13 もう今は好きじゃない
「宇佐美さんが学校に来なくなってしばらく経ったある日、前に作った工作の返却がありました。担任の先生は宇佐美さんの近所の女子に、工作を家まで届けてほしいと頼んだんですが、その子はそれを断ったんです。『なんで宇佐美なんかに』と。先生はそれをたしなめることも叱ることもせず、ただ、困ったわね、と言っていました。僕はその時はまだ……ちょっとやりすぎた部分があったかもしれないけれど、宇佐美さんがいじめられたのは仕方がないことだったと思っていました。ただ、どうしているのかは気になってもいた。それで手を挙げて、僕が届けます、と言ったんです。どこに住んでいるのかは知っていたし、家も近かったので」
「それで宇佐美さんの家に行ったの?」
「はい。……その家は、想像を絶するものでした。特にその時の僕には、そんな家があるなんて、思いもよらなかった」
「確か宇佐美さんのおうちって、かなりお金持ちって聞いたことがある気がするけど」
「ええ。家はまあ、広くて立派でした。僕がインターホンで宇佐美さんのクラスメイトであることや工作を届けに来たことを告げると、宇佐美さんのお母さんが僕を家の中に迎え入れてくれました。女優さんみたいに綺麗な人で、優しそうでした。でもその人が、凄かったんです。僕にはにこやかに『ちょっと待ってね』なんて言ったんですが、それから階段を上がって行って、『ブス!』と叫んだんです。『おいこら、ブス、さぼりのブス、あんたのクラスの子が、あんたのために工作持ってきたって。出て来いよブス』……本当に、そんな風に言っているのが聞こえて来たんです。
僕が呆然と待っていると、リビングで一人座ってお菓子を食べていた、宇佐美さんの弟さんが僕を手招きしました。年はたぶん一つか二つ下で、顔は宇佐美さんにそっくりでした。彼は僕のことをなぜかよく知っていて、僕と宇佐美さんはつきあっているのか?と訊ねました。否定すると、『おねえちゃんはずっと好きなんだから』『お母さんはいつもブスっていうけど、おねえちゃんは本当は可愛いと思う』『つきあったらいい』と僕に言って来るんです。……さすがの僕も、そこで初めて、どうして宇佐美さんが重谷さんをいじめたのか、そして僕が宇佐美さんに対してどれだけ酷いことをしてしまったのか、気づきました。
しばらくして、宇佐美さんのお母さんが戻って来て、僕を宇佐美さんの部屋に案内してくれました。正直帰りたかったけど、断り切れなくて、僕は宇佐美さんの部屋に入った。宇佐美さんは前よりちょっと痩せていて、弱々しい様子で、けど、僕を見て嬉しそうな顔をしたので……僕の罪悪感はますます強まりました。工作を渡して、お母さんがお茶とお菓子を持ってきてくれたことにお礼を言って、その後いたたまれない気持でじっと二人でただ向きあって……。
『結局、私への告白は嘘なの?本当なの?』と宇佐美さんは訊ねました。僕は逃げ出したいと思いながら、でも正直に言うしかないと思って、『嘘』と答えました。僕は宇佐美さんが怒りだしたり泣きだしたりするんじゃないかと思ったんですが、宇佐美さんは『そう』と笑っただけでした」
「それだけ?」
「それだけ、とは」
「宇佐美さんと話した内容」
「それだけ、です。お菓子を食べるように言われて、私の分も食べて、と宇佐美さんに言われて、罪滅ぼしみたいに無理矢理全部食べて、帰りました」
「……兼子くんは、宇佐美さんが家でお母さんに酷いこと言われているとか、自分のことをずっと好きだったとか、すごく弱ってるとか、そういうのを知って、すっかり同情しちゃったんだ」
私は言った。
宇佐美さんが元気がなかったのは、それで同情を誘おうとしたからじゃないのかな、と私は思った。
まあ、まったく弱ってなかったとは言わないけど。
「……自業自得だし、ざまあみろ、と杉田さんは思いますか?」
やけに悲しげな目をして、兼子くんは訊ねた。
ここで宇佐美さんを悪く言ったら、きっと悪者になるのは私だ。
でも、偽善者になるのも嫌だ。
「ざまあみろ、とまでは思わないけど……とりあえず宇佐美さんは、その時すごく傷ついたとは思うけど、反省とかはしてないよね。意地悪なのは今もちっとも変わってないし」
私は言った。
「そうですね。……そうでしたね。杉田さんが言っていた『可愛いけど意地悪な女子』は宇佐美さんのことだったんですしね」
「うん。でも……」
「でも?」
「あ、いや……」
それでどうして重谷さんとつきあわなかったの?と訊きそうになって、言い直す。
「兼子くんは、Sさんのことは本当に好きだったんだよね?」
「……はい」
「それでその後、Sさんとつきあったの?」
「いえ」
「つきあわなかったの?何で?」
「何となく、そんな気持にはもうなれなくて。……それから宇佐美さんは卒業まで、一度も学校に来ませんでした。クラスは何事もなかったみたいな雰囲気でした」
「Sさんは?Sさんは兼子くんに、何も言ってこなかったの?」
私はSさん‥…重谷さんについて、しつこく訊いた。
重谷さんは兼子くんに「告白は本気だった。けど、もう好きではなくなった」と告げられたと言っていた。
どういうつもりでそんな風に言ったのか。
それが知りたい。
兼子くんは下を向いた。
よっぽど気が重いのだろうか。ただひたすら、自分の手を見つめている。
「……僕は本当に、自分で、自分は酷い人間だと思うんです」
重々しく兼子くんは言った。
「そう?」
「はい。……宇佐美さんの家に行った次の日に、Sさんが僕に話しかけてきました。『宇佐美さん、どうしてた?元気だった?』って。僕は『あんまり元気じゃなさそうだった』と答えました。そうしたらSさんは、『ざまあみろって感じ』と、そう言ったんです」
「まあ、Sさんの立場だったら……いじめられてたわけだし……そう言うかもね」
そう言いながらも、私は自分の中に同族嫌悪の気持が湧き上がるのを感じていた。
馬鹿正直。
賢い女子ならば、たとえ内心そう思っていても、好きな男子の前でそんなこと言わないだろう。
でも、私は……もう少し言葉は選ぶかもしれないけれど、そういう本音を好きな人には言いたいし、自分のことを好きな人であるならそれを許してもらえるんじゃないかと思ってしまう。
Sさんが私と同じような考えの持ち主なのか、何も考えずに言ったのか、そこまではわからないけれど。
「そうなんです。Sさんがそんな風に思うのは、当然のことだと思うんです」
「うん」
「そう頭では、わかっていました。なのにその瞬間、急に僕の中で、それまであんなに強かったSさんを好きだという気持が、しゅう、と消えてしまったんです。僕はSさんのことが好きで、Sさんのことを考えるだけで楽しくて、Sさんを見たりSさんと話すのが本当に嬉しかったのに、突如、そんな風になったんです。自分でも、戸惑いました。正直なところ僕は、Sさんの性格をそんなによく知らなかったし、そんなこと言うなんて意外だ、と思ったわけでもなかったんです。ただ、反射的に、その言葉を聞いて『いやだ』と思って、そうしたら、Sさんを好きという気持がなくなって、Sさんのどこが好きだったのかが急にわからなくなりました。
……それで、そのまま会話の続きでSさんが、『兼子くんは本当は宇佐美さんが好きだったの?』と訊いたんです。僕はクラスの他の何人かから、Sさんには宇佐美さんへの告白の方が嘘だって伝えておいた、と聞いていたので、Sさんはそうじゃないことを知っているはずなのに、何でそんな風に訊いてくるのか、と……今思うとそれだって、別に会話の糸口として言っただけだと思うのに……それをわざわざ訊いてきたことに、なぜか妙に腹が立ちました。ともかく『ちがう。宇佐美さんが好きだったわけじゃない』と答えたら、『じゃあ私への告白は?』と訊いてきたので、僕は『それは嘘じゃない』と答えて……そうしたらSさんは、『じゃあ返事をしたいのだけど』と言いました。OKの返事をしようとしてるのだとわかったので、僕は慌てて言ったんです。『告白は嘘じゃなかったけど、もう今は好きじゃない』と。そしたらSさんはぱっとその場を離れました。教室の隅で他の子がなぐさめている声が聞こえてきて、彼女が泣いているのだとわかりました。今思うと本当に最低だと思います。でもその時の僕は、ただ混乱していました。自分のことだけでいっぱいいっぱいでした。どうして急にSさんのことが好きでなくなり、むしろ腹が立ったりしているのか、自分でもわけがわかりませんでした」
「今は……?」
私は訊ねた。「今はどうしてなのか分かるの?」
兼子くんは、私と目を合わせなかった。
「完全には、わかりません」
「うん」
「ただ、悪いのはSさんではなくて自分だということはわかっています」
「そう」
兼子くんはきっと思い込みが激しいのだろう、と私は思った。
よく知りもしないのに、相手を好きになり、夢中になる。
そうしてその相手に、自分の意に沿わない部分を見つけると、急に冷めてしまう。
性質が悪い。本当に、性質が悪い。
「兼子くんはイケメンだから、余計に性質が悪いね」
私は言った。
重谷さんと私は同類だ。
賢い女子なら決して言わないだろう感じ悪いことも、つい口に出して言ってしまったりする。
「じゃあSさんと同じで、私のことも……本当に好きで告白したけど、もう好きでなくなった、という、そういうことなんだね」
どの言葉が兼子くんに引っかかったのだろう。
それとも何か、行動とか。
私はそんなに優しくも正しくもない人間だし、空気を読まずに下手なことを言ってしまいがちだし、がさつだし。
NG要素はきっとごまんとあるだろう。
短時間しか一緒にいなかったのに、無自覚にそんな致命的なことをしていたなんて怖すぎるけど。
「私が何をしたのをいやだと思ったのか、教えてくれる?今後の人生の参考にするから」
私は訊ねた。
よほど言いにくいのか、兼子くんはうつむいたまま黙り込んでいる。
「教えてもくれないの?」
「……」
「ねえ」
「……」
「兼子くん?」
「……」
「兼子くん!」
あまりにも返事をしてくれないので、私は大声を出した。
すると兼子くんはハッとしたように顔を上げて、オバケでも見るような目で私を見た。
「えっあれっ杉田さん」
「『えっあれっ杉田さん』じゃないよ」
「すみません。考え過ぎて外側がおろそかに」
「なにそれ……」
言いながら、なぜか無性に悲しくなってきて、私は慌てて顔をそらした。




