雲居の空へ
「えい、えい、おおぉ!」
鎮幸の号令で勝どきをあげる兵たちを前にしても、統虎に笑顔はなかった。
彼は兵たちに二の丸の広場で一休みするよう命じると、鎮幸と惟信をともなって、城内を巡回するにした。
紹運を慕う領民や僧によって、ここで戦った兵たちは手あつく埋葬されたようだ。あちこちに黒い血の跡は残っているものの亡骸はない。
とびの声を聞きながら、統虎らは本丸の御殿に入った。
建物は焼けておらず、激戦前のまま。
幼い頃から慣れ親しんだ廊下、柱、そして襖……。
懐かしさと寂しさで胸が締め付けられる。
それでも心の中に小さな火が灯ったように温かいのは、家族で過ごした幸せな日々が、鮮やかに脳裏でよみがえっていたからだ。
いつのまにか御殿をぬけて高楼の櫓にいた。
最上階。
ここから見る景色が好きで、よく父に無理をいって連れてきてもらったものだ。
空の青、雲の白、山々の緑が見事に調和していて、とても美しい。
あの日見た景色と何ら変わらない。変わったことと言えば、城のあちこちから聞こえた人々の声がいっさい耳に届かないことくらいか。
統虎がしばらく窓の外に意識を向けていると、背後から惟信が驚いたような声をあげた。
「これは……」
何かお宝でも見つけたのだろうか。
統虎は軽い気持ちでゆっくりと振り返った。
すると目に飛び込んできたものに、彼は心を貫かれたのである――。
『かばねをば岩屋の苔に埋てぞ 雲居の空に名をとどむべき』
一首の歌が木の扉いっぱいに刻まれていたのだ。
「ああ……。ああ……」
ふらふらとした足取りで扉の前までやってきた統虎は、指で文字をなぞる。
父の字だ――。
「ああああああああ!!」
言葉にならない想いが叫び声となって口から出てくる。
涙が視界をふさぐ。しかし指先から感じる文字は、鮮明にまぶたの裏側で浮かんでいた。
千熊丸、泣くな――。
白い雲の向こう側から父の声がした。
今だけは勘弁しておくれ――。
統虎は心の中で返した。だが返事はかえってこなかった。
夏の終わりの太陽は思いのほか優しい。
彼の涙が乾くまで、柔らかな陽射しを彼の黒髪に注いでいたのだった。
◇◇
風雷の神をまといし戦神、立花統虎。
岩屋城奪還後も彼は大いに勇躍した。
筑前、筑後の城を次々と落とし、勢いのままに肥前、肥後も屈服させていく。
その途中で宝満山城の落城とともに捕虜となった統増、於徳、そして四人の妹を救出し、さらに岩屋城に戻る途中で捕らえられた谷川大膳も助けた。
島津軍は後退を余儀なくされ、ついに薩摩一国まで追い込まれたところで、豊臣秀吉に降伏を告げたのである。
秀吉は統虎の一騎当千の活躍を大いにほめたたえ、
――立花統虎こそ、西国一の無双よ!
と周囲に大名たちがいる前で告げたらしい。
かくして紹運の願い通りになったわけだ。
彼は築後柳河に城を与えられて、十三万石の大名に取り立てられる。
そして統増、於徳をはじめとする家族を城に招き入れ、幸せな日々を送ったのだった――。
しかし時が流れ、太閤秀吉がこの世を去ると、風雲急を告げた。
中央では後継者を巡る権力争いが熾烈を極め、ついに関ヶ原で大戦が勃発。
統虎は豊臣家の名代を自負する石田三成に味方するが、彼が関ヶ原の戦場に立つ前に、三成は敗れてしまう。
統虎は領地を奪われて、各地を放浪。
柳河に残った妻、誾千代は体を悪くし寝込む日々……。
統虎の命運が尽きようとしていたその時だった。
「にゃああん」
一匹の猫がどこからともなくこの世に現れた。
手足が異常に太く、ふてぶてしい面構え。決して可愛いとはいえぬ風貌の茶寅の雄猫は、とある屋敷に忍びこみ、いつの間にかそこの住人となる。
その屋敷の持ち主は統虎の親友、小早川秀包――。
『千寿』という名を与えられた不細工な猫が、燃えるような『志』を胸に秘めていようとは、屋敷で暮らす誰も知る由はなかったのである――。
(了)




