魔王を殺すことで、世界は平和になる(魔王を殺さなければ、世界は平和にならない)
エフィ・ヴァーミリオンの呼気が――乱れる。
質の悪い現実を前にして、夢の中に立っていた彼女はうつろう。
「なんで」
彼女の前に立つシキもまた、うつろっている。
「なんで……そこまで……そこまで……できる……?」
エフィは、気がつく。
ココに取り残されているのは、わたしと彼だけだ。どこにも定まらないのに、どこにも行くことができない。
震える、己の手を、見つめる。
勇者の手は、魔王の血で、真っ赤に染まっていた。自身の血で汚れているレイラやシエラとは異なる……誰かの血。
倒れ伏しているふたりを見つめ、エフィは瞬いた。
『自身の血をもって救える者もいれば、他者の血でしか救えない者もいる』
前髪で、顔を覆い隠した己がささやいている。
『わたしもシキさんも、きっと、殺すことでしか救えない』
目の前に立つ自身の影は、奇妙に捻じくれて、真っ黒な空洞になっていた。
『だから、己を――殺し続ける』
脂汗が、大量に、額を伝って首筋にこびりつく。
呼吸が喘鳴に変わりつつあって、滲んでいる視界が涙を呼び寄せ、怯える四肢が小刻みに痙攣する。
――こんなの、やっぱり、おかしいのよ……シキ、気づいてよ……ねぇ……貴方が犠牲になって、なにが救われるの……
「わ、わたしは……勇者だ……」
――知らねぇよ……
「勇者は……殺さなければ……救いの担い手でいなければ……魔王を殺さなければ、救いは得られない……シキをたすけなければ……」
――……約束、してくれないか?
「そう……そういう……」
――いつか、魔王を殺すと
「お約束をした……」
剣を、剣を、剣を、構える。
まともに訓練も受けていない、ド素人の剣が、殺意で象られている。幾重にも積み重ねられた研鑽よりも、より磨き込まれた長剣が打ち勝ち、より薄暗く濁った殺意がソレらを上回る。
戦闘において、必要なのは、相手を殺すという覚悟のみだ。
躊躇ったほうが死ぬ。
逡巡の先に待つのは、黄泉路のみである。
『傷つき、倒れた仲間の意思を汲もうとでも言うのか?』
エフィの殺意を気取った魔王は、驚愕から立ち返って、皮肉気な台詞を吐いてから両手を広げる。
『来るがいい、勇者』
悲しげに、彼は、微笑み――
「もういい加減、茶番も終わりにしよう」
爆、発。
足先に籠められた全力、踏み込んだ瞬間、凄まじい勢いが音として破裂する。姿勢を低くしたエフィは、喉元に滑り込ませるように刃を、複数回混ぜ込んだフェイントと共に突き上げる。
明滅。
虚空から誘われた黒閃が、エフィの一撃を弾き飛ばし、欠け落ちた金属片が吹き飛んで彼女の頬をえぐり落とす。
宙空、まわる、血の泡。
先鋭化した意識の狭間をくぐるようにして、エフィは、下段から剣閃を振り“下ろした”。自身の体幹を軸として一回転、虚を突かれたシキの死角目掛けて、質量と化した刃風を叩き落とす。
目、目、遭う。
エフィとシキ、数瞬、垣間見えた邂逅――視線が、弾ける。
「「……っ!!」」
斬、撃。
明朗と響き渡る金属音が、高らかに響き渡り、猛烈なまでの斬撃の嵐が降り注ぐ。
両腕を焦がす勢い、苛烈、苛烈、苛烈!!
幾百、幾千、幾万、降り注ぐは、剣乱の嵐。美しいまでに流麗な剣の筋が、凍てついた気を切り裂いて無常を奏でる。
腕の筋肉が千切れる音を聞きながら、エフィは同時に舌を動かし、現術書素で己を修復する。殺して殺して殺して殺して殺して、生かして生かして生かして生かして生かして、無限の生まれ変わりを自己言及する。
限界を超えた殺意の一撃一撃が、シキの周囲を護衛する飛翔剣を弾き飛ばし、徐々に削ってゆく。
殺す。
エフィは、嗤う。
殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すっ!!
わらうわらう。
殺意を純化させて、殺し切るっ!!
笑顔で、楽しく、わらわらう。
「……あぁ」
シキの顔に、歓喜が宿る。
「それで……それで……」
前進前進前進前進前進、進んで進んで進んで、閃光と化した剣を振り回しながら、笑っているエフィは彼を追い詰める。
一、二、三、飛翔剣が、徐々に砕け散って消え去る。
「それで……」
そして、ついに。
「それで……いい……」
剣閃が――魔王を――斬り落とした。
「…………」
「…………」
無/音。
世界が、静止する。
月が雲に隠れて、影と化したシキが、ゆらりとゆれる。
一筋、光が差して。
半面、輝いたシキが、赤色に染まりながら微笑む。
「……ありがとう」
そして、ゆっくりと、エフィの側へと倒れた。
剣が、からんと、音を立てて落ちる。
呆然と立ち尽くしていたエフィは、倒れかかってきたシキを肩で受け止め、ただただ目を見開いている。
既に、シキは、死んでいた。
冷たくなっている身体が、ずるりと崩れ落ちて、地面にモノとして横たわる。見事なまでの一閃は、肩口から胸を経由して、腹を引き裂いて股から飛び出ていた。ほぼほぼ真っ二つになった死骸が、虚ろな視線を、床に落っことしている。
「…………」
返り血で塗れたエフィは、己が血の海の中にいることを知る。
――……ひとりだけ、のこすようにしてる
かつて、最初の魔王が、彼女の村の住人をただの液体にした時のことを思い出す。真っ赤に色づいている、粘着質な、ワインレッドの水面が目に浮かび、あの時のような虚しさを得る。
「…………」
膝をつき、頭を垂れる。
垂れ落ちた長い髪の先端が、赤色の海に浸かっていた。どんどんどんどん垂れ流される、真っ赤な命を前にして、エフィは異様なまでの独善性を覚える。
――たぶん、わたしは、母や父を救えるとしても――こんなことは、到底できない
「ふ、ふふ……」
自身の言葉を思い出し、エフィは笑っていた。
「できたよ……」
エフィ・ヴァーミリオンは、欠け落ちた短剣の先を己に向ける。
「わたしには――」
そして、思い切り、己の左胸にねじ込む。
「殺すことしか……できない……」
倒、れる。
痛みはない。
ただ、どこまでも広がる、浮遊感だけがあった。
最初の魔王の、あの苦しみに満ちた両目が、仰向けに倒れた彼女を捉え続けている。あの目は殺してくれと訴え続けて、いつまでもいつまでも、かつての家族や友人たちの死体と一緒に視え続けていた。
最初の魔王が彼女の村を滅ぼしてから、視え続けていた光景。最早、見慣れていた景色。
二度と、消えることはないと思っていた。
だが、目を閉じる前、ハッキリと視えたのは。
――もう一度だ……構えろ……俺が負けるわけがない……
ボードゲームを遊んで、負け惜しみをしているシキと――楽しそうに、笑っている自分の姿だった。




