NPC
一日に一度だけ、だった。
一日に一度だけ、盤面にある駒が動いている。
一日に一度だけ、シキはその駒を進めた。
たぶん、あれは、一種の会話と抱擁。母親が死んでから、自称勇者に向き合えなくなったシキは、彼女と対面してボードゲームをプレイするつもりになんてなれなかったから。
だから、それは、秘密めいた暗号で。
お互いに知らないフリをして、粛々と、ふたりでゲームをしていた。
――NPC
ある日、ボードゲームの盤上に残されていた紙切れには、たった三文字で構成された謎の言葉が残されていた。
「……NPC」
そう、そこに、プレイヤーはいない。
まるで、幽霊を相手取るかのようにして、その駒の進め方から、双方は微弱な感情を通い合わせていた。小指の先にくくりつけられた紐を、気づかれないように、そっと引っ張るようなか弱き交信。
対戦では、いつも、シキは有利にゲームを進めていた。
――あ、あの、えっと、その、シキさんって、ボードゲーム……すごく弱くないですか……?
だから、勇者Ⅰ号、エフィ・ヴァーミリオンにそう指摘された際、シキは己が弱いなんて思いもしなかった。打ち筋からしても、自称勇者が弱かったからだ、とも言い切れはしなかった。
だから、きっと、彼女は気づいたのだ。
「あぁ、そうか……シキを直せないなら……」
そして、きっと。
「――せばいいんだ」
彼女は、道徳的に誤った。
一つのものが同時に善であったり、悪であったり、そのいずれでもなかったりすることがある。
結果的に、シキの元に残ったのは、ゲームの途中で放棄された盤と駒だけだった。救済に囚われた彼女にとっての最善によって、シキはたったひとつの救いを同時に失った。
微弱な感情は失われ、一本の紐は切り取られた。
残るのは、たったひとつ。
――キミのことは、わたしが、絶対にしあわせにするから
たったひとつの、“お約束”だった。
『人類を滅ぼす』
俺の口から発せられた言葉に、第二の魔王と第三の魔王は、無表情で応える。
お約束は、既に発動している。
俺は、もう、この世界を救うと決めた。お母さんを救えなかった俺にとって、残された唯一の道はそこにしかない。大魔王が最期の魔王と決まっている以上、勇者による討伐によって、この世界は予定調和を迎える。
もし、俺が勝てば、この世界は闇に包まれるだろう。ココまでお膳立てしておいて、勇者と魔王は仲良く暮らしました、なんて心温まる物語が語られるとも思えない。
だからこそ俺は、世界を滅ぼし損ねて、失意を叫びながら息絶える。最期の敵は、必ず、倒されなければならない。
そういう、お約束だ。
「魔王様」
機嫌を損ねないようにか、第二の魔王は、特定の感情を籠めずに離した。
「失礼ながら、準備不足ではありませんか? 我々、三魔王だけで事を為すには、あまりにも世界が広す――」
「意見を求めたか?」
「……え?」
王座に腰掛けている俺は、虚空を見つめたままつぶやく。
「俺は、お前に、意見を求めたか?」
「……いいえ」
『よもや、逆らおうなどと思っているのではないだろうな?』
お約束が発動されると、第二の魔王は顔を歪めながら膝をつき、屈するかのように顔を伏せる。
「ね、ねぇ……シキ……?」
「シキ?」
首を傾げて、俺は第三の魔王を睨めつける。
『今、俺のことをなんて呼んだ?』
「ま、魔王……様……」
『それでいい。王は二も三も必要ない。お前らは、ただの二番目と三番目だ。これからは、魔王を名乗ることを許さん』
「えっ!? そ、そんな!? そんなことしたら、わたしたちはっ!?」
『お前の母親』
俺は、ニコリと微笑みかける。
『いつまで、元気でいられるだろうな……おっと、すまない。脱線してしまった。
では、返事を聞かせてくれ』
「しょ、承知……いたしました……」
屈服した三番目が膝をついて、哀憐の眼差しを向けてくる。未だにそんな目をする彼女が、どことなく『はじまりの村』の住人を思わせて、どうしようもない悲しみを抱えさせられる。
俺は、満足して――二番目と目線が合った。
「ボクと第三の魔王ちゃんを救うんですか?」
顔を上げた二番目が、微笑を浮かべる。
「流れに沿ってお約束を発動し、ボクと第三の魔王ちゃんを普通の人間に戻すつもりですよね? そうすれば、貴方が死んだ後、ボクらは罪に問われることはない。
第一の魔王のやってきた罪ごと、なにもかも抱え込んで、自分以外を丸ごと救おうって言うんですか?」
「…………」
「自分ですべての不幸を背負って、死のうとしてるんですよね? それって、つまり、自尊心の低さからくる救世主妄想ですよね?」
「…………」
「自己犠牲で世界を救うんですか?」
「…………」
「自分が死んでも、悲しむ人なんていないって思ってるでしょ?」
「……黙れ」
「あの女の子たちは、絶対に泣きますよ。貴方のことを尊敬していて、大切に思ってるんだから。きっと、わんわん泣いて、死ぬまで忘れられなくなる」
「……黙れ」
「誰かが泣いていても、世界を救うんですか」
「黙れ」
「あの女の子たちを、救うために、人前に出てきたんじゃないんですか? 本当の貴方は、勇者として在りたいんじゃないんですか?」
「黙れ!」
「貴方の願いは、本当に、こんな世界を救うことですか! 誰かを泣かしてでも、救う価値が、この世界にあるんですか!? 貴方を常に裏切ってきたこの世界に!! 法則性に負けたまま!! このままで!! こんな世界のままで、貴方だけがしあわせになれない世界でっ!!
本当に、良いと思っているんで――」
『黙れッ!!』
勢いよく、二番目の口が閉じる。
心臓が脳みそにくっついてるみたいで、鼓動が、脳天からつま先まで駆け走る。世界が小刻みに暗転し、溶岩みたいにとろけた熱さが全身を巡回し、荒げた呼吸音が嘔吐感を引き寄せてくる。
黙れ黙るな黙れ黙るな黙れ黙るな黙れ黙るな黙れ黙るな黙れ黙るな黙れ黙るな黙れッ!!
なにを、そんなに、俺は、興奮してる。
――お母さんのことは、僕が、絶対にしあわせにするから!
しあわせに、なってたまるか。
――そんなの……そんなの望んでない……
しあわせに、なってたまるか。
――勇者の力になりたい
しあわせに、なんて!!
――キミのことは、わたしが、絶対にしあわせにするから
なって!! なって、たまるかっ!!
「……月を」
俺は、上を指す。
魔王城に空いた大穴。そこは、無垢なる虚栄。
天蓋の空大。大天の空虚。虚空の宙天。
世界を覆い尽くしているのは、天球に空いた太虚――今宵、一の天に浮かぶは、円い月。
真っ直ぐに、満月を指差しながら、提示してみせる。
「月を落として――」
ぎこちなく、俺は笑ってみせた。
「世界を滅ぼす」
さぁ、世界を救おうか。




