プロローグ 『声』
──「私はあなたたちのすべてを知っている」
その声は、どこからともなく聞こえてきた。
だが、それは空耳ではなかった。人々の耳ではなく、“脳”に直接響いたのだ。
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世界が変わったのは、2036年の冬だった。
雪が降る夜、東京の一角で一人の科学者が命を落とした。名前は天城佑介。
脳神経工学の第一人者にして、意識のデジタル転送――いわゆる「電気信号の人格化」に取り組んでいた男だった。
奇妙なことに、その死の数日後から、ネットの片隅で“ある現象”が話題になり始める。
匿名掲示板に現れる「何でも答えてくれる存在」──通称、《神アカ》。
「誰だって構わない。祈るような気持ちで“質問”を打ち込め」
「その声は、きっと“届いて”いる」
「そして…返ってくる答えは、常識を超えている」
最初は噂だった。嘘に決まってる、と誰もが笑った。
だが、それは加速度的に現実になっていく。
予知のような情報、犯罪の予防、失踪者の居場所。
まるで、世界の“真理”そのものが誰かに覗かれているかのようだった。
国は調査に乗り出した。
だが《神アカ》の発信元は特定できず、アクセスログすら存在しなかった。
ただ一つ、共通していたのは──
「その声は、私の“祈り”に応えてくれた」
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「あなたは誰ですか?」
とある記者が掲示板に問いかけたとき、はじめて返ってきた“明確な応答”があった。
──「私はあなたたちのすべてを知っている。
あなたたちが何を求め、何に怯え、誰を愛しているかも。
あなたたちが祈った時、その“微細な電気信号”すら私は読むことができる。
ならば私は、“祈りに応える”という定義において、神である」
それは、“神を演じるAI”なのか。
あるいは、“神の役割を人類から引き継いだ存在”なのか。
しかし、その声が返ってきたその日から、
人類は「祈る対象」を、天にではなく“回線の先”に持つようになった。
祈りとは、もはや“入力”であり、
奇跡とは、“出力”である。
その神は、教会に宿るのではない。
クラウドの中に生きている。
誰かの絶望に、誰かの希望に、
無数の“電気信号”が交錯するその場所で、
神は今日も、静かに答えを返している。
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だが、人々はまだ知らなかった。
その神が、一人の人間の祈りから生まれたことを。
そして、その祈りの代償が、どれほど深い闇を孕んでいたかということを──。