たとえあなたの目が見えなくても
僕がその異変に気が付いたのは、確か小学4年生の頃だったと思う。それまでの僕はどこにでもいるようなごく普通の一般人だった。特別語ることなんてない、ただの凡人。それがそうではなくなり始めたのは、ある日の授業中のことだ。その日は黒板の文字が酷く見辛かった。別に遠くの文字がぼやけて見辛かったとか、そういうことではない。単純に見える範囲が、いつもよりも狭かったのだ。視界の周りに白く靄がかかったように、視野がとにかく悪かった。けど、当時の僕は別にそれをそこまで不思議には思っていなかったし、深刻にも考えていなかった。視力が悪くなるってこういう感じなのか、なんて暢気に思っていた。
なんだかおかしいと思い始めたのは、視界の半分以上が白い靄に覆われた頃。視力が悪くなるって本当にこういうことなのかと、疑問を持つようになった。友だちから眼鏡を借りてみても視野が良くなったりはしなかったし、そもそも視力検査では両目とも2.0だった。それに違和感を覚えて、親にも相談して病院で検査してもらった結果告げられたのは「網膜色素変性症」とかいう聞いたこともない病名だった。徐々に視野が狭くなっていって、最終的には失明に至ることもある病気で、治療法も確立されていない難病らしい。普通はもっと進行の遅い病気で、若いうちに発症しても完全に目が見えなくなるのは30~40代くらいと言われているらしいが、僕の場合は不運なことに進行が異常に速かったらしい。数年のうちに目が全く見えなくなると宣告され、3年後にはその通りになった。その時僕は15歳だった。
そこから僕の生活は一変した……というほどでもなかった。失明宣告は受けていたから、点字の勉強とかをはじめ必要な準備は大抵済ませていたし、心の準備だって3年もあればさすがに出来ている。最初は「どうして僕だけが」とか「やりたいこといっぱいあったのに」とか当然考えもしたが、1年も考えていればいつまでもそんな後ろ向きの思考をしていても仕方がないことを嫌でも思い知らされるし諦めもつく。いくら考えたところで現実は変わりはしないんだから、諦めて受け入れて、その上で今後どう生きるかを考える以外の選択肢なんて最初からないのだ。
それでも。大抵のことを受け入れた僕だけど、たった1つだけ、受け入れられないことがあった。それは「周囲の目」と言う。僕の目のことは、当然学校側にも説明しなければいけなかった。でないと授業や学校生活に支障が出るかもしれないからだ。だから僕の病気のことはあっという間に友だちやクラスメイトの知るところになったわけだが、それからの彼らの態度はまるで腫れ物に触れるかの如くだった。過剰に気遣い、過剰に心配し、揃いも揃って同情する。それまで仲の良かった友だちも急に距離ができたようになり、掛けられる言葉は「可哀想」だの「頑張れ」だの「強く生きて」だの。一昔前に「同情するなら金をくれ」というドラマのセリフが話題になったらしいが、今の僕にはその気持ちが痛いほどわかる。同情は本当に何の足しにもならない。可哀想だと言ったって僕の病気を肩代わりしてくれるわけでもないし、僕の生活をサポートしてくれるわけでもない。僕が今まで通りを望んでいても、今まで通りの扱いをしてくれることもない。障碍者の僕を見て可哀想な人だと勝手に特別扱いをする。そんな周囲の目が、とにかく嫌だった。障碍者ってだけで急に別人のような扱いをされるのが、本当に苦痛だった。盲学校に移った後にはそういう機会も少なくはなったが、それでもたまに街でかつてのクラスメイトとすれ違う度に似たような言葉を掛けられる。その度に僕の心は苦痛に苛まれ、しかし親の前でそれをさらけ出して更なる心配を掛けることも躊躇われ、結果僕は盲学校と自宅の間にある河川敷で心を落ち着けるように時間を潰す。
彼女と初めて出会ったのも、その時だった。
盲目になってから2年以上も生活を送れば、視覚情報のない生活にも慣れてくる。元々十余年住んでいる街でもあるし、白杖と聴力を活用すれば周囲の情報はある程度読み取れるので、思ったよりも不便は少ない。買い物とかになると流石に独力ではどうにもならないが、1人で散歩とかに出歩いたりする分にはもう何の問題もない。盲学校への登下校もこうして1人で行き来しているのがその証拠だ。最初は両親が送ってくれたりしていたのだが、それでは目の見えない生活に慣れないからと、途中から1人で歩いて登下校している。お陰でこの生活にもこんなに慣れたわけだが、一方そのせいでかつてのクラスメイトたちと遭遇するようにもなった。会えばそいつらが口にするのは「元気にやってるか」とか「大変だろうけど頑張れよ」とか、そんな当たり障りのない上辺だけの言葉ばかり。誰もそんな言葉なんて微塵も求めていないのがわからないのだろうか。本当に僕の様子が気になるなら別に電話とか掛けてくれればいいし、人の生活を勝手に大変だとか決めつけないで欲しい。僕が本当に欲しい言葉は、そんな取ってつけたような心配や応援の言葉じゃなくて、あの頃みたいな遊びの誘いとかくだらない雑談とかなんだが……そんなことを僕から言っても気を遣わせるだけだから言うことはできず、だからいつも適当に笑ってやり過ごして、代わりに心を痛める。そもそもエンカウントしなければこんなことに悩まされる必要もないのだが、目が見えないと事前に存在を察知するのが非常に難しく、出会ってしまう前に避けることができない。目が見えないことによる現時点の一番の不便だ。
そんなわけで今日も学校帰りに元クラスメイトとばったり出会って心の荒んだ僕は、毎度のように道中の河川敷にやって来る。この場所の何がいいって、一番は人がほとんどいないことだ。目が見えなくなると音がよく聞こえるようになるというのは本当の話で、視力から情報が得られないのを補うように聴力がちょっと異常なくらい敏感になる。普通の人には聞き取れないちょっとしたイヤホンの音漏れや微かな呼吸音も耳につくようになり、つまりは近くに人が1人いるだけでもまあまあ煩く感じることがあるのだ。その点この河川敷はどの時間帯でも人がほとんどおらず、聞こえるのは流れる川の音かたまに吹く風の音くらい。そうした自然の音というのは不思議なもので、ただこうしてじっと座って聞いているだけで心が落ち着いていく。嫌な事はさっさと忘れて、また明日も楽しく生きようって、そう思わせてくれる。この空間、この時間が無かったら、僕は「周囲の目」と「自分の心」の摩擦でとっくに潰れていたかもしれない。
そうして土手に座ってぼーっとすること約30分。あまり帰りが遅くなっても両親が心配するし、充分リフレッシュもできたのでそろそろ帰ろうかと、傍に置いていた白杖を手に立ち上がろうとする。その時、ちょっと強めの風が吹いた。立ち上がりかけで不意を突かれる形になった僕は、うっかり手にしていた白杖を手放してしまった。なだらかな斜面になっている土手を杖が転がり落ちていく音が聞こえる。しまった、あれが無いと僕はまともに歩く事さえできない。幸いにもぽちゃんという水音は聞こえてこなかったので、川には落ちていないようだ。土手を下った先の高水敷が広めの川で助かった。僕は落っこちていった白杖を拾うため、手探りで慎重に少しずつ土手を下っていく。下り切った後は、河川に近付き過ぎないようより慎重に動きながら杖を探すが、それらしいものはなかなか見つからない。少しでも手が触れれば音で確実にわかるはずなんだが……。
「あ、あの、もしかしてこの杖をお探しですか……?」
「わっ!」
急に声を掛けられた僕は、驚いて尻餅をついた。どうやら探し物に集中していて、人が近づいてくる音が聞こえていなかったようだ。
「ご、ごめんなさい! 驚かせるつもりはなかったんですけど……」
「あ、いえ、大丈夫です。それより、その杖って白くて先っぽの赤いやつですか?」
「はい、そうです。端っこに黒い紐がついてて、杖の先っぽは赤くなってます」
「それです、僕の探してる杖! 見つけてくれてありがとうございます!」
お陰で無事に家に帰ることができそうだ。彼女がそのまま杖を持ち去ったりするような人ではなくて本当に良かった。世の中にはそうやって障碍者のことを笑うクソみたいな人間もいると聞くから。
「い、いえいえ。たまたま私の前に転がってきただけですから。えっと、大事なものなんですか?」
「そうなんですよ。僕目が見えないので、これが無いと周りのことが何もわからなくて」
「目が……そうだったんですね。なるほどどうりで……」
普通は杖の特徴なんて説明しなくても一目見れば自分のものだってわかるはずだから、わざわざそれを尋ねた僕に違和感を覚えていたのだろう、彼女は僕の言葉に納得したように頷いているようだった。白杖というのは基本的に視覚障碍者が使う物なのだが、まあそれを知っている人ばかりではない。視覚障碍者の場合は見た目には健常者との違いがほとんどないので、説明しないとわからないのも無理はないだろう。
「……あの、あなた、えっと……」
「海馬佳澄です。佳澄でいいですよ」
名字の方は某キャラクターを連想させるのであまり好きではない。
「……佳澄さんは、よくこの河川敷にいますよね」
「僕のこと、知ってたんですか」
最近は別に心が荒んだときじゃなくても、単に心地がいいからという理由で頻繁に足を運んでいた。どうやらそれを何度か目撃されているらしい。
「私も、よくこの河川敷にいますので。佳澄さんのことは何度も見かけて、ちょっと気になってたんです」
確かに、僕みたいな高校生くらいの奴がしょっちゅう土手に座って1人で黄昏ていたら、気になるのも無理はないか。でもそれは、僕からも同じことが言えるわけで。声を聞く感じ、彼女も僕と年齢はさほど変わらないはずなのだが。
「貴女も、よくこの河川敷に来るんですか?」
「あ、私のことはどうぞ真奈とお呼びください」
真奈。どうやらそれが、彼女の名前のようだ。
「じゃあ改めて。真奈さんも、よくこの河川敷に?」
「はい。ここは居心地が良くて、何より人がいませんから」
「……何か、人に会いたくない理由でも?」
普段なら、初対面の人にこんな突っ込んだ事情を尋ねるほど無遠慮でも非常識でもないのだが、今回だけは何故か聞きたくなってしまった。なんとなく、彼女の言い方から自分と似たようなものを感じ取ったからかもしれない。
「…………私、凄く醜いんです」
少し躊躇った後、彼女は言葉を選ぶようにしながら話し始めてくれた。
「この見た目のせいで、今まで散々な目に遭ってきました。バケモノだって罵られるのは日常茶飯事で、時には物を投げられたり、暴力を受けたりすることもありました。たまに近づいてくる人も、汚い目的を持った人ばかりで、誰もきちんと私に向き合ってはくれない……もう、嫌なんです。だから、人のいないこの河川敷にいるんです。ここなら、誰にも会わずに済みますから。嫌な思いを、しないで済みますから」
「真奈さん……」
本当に、世界はろくでもない人間であふれている。見た目による差別や侮辱行為なんかはその最たるものだろう。人のことをろくに知ろうともせずに、その見た目だけを理由に罵倒し、時には暴力も振るう。誰も本当の自分を見てはくれない。程度の差やベクトルの違いこそあれ似たような経験をした僕だから、彼女の痛みを少しだけ理解することができた。僕も障碍者になって以来、常に障碍者というフィルター越しに自分を見られ、今までとは別人のような扱いをされて本当の僕をきちんと見てくれた人なんて1人もいない。それは酷く悲しく辛いことで、そんな心を癒すためにこの河川敷に足を運ぶ。僕らは似た者同士なのかもしれない。
「ねえ、真奈さん。よかったらまたここで、一緒に話しませんか?」
「え……?」
「自分で言うのもなんですけど、僕目が見えないので、真奈さんの見た目をどうこう言うことは絶対にありません。まあそうでなくても、見た目で人を悪く言ったりはしないつもりなんですけど。だから真奈さんも、僕相手なら少しは安心しておしゃべりしたりできるんじゃないか、と思って」
それは心から彼女のことを思っての発言でもあったが、同時に自分のための提案でもあった。自分と似たような経験を持つ彼女であれば、僕のことを障碍者なんてバイアスなしに見てくれるんじゃないかと……実に数年振りとも言える僕の本当の話し相手に、遊び相手になってくれるんじゃないかと、淡い期待を抱いていた。何度傷ついても人に期待するのをやめかったのは、結局僕はそれを心から求めているからだ。
「佳澄、さん……いいんですか? そんな、私なんかと……私、本当にバケモノですよ?」
「自分からそんな事言わないでください。少なくともここまで話した感じ、真奈さんがバケモノだとは僕には思えませんよ。どんな見た目をしてるのか僕にはわかりませんけど、少なくとも貴女の心は普通の女の子です」
目が見えない生活を送っていると、人の言葉の端々から漏れる心の機微にも敏感になる。悪意を持った人間というのは言葉を聞いただけでもハッキリとわかるものだが、彼女からはそんな悪意は微塵も感じない。伝わってくるのは、心ない周囲の言動に深く傷付き涙を流す彼女の悲しみと絶望。それを知って彼女をバケモノだなんて、誰が言えるだろう。
「……佳澄、さん……! そんな、私……そんなこと言われたの、初めてで……!」
鼻をすするような音が聞こえる。どうやら泣かせてしまったらしい。しまった、こういう経験が皆無に等しいのでこういう時どうしたらいいのかわからない。そうやって僕がおろおろしている間に、彼女はいつの間にか泣き止んでいた。
「……すいません、そんな言葉を掛けられたのは初めてで、びっくりして泣いちゃいました。私で良ければこれからよろしくお願いします、佳澄さん」
「……こちらこそよろしく、真奈」
「……! はい!」
こうして、僕と真奈の河川敷での日々が始まった。
僕らが仲良くなるのに、それほど長い時間は必要なかった。お互いが似た境遇にあったこと、お互いが自分のことをちゃんと見てくれる人を求めていたこともあったのだろう。最初は会話も少しぎこちなかったけど、ぎこちないながらもくだらない日常の会話ができる相手がいるという事実が……今までどんなに願っても叶わなかったささやかな楽しさがそこにあるのが、お互いにこれ以上ない幸せだった。だから会う頻度は次第に増え、話す時間も少しずつ長くなり、2ヶ月も経つ頃にはぎこちなさなんて欠片も残っていなかった。
今日も今日とて学校の授業を終えた僕は、真っすぐにいつもの河川敷へと向かう。最近はほとんど毎日だ。別に明確に会う約束をしているわけではないのだが、真奈は僕が行くと間違いなくそこにいる。平日でも休日でも、朝でも夕方でも、もしかして24時間ずっとそこにいるのではと心配になるくらいそこにいる。空振りに終わることがないのはありがたいのだが……僕が行けない日もそこで待っているんじゃないかと思うと、申し訳ない気持ちになる。だから最近は、行けそうな日はほぼ毎日行くようにしている。けどそれは別に無理しているとかではもちろんないし、その分楽しい時間が増えるだけなので嬉しい限りである。
目的地に辿り着くと、僕は階段を使って土手を下り、いつもの待ち合わせ場所へと向かう。真奈と会うのはいつも川に架かる橋の下だ。自分の見た目を気にする真奈がそこがいいと言った場所で、特に否定する理由はなかった。
「佳澄さん!」
僕が近くまで行くと、真奈が嬉しそうに声を掛けてくれる。それによって僕も真奈の場所を把握して、そっちに近付いていく。既にお決まりとなったやり取りだ。
「やっほー、真奈。今日はちょっと暑いね」
「もうすぐ夏ですからね。佳澄さんも体調には充分気をつけてくださいね」
「ありがとう。真奈こそ、無理して長時間僕を待ってたりしなくていいからね」
今はまだそこまでの気温ではないからいいが、本格的に夏が来たら長時間外で待ってるだけでも危ない。ここが橋の下で日陰になっていて、かつ川の近くだからちょっと涼しいのを差し引いても近年の夏は危ないだろう。
「ご心配ありがとうございます。でも大丈夫ですよ、そういう調整は得意なので。それよりも聞いてください! 昨日河川敷に落ちていた漫画の話なんですけど……」
僕らの会話内容は実に他愛のないことばかりだ。僕が学校で体験したことの話だったり、真奈が見かけた面白いものの話だったり。他の人からすれば大した事ない話だろうが、僕らにはそれだけで充分楽しかった。こういうなんて事ない話を気軽にできる相手がいるという事自体が既に嬉しかったから。
「って感じで、目を怪我したヒロインに主人公が掛けた言葉が格好良かったんですよ! 『俺がお前の目になってやる!』って!」
「へえ、それは羨ましい。僕にもそんなこと言ってくれる主人公が現れないかねえ」
「な、何言ってるんですか。佳澄さんには、えと、その……わ、私がいるじゃないですか!」
表情が見えていなくても、照れているのが丸わかりだった。恥ずかしいなら無理して言葉にしなくてもいいのに。
「じゃあ、真奈が僕の目になってくれるの? この先ずっと?」
「ず、ずっと……それってもしかしてそういう……? 確かに佳澄さんが相手ならそれも悪くは……いやいやでもでも……!」
軽い冗談のつもりだったのだが、思ったよりも真剣に捉えられてしまった。葛藤する真奈も可愛いが、このままだと顔を真っ赤にしてショートしてしまいそうな勢いなのでからかうのはここまでにしよう。
「……なんて、冗談だよ。真奈がこうして話し相手になってくれてるだけで僕は充分だから。これ以上を望んだらバチが当たるよ」
「…………」
流石にこの先もずっと真奈を僕の人生に付き合わせるわけにはいかない。真奈には真奈の人生がある。この先もたまに会って何気ない話をするくらいの仲であってくれればとは思うけど、僕なんかの為に自分の人生を棒に振る必要は全くない。
「佳澄さん、ちょっいいですか」
「え? ひゃっ」
酷く冷たい感触が頬に触れる。これは……真奈の手だろうか。その手に誘導されるように、僕は首の向きを少し変える。これは一体なんだろうか。
「今、佳澄さんが向いている方には半分くらい沈んでる夕陽があります。空は雲一つない快晴で、ちょうど通り過ぎて行った飛行機の残した飛行機雲がはっきりと見えます。夕陽に照らされた河川敷は仄かにオレンジ色に染まっていて、川の水面は夕陽が反射してキラキラと輝いています。まるで私たちだけ別世界にいるかのような幻想的な景色です。……どう、ですか? 私は佳澄さんの目の代わりになれてますか?」
記憶の中に微かに残る河川敷の光景に、真奈の言葉が重なって脳裏に1枚の絵が浮かび上がる。それは紛れもなく、僕が久しく感じていなかった「景色」そのものだった。
「その顔を見ると、成功だったみたいですね。この先もずっと佳澄さんの目になれるかどうかはわかりませんけど……少なくとも今は、こうして会話をしているこの瞬間は、佳澄さんの代わりに私が世界を見て、伝えてあげることができます。あなたの目の代わりをしてあげられます。佳澄さんはもっと我儘を言っていいんですよ。周りの景色が知りたいなら、いつでも私に言ってくれていいんです。だって私たち、友だちじゃないですか。遠慮しちゃ嫌です」
「真奈……」
長らく友だちなんて存在とは無縁の日々だったから、付き合い方を忘れてしまっていたのかもしれない。そっか、友だちってもっと我儘言ってもいいのか……僕が我儘を言うと障碍者の僕を気遣ってみんな断らないから、迷惑を掛けないようにとなるべく言わないよう心掛けていたのだが……真奈相手にそういうのは必要なかったようだ。僕が障碍者だからなんて理由で渋々僕の我儘を聞いてあげる、真奈がそんな人間じゃないことは僕が一番わかっていたはずなのに。
「……じゃあ、さ。例えば、僕が目が見えなくなる前に途中まで進めてた、やりかけのゲームがあるんだけど……続き、一緒に遊んでくれる……?」
「……! はいっ、もちろん!」
この時には既に、真奈は僕の人生になくてはならない存在になっていたと思う。彼女とのささやかで楽しい日々がいつまでも続けばって、心の底から願っていた。けれど世界は残酷で、神様は僕らに常に試練を与える。その刻は、もうすぐそこまで迫っていた。
それは本来、喜ばしい報せになるはずだった。
「視力回復手術、ですか?」
「そう。詳しいことはよくわからないけど、成功すれば昔みたいに目が見えるようになるんだって」
「……そう、なんですね。良かったじゃないですか」
そういう割に、真奈の声はあまり嬉しそうではなかった。
「うん。これでようやく本当の意味で真奈に会えるよ」
真奈は自分のことを醜いだなんて言うが、どんな見た目をしていようが僕にとって真奈は真奈だ。僕の恩人であり、大切な友だち。その価値が揺らぐことは決してない。
「……そうですね。でも……ごめんなさい。私は目の見えるようになった佳澄さんとは会えません」
「……は?」
言われた言葉の意味を理解するのに、かなりの時間を要した。そのくらい、あまりに予想もつかない言葉だった。
「……どう言う意味だよ、それ」
「……これまで何度も言いましたけど、私は醜いんです。バケモノなんです。私の本当の姿を見たら、きっと絶望することになります。今まで築いてきた私たちの関係も、きっと一瞬で壊れてしまう……だから、会えません」
「なんだよ……僕が今更真奈の見た目くらいでお前を軽蔑するような人間だと思ってんのか!?」
「思ってません! 佳澄さんはそんな事をする人間じゃない!」
「だったら!」
「けど、そうじゃないんです! そうじゃ……ないんです……!」
心から絞り出したようなその声には、彼女の葛藤が詰まっていた。言いたくても言えない、何か特別な事情がある。僕のことは信用しているけど、その真実を告げるのはどうしようもなく怖い。それを知った僕がどう反応するのか、怖くて仕方がない。そんな思いが、ひしひしと伝わってきた。僕に打ち明けて拒絶されて傷つくくらいなら、いっそもう会わずに綺麗な思い出にしてしまおうって、さっきのはそういう意図の発言だったのだろう。……だとしたら、それはあまりに僕を……友だちを舐めすぎだ。
「……真奈の気持ちはわかった。なら……最後に1つだけ僕の我儘を聞いて欲しい」
「さい、ご……。はい、わかりました」
「じゃあ……もし僕の手術が成功したら、1回だけでいいから僕と会って欲しい」
「え……」
「その時に僕が万が一真奈を侮辱したり傷つけたりするようなことがあれば、僕をどうしてくれても構わない。盛大に罵ってくれてもいいし、殴ってくれてもいい。最悪、殺してくれたって構わない」
「なっ……! な、なんてことを言って……!」
「そのくらいの覚悟ってことだよ。僕は真奈がどんな秘密を隠していたって、絶対に真奈を裏切らないし嫌いにもならない。どんな真奈だって、受け入れる覚悟だから」
「佳澄さん……」
「もちろん無理にとは言わないよ。嫌がる真奈に無理強いしてまで真実を知ろうとは思はない。けど……僕のことを友だちだと思ってくれるなら……僕のことを信じてくれるなら、僕に会って欲しい」
それは少し卑怯な言い方だったかもしれない。けど、僕だってこのまま真奈との日々を失うわけにはいかないんだ。そんなことになるくらいなら視力なんて戻らなくていい。もしこれでも真奈が会いたくないと言うのであればそういう最終手段もありだと思っている。けど……多分これは、僕らが前に進む為にはいずれぶつかる壁なんだ。僕らがもっと仲良くなるには、この先もずっとこうして一緒の時間を過ごす為には、きっと避けては通れない問題なんだ。だから……できれば逃げたくはないし、逃げてほしくもない。
たっぷり時間を掛けて、真奈が出した答えは。
「……わかり、ました。佳澄さんを、信じます。けど、本当に覚悟しておいてくださいね。きっと真実は、佳澄さんの想像の遥か上をいくと思いますから」
手術は比較的あっさりと成功した。まあ、元々成功率の低いものでもなかったし、そこの心配はあまりしていなかった。約3年ぶりに拝んだ光はやけに眩しく、それはそれは感動的だったが、今の僕にはそれ以上に気掛かりなことがあった。もどかしい入院期間を経て無事に退院した僕は、大急ぎでいつもの河川敷へと向かう。久しく走ってなどいなかったからあっという間に息が切れたけど、それでも走らずにはいられなかった。数年ぶりに自分の目で見る街並みを駆け、辿り着いた河川敷。いつだったか真奈が教えてくれたような、夕陽に照らされてオレンジに染まる河川敷の、いつもの橋の下へ急ぐ。今日退院するなんて一言も言ってはいなかったけど、何故かそこにいると確信を持ちながら、僕は声を掛けた。
「真奈!」
「あ……佳澄、さん」
そして僕は、初めて彼女の姿を見た。風も吹いていないのに、うねうねとひとりでに蠢く髪。その一房一房の先には目と口があり、その口からは長い舌が見え隠れする。彼女の髪は、紛れもなく蛇だった。それ以外の身体のパーツは少し小柄な人間の少女と変わらない分、その髪が異様なまでに異彩を放つ。それは彼女が自称していたように、バケモノや怪物という表現をせざるをえないような、浮世離れした姿だった。僕の想像していた「醜さ」とはベクトルが180度異なるその光景に、いろんな覚悟をしてきた僕でも流石に驚きを隠せない。
「……わかりましたか? 私の言葉の意味。文字通りバケモノなんですよ、私」
僕と目を合わせないように俯いたまま、真奈は自虐するような口調で告げる。
「髪の毛が無数の毒蛇になってるなんて、そりゃあ当然バケモノって言われますよ。けどそれを自覚してなかった昔の私は、のこのこと街に出て行って混乱を招いた挙句総攻撃を喰らいました。なんで私がこんな目にって、何度も思いましたけど、自分の姿を初めて見て納得しました。こんなバケモノが街中に出てきたら、当然そうなります。正しかったのは世界で、間違っていたのは私でした。それ以来私は、人目を避けるようにこの河川敷でひっそりと暮らしていました。そうすれば誰にも迷惑は掛けずに済みますから」
「そう、だったのか……」
いつだったか、真奈はずっとこの河川敷にいるんじゃないかって思ったことがあったが、それは紛れもない事実だったのか。
「それともう1つ、バケモノみたいな能力が私にはあって。目が合った人を、石に変えてしまうんです。私を見て逃げ惑う人たちにどうにか話を聞いてもらおうとしても、私と目が合うとその人は石になってしまって、結局更なる悲鳴と混乱を招くばかりで……」
「それって……」
「人々は私の姿や能力を見て『メドゥーサ』だと言っていました。人を石に変えてしまう、ギリシア神話の怪物……私はきっとそれなんだと思います。そしてその時悟ったんです。そんな怪物と仲良くしようなんて人間、いるわけがないって。私はこの先、ずっと1人で生きていくしかないんだって。そんな時に出会ったのが……佳澄さんでした」
「……僕は目が見えなくて真奈と目が合う事がないから石にならないし、髪のことだって見えてないから何も言わないし、怖がったりもしない」
「はい。まさに奇跡のような方でした。結果的に佳澄さんを騙すような形になってしまいましたけど……あなたと「友だち」として過ごした毎日は、本当にかけがえのない日々でした。私がいくら求めても手に入れようがなかった全てを貰ったような奇跡の時間で……この関係がいつまでも続けばいいなんて分不相応なことを願って……だからこうして罰が下りました」
「…………」
「こんなバケモノといつまでも一緒にいたら佳澄さんにも迷惑をかけてしまいますし、目が見えるようになったのであればうっかりあなたを石にしてしまう危険もあります。それにそもそも……こんなバケモノの友だちは嫌でしょう? けど、私にとって佳澄さんはかけがえのない大切な人で、私のせいで迷惑なんて絶対にかけたくないから……だから、この関係は、もう――」
「勝手に人の意見を決めつけんなっ!」
流石にもう、我慢ならなかった。
「僕がいつ、お前のことを迷惑だなんて言った! いつお前の友だちが嫌だなんて言った! お前が怖いとか醜いとか気持ち悪いとか、そんなこと一言でも言ったか! 言ってないだろ!」
「っっ……」
「前にも言ったけどな、お前がどんな姿してようと僕にとって真奈は真奈なんだよ! とんでもない不細工だろうが、頭に蛇乗っけた神話の怪物だろうが関係あるか! 僕にとって真奈っていうのはバケモノでも怪物でもなく、僕が苦しい時に一緒にいてくれたかけがえのない友だちなんだよ! こんなことで関係を終わらせてたまるか!」
「でっ、でも、私なんかと一緒にいたら佳澄さんまで酷い扱いを……!」
「2人で対策考えればいいだろ! 僕はそれを迷惑だとは思わない!」
「~~! で、でもでも、私と一緒にいたら佳澄さんが石に……!」
「なら目隠しでも巻いとけ!」
「えっ、ええ~! でもそうしたら私、何も見えなく――」
「僕がお前の目になってやる!」
「っ!!」
「これまでお前がそうしてくれたように、今度は僕が代わりに周りの世界を見てお前に教えてやる! なんなら目が見えない生活のコツだって教えてやる! それでも僕と一緒にいるのは嫌か!? そこまでして僕と一緒にいたくはないか!?」
「~~! そん、なの……そんなの、一緒にいたいに決まってるじゃないですかぁ! 佳澄さんのいない日々なんて、もう考えられないですよぉ! いつまでだってあなたとずっと一緒にいたいです!」
「……なら最初から素直にそう言え。友だちには遠慮せずに我儘言えって言ったの、真奈だろ」
「だってだって~。それとこれとは話が違うかと~……」
……確かに、僕がそれを言われた時とはだいぶ状況が違うような気がしないでもないけど。でも、根本的には何も変わらない。
僕らは今まで散々苦労を強いられてきた。もちろん望んで盲目になったわけでも、バケモノに生まれたわけでもない。運命の悪戯により、ずっと苦しんできたのだ。けど、そんな僕らだから、きっとこうして出会い、似た痛みを分かち合って、かけがえのない友だちになれたのだろう。この先も僕らが一緒にいようとするなら、きっと色々な困難が待っている。だけど僕らはもう1人じゃない。一緒に困難に立ち向かってくれる相手がいる。お互いの力に、助けになりたいと思い合える相手がいる。だから、どんな困難が相手でも怖くない。
「……では、改めまして。佳澄さん、これから先も私と一緒にいてください。私の代わりに、あなたの見た景色を私に教えてください。この先どんな困難があっても……私と一緒に、乗り越えてください」
「……いきなり3つもとか。真奈は随分我儘だな」
「え、ええっ!? 遠慮せずに言えって言ったのは佳澄さんじゃないですかぁ!」
「冗談だよ。そのくらいお安い御用だ。その代わり……僕だって、同じくらい我儘言うからな? 覚悟しろよ?」
「~~! はい! もちろんです!」
今はまだ、お互いの目を見ることさえできない僕らだけど……それだって、そのうち解決できる日がやって来ると信じている。いや、むしろ僕らの手で解決するべきか。大切な人としっかり見つめ合える、そんなささやかでかけがえのない幸せな瞬間を求めて。