在りし日の風
バカな。
俺の頭は、疑問で埋め尽くされている。
有り得ない有り得ない有り得ない有り得ないっ!!
原型を留めていない両腕を抱えながら、身を横たわらせている少女を見つめる。
だが、そこに、特別なナニカを感じ取ることはできず、眼前で起きた奇跡の実証性も残ってはいない。
どういうことだ……なぜ、俺のお約束の誓約が発動していない……反動による傷は負うが、意思の力で抵抗できるとでも言うつもりか……なら、俺の父や母だって、抗えた筈だ……なのに、どうして……?
――あの子の……あの子の母親だ……あの子の母親なんだから……たったひとりの……たったひとりの母親なんだから……わたしが……わたしががんばらなきゃ……
怖気が、奔る。
薄暗い井戸の傍で、嘔吐していた母親を思い出す。
あの時、母は――己の命運を受け入れていたのではないか?
俺の母親としての義務を。
俺の母親としての不幸を。
俺の母親としての破滅を。
すべて、己の“意思”で受け入れていたのではないだろうか?
父だってそうだ。
あのごっこ遊びによって、父は己が勇者であることを受諾していた。歯向かうことなく、迎え入れていた。
――キミのことは、わたしが、絶対にしあわせにするから
あの女性だって。
――わたしは、キミだけの勇者だ
抗わなかった。
「救えた……のか……?」
勇者の血で汚れた手を、魔王は見下げる。
「す、救えた……のか……俺は……す、救えたのに……あ、抗わず、う、受け入れたから……だから、俺は……すべて、失ったのか……?」
――負けるな……負けんなよ、シキ……そんなお約束になんて負けないで……
「違う……違う違う違う違う違うっ!!」
叫ぶ。
心中を曝け出して、俺は叫ぶ。
「それを……それをぼくが認めたら……お母さんは……お母さんはどうなる!? お父さんはどうなるんだ!? あの女性のしたことを無為にするのかっ!? 違う!! 違うだろっ!!
俺は!! 俺はっ!!」
勝手に、ひくひくと頬が痙攣して、俺は笑っていた。
「間違ってなんか……ない……」
――誰が決めたんだよ、そんなお約束?
「邪魔しないでくれ……」
――意思をもて、シキ――奴隷になるな
「邪魔しないでくれ……ぼくは……俺は……」
――まけないでよ……
「絶対に救うんだ……貴女たちの意思を通じて……この子たちを……救ってみせる……間違いだったなんて言わせない……無駄になんてしない……俺の能力で……世界を救ってみせる……だから、黙っててくれっ!!」
目を閉じて。
深呼吸。
惑わされないようにと、己に言い聞かせる。
だいじょうぶ。まだ、俺のお約束は解けてはいない。場も状況も、俺が制御し統べている。持ち直せる。Ⅰ号だって、俺の理念に共感して、賛同し協力してくれているのだ。
だから、俺は――まだ、世界を救える。
『…………』
魔王は、目を開けた。
シエラ・トンプソンは、血まみれで横たわる友人を見つめる。
――さんにんで……救いましょう……きっと……きっと、できるから……私たちなら……きっと……きっと……
シエラは、恐怖を自覚する。
足が、震えている。
もう迷わないと決めた筈だったのに、身動ぎしない彼女を視て、意思が鈍っていくのを感じた。
「え、エフィ……」
だから、みっともなく震えた声で仲間に尋ねる。
「ど、どうすれば、いいでしょうか……?」
「大丈夫だ、安心しろ」
爽やかな笑顔で、エフィは振り返る。
「ふたりでなら、魔王を殺せる」
「違う。三人でなら、だ」
薄ぼんやりとした眼のシキが、微笑していた。
「で、でも、れ、レイラは……?」
「問題ない。生きている。ただ、今の彼女は、あまり冷静ではないようだ。すべての事が終わってから、治療を始めればいいさ」
「い、いや、でも……」
エフィに両肩を掴まれて、シエラはびくりと身じろぎする。
「シエラ、殺すしかないんだ。シキのためにも。コレが最善なんだ。大丈夫、わたしがトドメを刺す。ありとあらゆる罪も、わたしが背負う」
そっと、彼女は、シエラに耳打ちする。
「シキを殺した後……おめおめと生き延びるつもりもない……適当なタイミングで、自害するつもりだ……だから……」
一瞬。
ほんの一瞬。
彼女は、シエラの知っている、エフィ・ヴァーミリオンに戻った。
「だ、だからね、シエラは、そ、その、心配しなくても、だいじょぶ!」
思考が――墜落する。
全身が冷めていく。決められなかったシエラは、恐怖のぬるま湯に浸かって、言い訳がましく『仕方ない』をつぶやいている。
――今から、シキさんを連れ戻します
言った。
言ったでしょう、シエラ・トンプソン。
己の口舌で。己の言葉で。己の意思で。
言ったんでしょ、シエラ・トンプソン!?
「あ……あ……かぁ……」
視線が、レイラの肢体を捉えて離さない。
大きく肩口が裂けて、関節からはみ出ている白い骨、ピンク色の肉がてらてらと輝いている。うじゅりうじゅりと、リンパ腺液と血液が絡み合って、黄色と赤色の粘液が彼女を汚していた。
「うぁ……ぁ……ぁ……」
怖い、怖い、怖い!
歯向かったら、逆らったら、立ち向かったら! あんなにも、酷い目に遭わされる! し、シエラなんかが、あそこまで出来るわけもない! 途中で迷って、中途半端に、激痛だけを味わわされる!
「わ……わかり……ました……」
だから、シエラは、流された。
目の前の楽な方向へと、ゆったりと流されることを選ぶ。
「では、現術書素で補助してくれ。協力の姿勢を見せていれば、いずれ、お約束の力で魔王は討ち果たせる筈だ」
言うや否や、勇猛果敢なエフィは、魔王へと飛びかかっていく。
またしても、舞台上で、くだらない殺し合いが始まった。繰糸に操られている、哀れな勇者と魔王の、終劇へと向かっていくお芝居が。
シエラは、唯々諾々と、宙空に現術書素を書き込む。
『火炎よ、焼き尽くせ』の文字列に従って現実が書き換えられ、シキの体躯に火が点いて彼の顔が苦しげに歪んだ。
『なんという力だ……コレが、絆の力だとでも言うつもりか……!?』
腐り果てた、台詞回し。
「魔王、貴様は終わりだ!! 覚悟しろっ!!」
くだらない、物言い。
『舐めるなよ、勇者! 我は、まだ、本気を出してはいない!!』
「なんだと!? ぐあぁっ!!」
バカげてる、口上。
「シエラ!! 援護をっ!!」
陳腐で、くだらなくて、バカげている。
「……シエラ?」
こんなことで、友を失うのか。
『フハハ! どうした、勇者よ!! 怖気づいたのかっ!!』
こんなことで、恩を失うのか。
『「どうした、勇者?」』
こんなことで――己を失うのか!?
在りし日の。
在りし日の、昔日が視えた。
在りし日の、昔日が視えて、窓が開いていた。
『シエラさん』
窓を開け放ったお嬢様は、こちらを優しい目で見つめて。
そっと――手を差し伸べる。
『飛んで』
踏み――込む。
両足の指が弾け飛んで、靴の中で使い物にならなくなる。バランスを崩しながらも、足の裏で、そして意思で、全身を奮い立たせて進む。
「よせっ!! シエ――」
エフィ・ヴァーミリオンを押しのけて、更に前へ。
太ももに亀裂が入って、おびただしい量の血液が噴き出る。一気に血液を失ったせいで、強烈な目眩を感じ、目の前の景色がくるくると回転する。
――シエラさん、貴女がいつか、このせまいせまい鳥籠の中から抜け出せたら。その時は、とても単純に。立ち止まったりしたらダメですよ
止まるな。
シエラは、涙を流しながら、己に言い聞かせる。
止まるな止まるな止まるな止まるな止まるなっ!!
「やめろ、Ⅱ号!! いい加減、理解してくれっ!! 世界を救うには!! コレしかないんだ!! Ⅲ号やお前がなにをしようとも、なにかが変わったりなんてしない!! お前は、お前の意思で、自分の身長や顔貌、生まれ持つ才能を決められたのかっ!? 違うだろう!?
最初から、そういう風に、この世のすべては、お約束されてるんだよっ!! だから、止まれっ!! 物事は、そんなに簡単なんかじゃないっ!!」
――誰がなにを意見しようとも、世界中の人たちが立ち止まれと言っても、そんな簡単なことじゃないと宣っても
お嬢様は、笑っていた。
――貴女が思うように、生きてください
だから、進む。
幾ら痛くても、自分の足が外側に捻じくれていっても、死の恐怖で歯の根が合わなくなっても。
シエラ・トンプソンは進み続ける。
進み続け――大木が折れたかのような音が響き、シエラは地に伏せる。
両足のアキレス腱が切れたのだと知った時、口端から血泡がぶくぶくと漏れ出て、聞いたこともない雑音が耳朶を叩いた。
それが、自分の悲鳴だと気づいた時、シエラは泣きじゃくりながら蹲る。
「Ⅰ号!!
治療して……や……な、なんで……」
シエラは、悲鳴を噛み潰しながら、両手で床を掴んだ。
「なんで……そこ……まで……?」
貴方が、笑っていたから。
シエラは、爪が剥がれ落ちるのも気にせず、必死に床を掴んで進む。
――おいおい、そんなに走ったら転ぶぞ
貴方が、笑わなくなったから。
――か、帰ったら、ボードゲームをやりましょう。あの、その、学園の寮で、三人で夜中にこっそりプレイしてて
まだ、約束だって、果たしてないから。
「こんなお約束……あって……たまるか……」
――そんなお約束……知らないわ……
「お前は!! お前は、勇者だろう!? なら、為すべきことをしろっ!!」
――ねぇ、シエラさん。貴女は、勇者として選ばれたのなら、いずれは世界を救わなければいけないって、何度も何度も繰り返し、そう言っていたけれど
「勇者が魔王のために、命を懸けるなよ……っ!」
――でもね、物事は単純に
シキの足元に辿り着いたシエラは、辛そうな顔で跪いた彼の頬を撫でる。
そして、言った。
「お、お約束なんて……」
――言ってやればいいのよ
「お……お約束、なんて……」
あの日、感じた風が、開け放たれた窓から入ってくる。
「お約束なんて……」
あの日、風が気持ちいいと言ったお嬢様の気持ちが、シエラには理解できなかった。無味乾燥で腐り落ちた日々、いつも感じている、鬱陶しい風のようにしか思えなかった。
だが、今は。
「知らねぇよ……」
その風が、とても――心地よかった。




