何事も程度を超えれば、狂気と呼ばれる
豪――迅――飛ぶ。
跳ね上がったエフィ・ヴァーミリオンの体躯が、凄まじい勢いで、魔王の喉元へと喰らいつく。強靭な両足によるバネの力、落ち窪んだ床のへこみが、その強烈さを示していた。
『……遅い』
が、止まる。
エフィ・ヴァーミリオンの周囲の空気が、いや時間が、淀んだかのように白く濁って、両手足の動きが緩慢・遅延・停滞……空気を裂いた一迅が、ゆっくりと、シキの構えた指先に到達する。
『脆弱な武器だな、人間』
長剣が砕け散る、瞬間、エフィの手は既に腰元へ。瞬きひとつせずに、短剣を振り抜いた。
コンマ秒の反射、ただ殺意のみで反応。
逡巡を切り捨てた抜刀、しかし、魔王と相まみえることはない。どう足掻いたところで、“音”の速さには敵わない。
つぶやいただけで、跡形もなく消え去ったシキは、悠然と玉座に腰を下ろして勇者たちを見つめていた。
『希釈された殺意だな、勇者よ。その程度の濁された意思では、我が命を奪うに値しない。
全員で来い』
「エフィ!! とちるな!! 急に特攻したところで、魔王には届かな――っ!?」
エフィ・ヴァーミリオンは、両指を両耳に突っ込む。たらりと、血が流れ落ちて、自身の鼓膜を己で破いたと証明してみせる。
彼女の異常性に、レイラ・オブシヴィアンは絶句して……笑っている、エフィの横顔を呆然と眺める。
「……バカが」
哀しそうに、シキがつぶやいた。
と同時、腰の脇で短剣を構えたエフィが、愚直に一直線、刺突を犯す。
立ち上がったシキは、その鋭い突きを、ものの見事に腹で受け止めて――エフィは、驚愕で顔を歪める。
「言ったろ」
何度、挿し込もうとしても、まともに動かない剣先。焦りで汗をにじませたエフィに、彼は哀憐をささやく。
「俺の『お約束の誓約』は、言説と行動と状況によって成り立つ」
音を立てて、エフィは短剣を取り落した。
無表情で彼女を観察していたシキは、そっと破れた衣服の穴に手をねじ込み、ボードゲームの駒を取り出す。
その小さな駒が、奇跡じみた正確さで、剣先を押し留めていた。
「本当に……本当にくだらないな……どこまでも、人を小馬鹿にする……俺の……俺の腐った人生は、いつも、そうやって流れてきた……ただ、俺は、たった数人……たった数人を幸せにする……そんな普通の善い人になりたかったのに……」
そう、それは――お約束。
彼が誰とも交わした覚えのない、呪いじみたお約束だった。
「…………」
暗鬱とした、陰りの視える目線。
勇者三人を捉えた魔王は、なにもかもを諦めきったかのように、気だるげに発声を行った。
「俺を救いに来てくれたんだろ?」
「し、シキさん、し、シエラたちはっ!!」
「俺を殺しに来てくれたんだろ?」
口端を曲げて、シキは、エフィの肩にぽんっと手を置く。
「まぁ、座れよ。今夜は、月も綺麗だ。まるで、計算し尽くされたみたいに、満月が続いてるしな。
月でも視ながら、俺の殺し方を検討しよう」
優しく、シキは、エフィの両耳を撫でる。
『綺麗な耳だな』
赤黒く染まったシキの両手、対照的に、彼女の両耳は美しく修復されていた。
片足を立てて、玉座に座り込んだシキは、三人を再び見遣る。ただ、勇者たちは、物言えずに立ち竦む。
「まず、耳を潰すのは無駄だ。さっきも言ったが、俺の『お約束の誓約』は、言説と行動と状況によって成り立つ。言説を封じたところで、行動と状況で発動するからな」
「し、シキ……わ、私……私たち……!」
「だから、魔王を殺すには、言説も行動も状況も――整ってなければいけない。完璧に、世界を平和にするんだ。
わかるな?」
絶句したレイラは、力なく項垂れる。
「Ⅰ号、お前の特攻は悪くなかった。ありがとう。先陣を切って、ふたりの迷いを晴らそうとしたんだろ?」
「…………」
「Ⅱ号、Ⅲ号」
呼ばれたふたりは、びくりと身じろぎする。
「余計なことは考えるな。徹しろ。もうとっくに、盤面は動き出してる。盤面遊戯を始めたなら、最後まで、己の役割を全うしてくれ。
Ⅰ号」
エフィは、俯いたまま微動だにしない。
「俺とお前のシナリオに齟齬がある。そのせいで、お約束が発動せずに殺せないんだ。
修正しよう。だいじょうぶ、俺たちなら、きっと魔王を殺して世界を救えるさ」
本当に嬉しそうな笑顔で、シキは笑っていた。
自分の犠牲すらも笑い飛ばせる、過去の傷跡によって生涯残る欠陥……救世主妄想に支配されて。
「いいか、俺の考えたシナリオはこうだ。月を落として世界を滅ぼそうとする魔王、それを止めようとする勇者たち。悪しき魔王は、ふたりの少女を洗脳し第二、第三の魔王としていたが、彼女たちは愛と勇気によって魔王の支配から解き放たれる。
そして、追い詰められた勇者たちの前に颯爽と参上し、“みんな”で魔王を打倒し殺して世界を救うんだ」
満面の笑みで、子供のようにシキは語る。
「平和になった世界には、もう、魔王が現れたりしない。誰も、不幸になったりしないんだ。みんな、幸せになるんだよ。最高の終わり方だ。だろ?」
「……シキ、さん」
「ぼくの、夢だったんだ」
無邪気に笑みを浮かべて、シキは言った。
「勇者の力になるのが、ぼくの、夢だったんだよ」
そして、立ち上がり、月光を浴びた彼は手を差し伸べる。
「さぁ! みんなで、力を合わせて!」
彼は、笑う。
「世界を救おう!」
何事も程度を超えれば、狂気と呼ばれる。
「みんなで!!」
善意も、また――例外ではない。




