第98話 錬金術師は振り返る
壁にもたれて空を仰ぐ。
千切れ雲がたまに浮かんで、ゆっくりと流れていた。
その様を廃屋の合間から覗き見る。
日光の差さない物陰だ。
埃とどこか湿った空気が気になる。
もっとも、それらには慣れつつあった。
今更、嫌がることはない。
半壊したその空き家で空を眺めていると、入口の扉が軋みながら開いた。
そこから現れたのは暗殺者テッドだ。
黒い外套に仮面。
その素顔を未だ見たことがない。
怪しさに満ち溢れているが、私にとっては唯一の同行者である。
「よう、買ってきたぜ」
テッドは私に向かって何かを投げ渡してくる。
私は片手で受け止めた。
それは紙に包まれた肉だった。
小麦の生地で挟んでタレをかけたものである。
濃厚な匂いが漂ってくる。
屋台でも人気の商品らしい。
通りで売っていたものをテッドが買って来てくれたのだ。
そんな彼の手には同じ肉焼きがあった。
テッドはさっそく仮面をずらして頬張り始める。
私はタレで口元を汚す彼に礼を告げる。
「すまないな」
「いいってことよ。まだ厳しいんだろ?」
テッドは肉焼きから視線をそらさずに言う。
私は無言で片手を伸ばす。
その先には、天井の穴から差す日光があった。
伸ばした指がそこに触れる。
ひりつくような痛みがあるも、無視できる程度だ。
私は腕を引く。
指先の皮膚は少し赤くなっていた。
私はテッドにそれを見せる。
「爛れるほどではない」
「へぇ。俺もいつか同じように苦しむのかね」
テッドは呟く。
彼の目は、たまに赤くなっていた。
衣服から覗く皮膚も青白さを増している。
肉焼きを食べる口内に注目すれば、牙も確認できるだろう。
私は彼に尋ねる。
「後悔はしているか」
「まさか。念願の不老不死だ。楽しませてもらうとするさ」
テッドは肉焼きを完食しながら答えた。
こちらへの気遣いではない。
本気でそう考えているのだろう。
彼は変貌に対して肯定的だった。
私より遥かに柔軟な考えを持っている。
その姿勢に尊敬しつつ、私は肉焼きを口に運ぶ。
「味は感じるようになったかい?」
「……多少だが分かる」
私は咀嚼しながら言う。
少し前までは味覚が機能していなかった。
何を飲み食いしても味が分からなかった状態が続いていた。
あのまま治らないのかと思いきや、だいぶ元通りになっている。
(もう半年か)
伯爵との死闘からそれだけの月日が経過した。
私はテッドと各地を旅していた。
吸血鬼の部位――すなわち私の肉体を移植した彼と共に、その経過観察を兼ねて放浪している。
あの時、私は伯爵の娘を殺さなかった。
伯爵も殺さず、妻の遺骨を置いて速やかに立ち去った。
葛藤はあった。
散々に悩んだし、己の行動を後悔することさえあった。
半年経った今は、あれで良かったのだと素直に思えている。
現在の心境は穏やかだ。
大部分が闇と化した身体も沈静化し、人間と大差ない外見となっている。
吸血衝動に襲われることもなく、かと言って怪物への変貌も進んでいなかった。
それでも怪力は健在で、再生能力は働いている。
夜目が利く上に闇の魔力を操ることができる。
復讐を終えた私は、なんとも中途半端な吸血鬼となっていた。




