた気がした。


それは、神の声ではなかった。


たしかに──人間だった

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