深窓のお嬢様は、自由を夢見ている
月が――堕ちる。
闇に閉ざされた世界で、か細い悲鳴が上がるかのように風が吹いた。
夜空を覆い尽くした白天。表面の隕石孔が両目に映る。白の破滅を前にした人々は、嘆きを謡い、悲劇を担い、終末を儚んだ。
門戸を閉ざした街、全身を外套で包んだ影がみっつ。
「……月が、墜ちてくる」
勇者Ⅱ号――シエラ・トンプソンは、隠しきれなかった憂慮を表に出して、フードの隙間から空を見上げた。
「ねぇ、月がこんなにも近づいてきて大丈夫なの?」
勇者Ⅲ号――レイラ・オブシヴィアンは、不安を押し隠せずに月を見遣る。
「…………」
たったひとり、勇者Ⅰ号――エフィ・ヴァーミリオンだけは、しっかりと前を見据えて進み続けていた。
「エフィ」
シエラが肩に手をかけて、ようやく彼女が振り返る。
「あの、コレもシキさんの仕業だと思いますか?
つまり、その――」
「お約束だろうね」
常に剣柄に手をやっているエフィは、戦闘状態に陥っているようだった。
シエラは知っている。
戦闘は、恐怖に結びつく。
人は恐怖を感じた時、生存確率を高めるため、四肢に流れ込む血液とアドレナリンを増大させ、筋肉の乳酸を燃やし始める。呼吸数と心拍数が増し、コルチゾールを増やして負傷に備える。
つまるところ、人は目の前の驚異に立ち向かう時に“切り替わる”のだ。
中には、擬似的な人格を切り替えて、精神的な苦痛から己を逃避させる者もいる。
エフィ・ヴァーミリオンは、『王子様』とふたりに揶揄される人格をもっていた。解離性同一性障害(所謂、多重人格)とは異なり、彼女は意図的に口調と態度を変えることで、気弱な己を遠ざけて剣を振るうことができる。
それは、彼女なりの強さと弱さだった。
「実際に、月がこの星に近づいてきたら様々な影響が出る。だが、今のところ起きているのは、人々が怯えて門戸を閉ざすくらいのものだ。こんなにも都合よく、まるで演出効果みたいに月が接近することは現実に有り得ない」
いつもは前髪で顔を隠して、もごもごと喋る彼女は、堂々たる立ち振舞いで現状を鼻で笑ってみせた。
シエラは、そんな彼女を見る度に嫌な気分になる。
本来のエフィ・ヴァーミリオンは、気弱で心優しくて慈しみ溢れる女の子だ。年端もいかない男の子にからかわれて、涙目になっているところを視たことがある。手芸をするのが趣味なので、いつも、黙々と真剣な顔つきでぬいぐるみを編んでいた。
――あ、えっと、あ、あの、その、エフィ・ヴァーミリオン、です……
初対面時のエフィは、突風が吹いたら吹き飛ばされてしまいそうで。顔を真っ赤にして、本当に恥ずかしそうに目を伏せていた。
――わたしが、魔王を殺します
あの言葉は、どちらが言ったのだろうか?
村娘なのか、勇者なのか。
そして、今ココにいる、彼女自身もまた。
下女なのか、勇者なのか。
『シエラさん、物事はとても単純に』
かつて、勤めていたお屋敷のお嬢様は、真っ白な部屋の中で言っていた。
『人はね、考えながら進めないんですよ。あれもこれも難しく考えていたら、一歩たりとも動けなくなってしまう。そうして直ぐに、おじいさん、おばあさんになって『あぁ、あの時、ああしていれば』って、今際の際にも立ち止まっちゃうんです』
お嬢様は、美しい少女だった。
シエラのようにバカでもないし、自信がないわけでもないし、何事に対してもやる気がないわけでもない。
毅然としていて、それでいて儚げで。
なにもかもを抱いて、生まれてきたかのような女性だった。
『チック・タック、チック・タック』
両手の人差し指を振りながら、ベッドの上のお嬢様は笑う。
『シエラさん、貴女がいつか、このせまいせまい鳥籠の中から抜け出せたら。その時は、とても単純に。立ち止まったりしたらダメですよ。
誰がなにを意見しようとも、世界中の人たちが立ち止まれと言っても、そんな簡単なことじゃないと宣っても――』
いつも、いつでも。
彼女の笑顔は、輝いていた。
『貴女が思うように、生きてください』
そして、シエラは勇者としての神託を受けた。
もちろん、シエラは、お嬢様の傍から離れるつもりはなかった。両親を亡くしてさまよい歩いていたシエラを救ったのは、心優しい彼女の慈しみだったのだから。
勇者としての責務を果たすのは、自分がお嬢様にとって要らなくなった時――そう思った頃合い、見計らったかのように最期が訪れる。
最期の晩。
口から大量の血液を吐き戻したお嬢様は、喘鳴を漏らしながら、青白い肌の手先を伸ばした。
『シエラ……さん……』
医師が首を振り、お嬢様のご両親は泣いていた。
ただ、シエラは、震える彼女の手を握り『シエラに……シエラに……できることはありませんか……?』と問うた。
『飛んで……ください……』
笑いながら、彼女は言った。
『……飛ぶ?』
『はい、そうですよ……この広い世界を……てっぺんからみおろして……わたしの見れなかった景色を……みてください……ごめんなさい……こんなせまい部屋にしばりつけて……あなたの自由をうばってしまった……』
なにを、なにを言うのですか。
シエラの言葉に、苦しげに顔を歪めた彼女が首を振る。
『ねぇ、シエラさん……物語に出てくる……病弱なお嬢様は……最期には……自由を求めて、嘆きながら死んでいくんですよ……うふふ、まるで、わたしみたい……』
『…………』
『でもね……でもね、わたし……』
輝く笑顔で、彼女は言った。
『そんなお約束……知らないわ……だって、わたし、しあわせだったもの……お父様とお母様に愛されて……貴女のような素晴らしい友人がいてくれて……このあたたかな幸福の中で死んでいけるんだもの……』
何も言えず、シエラはうつむいた。
そんな彼女に顔を上げさせるかのように、ぽつぽつと、雨粒のような言葉がひびく。
『ねぇ、シエラさん……貴女は、勇者として選ばれたのなら、いずれは世界を救わなければいけないって……何度も何度も繰り返し、そう言っていたけれど……でもね、物事は単純に……』
儚げで優しかったお嬢様は、血を吐き散らしながら立ち上がり――驚愕で下がったシエラの前で、窓を開け放つ。
『お約束なんて知らねぇよって、言ってやればいいのよ』
純白の寝間着が、見る見る間に真っ赤に染まっていく。
そんなことは意図も介さず、寝たきりだった筈の彼女は、いつもよりも元気になったかのように笑ってみせた。
『シエラさん……飛んで……きっと、飛んでみせてね……あなたが、あなた自身をもって、あなただけのために……その綺麗な翼で……飛んでみせてね……』
そよ風になびいた、金色の長い髪の毛が、生き物のように流れた。闇夜に映える幻想的な光景に言葉を失い、シエラは虚を衝かれたかのように立ち尽くす。
『あぁ……』
魂が抜けるかのように、彼女の全身からささやきが漏れて――目が閉じる。
『風が……気持ちいい……』
そして、お嬢様は亡くなった。
シエラの心中には、彼女の言葉が残り続けていたが、結局、勇者としての期待を背負って旅立つことに決めた。
エフィ・ヴァーミリオン、レイラ・オブシヴィアンというふたりの勇者と出会い、凶悪な魔王である第一の魔王の打倒を目指した。そこに自分の意思が介在していたかと言えば、正直言って自信がない。
――あんたは、ただの下女でっ!! 私はなんの変哲もない子供でっ!! エフィはそこらの村娘じゃない!!
シエラは、思う。
シエラは……わたしは……コレで……コレでいいのだろうか……勇者として魔王を殺し、世界が平和な終わりを迎えて……それで……本当に……
――お約束なんて知らねぇよって、言ってやればいいのよ
お嬢様、シエラは、どうすれば――
「シエラ!」
肩を揺さぶられて、現実に引き戻される。
こちらを覗き込んでいるレイラが、心配そうに表情を引きつらせていた。
「大丈夫? 休憩する?」
微笑んで、かぶりを振る。
「いえ、先を急ぎましょう。
月の落下は、たぶん、シキさんが設定した“時間制限”です。世界が滅びるまであと数時間なんて、よくあるお約束を設定し、世界を人質にしてシエラたちを呼び寄せるつもりだと思います」
「……やっぱり、シキの狙いは」
「手の込んだ自殺」
話に割って入ってきたエフィが、シエラの代わりに言った。
「こちらとしては、非常に助かるシチュエーションだ。死にたがりの魔王なんて、鍋に飛び込んでいった味付け済みの豚みたいなものだからね」
「……エフィ」
「シエラ」
感情を宿していない瞳で、エフィはささやく。
「君は、帰ってもいいんだ」
「……シエラは」
「――がい」
聞き知らぬ声音――振り向きざま、全員が、武器を突きつける。
その顔つきを確認したエフィは、驚きで目を見開いた。
「君は……」
フードを取り払った彼女は、震えながら、かすれた声で訴える。
「おねがい……シキを……シキを……」
祈るかのように、その両手は組まれていて。
「たすけて……」
第三の魔王は、音もなく涙を流していた。




