キミだけの
「…………」
三度目の自殺は、椅子の足が折れて失敗に終わった。
「…………」
無様に床に転がったシキは、首元に巻き付いたロープを気だるげに外して、青空の広がる野原に出る。
果てのない蒼穹。
夢幻とも思える蒼色の下、干された真っ白なベッドシーツ。涼風は翠緑の絨毯を揺らして、宙空に緑葉が散らばっていく。
はためく純白に隠れる、カゲがひとつ。
「シキ」
白色の幕がめくれ上がって――自称勇者は、風になびく髪の毛を押さえつけながら笑った。
「上手く死ねたかな?」
「……今日、死ぬには、あまりにも天気が良すぎた」
ため息を吐いて、シキは空を見上げる。
「お約束のせいで、まだ、俺は死ねないらしい。あんたの言うところの『その能力は、きっといつか、=で結ばれる』ってヤツだ」
「運命、ね」
「きっと、いつか、俺は酷い死に方をする」
笑って、シキは言った。
「そんな日が、今は、待ち遠しくてたまらないんだ」
「……そ」
この奇妙な共同生活が始まってから一ヶ月。
未だに『勇者』を自称している彼女は、復讐という名の悪魔に魅入られたままでいる。薬中で無作法で汚らしいを地でいけば、人々がもつシキの父に対する好感を、多少なりとも下げることができると思ったらしい。
――あなたがっ!! あなたがっ、勇者なわけないでしょぉ!!
だが、大半の人は、信じなかった。特にシキの母は。
「ねぇ、シキ」
母を思わせるような優しい声音で、隣に立っている人はささやいた。
「誰かひとりでも、わたしのこと、勇者だって思い込んだ人はいるのかな?」
いるわけがない、とは言えなかった。
それは、彼女のしたことを無為にする言の葉。シキが口にしてしまえば、きっと、事実に関わらず真実へと裏返るだろう。
だが、慰めもまた――同義である。
「…………」
だから、シキは、なにも言わなかった。
自分の能力のせいで、愛する人を奪われた挙げ句、苦悩と苦痛を注入され、最も視たくなかったであろう“死”を提示された。
そんな女性に、かける言葉を、シキは知るはずもなかった。
「……想うの」
空を仰いだ彼女は、言った。
「シキが、なんの能力ももたない、普通の子だったらって。そうしたら、きっと、シキは死にたくなんてなくなるよね」
「…………」
「せめて」
デタラメに刻まれた『Not A Save』の下、びっしりと羅列されている報いを彼女は見つめる。
「せめて……わたしは……ひとりくらい……せめて……ひとりくらい……救いたい……最愛の人すら救えなかったわたしは……せめて……せめて……この生命を懸けてでも……ひとりくらい……」
シキに向き直った女性は、腰の後ろで手を組み、満面の笑顔で言った。
「せめて、シキくらいは救ってあげたい」
「……無理だよ」
「オレ様は、勇者様だぜ?」
小柄なシキの頭に手を置き、微笑を浮かべた彼女はつぶやく。
「小さなオマエだけが尊敬してくれた……あの体たらくのオレ様の言葉を信じたのは……オマエだけだ……落ちぶれて死にかけて薬中になったわたしを……救い上げてくれたのは……キミの浮かべた真摯な眼差しだったんだよ……」
屈んだ勇者と、小さな少年は見つめ合う。
「なぁ、シキ、約束しよう」
彼女は、細い小指を差し出す。
「キミのことは、わたしが、絶対にしあわせにするから」
――お母さんのことは、僕が、絶対にしあわせにするから!
かつて、幼い自分が発した、子供じみた約束。母と絡めたちっちゃな小指、そして、果たせなかったお約束。
思い出して――目を見開く。
「シキ」
立ち尽くしたシキの小指に、彼女の小指が絡んだ。
『お約束』
ただ、それだけ。
ただ、それだけだった。
ただ、それだけだったのに。
シキは、それだけで、救われたような気がした。
目の前の女性に、優しかった母の面影が重なって、幼き日の誓いが胸をよぎり、鮮烈に描き出される。
「わたしは、たったひとり。たったひとりの、世界だけを救う勇者だ。
だから――しあわせになっていいんだよ」
音もなく泣きながら、彼女は微笑んだ。
「世界の笑顔のためだけに、剣を振るうから。だから」
震えて、歪んで、ひしゃいで、彼女は悲痛を想う。
「もう、うばわないで……これ以上、この子から、なにもうばわないでよ神様……あんたの勝手なお約束で……この子のしあわせをうばわないでよ……おねがいだから……おねがいだから……もう……笑わせてあげてよ……」
咄嗟に――シキは、彼女を抱き締める。
小さな身体で、思い切り、抱き締めて。彼女のことをこの世界から守るようにして、ありったけの能力で抱き込んだ。
「ふ、ふたりで……ふたりで生きよう……ぼくたち……家族になるんだ……ぼくが……ぼくがまもるよ……いまは、いびつなのかもしれないけど……きっと……きっと、いつか、笑えるよ……ぼくたち……きっと……いつか……」
「……うん」
顔を上げた彼女は、笑っていた。
「きっと、笑えるよ」
そして、彼女は、シキの前から消えた。
置き手紙とボードゲームが、机の上に残されていた。
そのボードゲームは途中で中断されていて、気まぐれで自称勇者とプレイした一回きりの勝負の最中だった。
次の手番は、自称勇者。
ボードゲームの駒がひとつだけ欠けていて、彼女がその駒を持っていったことがわかった。それが意味するところは、彼女が必ずココに戻ってきて、ゲームを再開するという『お約束』のつもりなのだろう。
「…………」
その手紙には、急に姿を消してしまったことに対する謝罪、絶対にキミを救うという誓い、そのために各地を回って、お約束を消し去る方法を模索するため、様々な実験を行うつもりだと書かれていた。
涙の跡が残された手紙を握り締め、シキはただ膝をつく。
「……なんで」
最後の一行には――
「なんで、一緒に、いてくれないんだよ……」
『大きくなったキミに会える日を楽しみにしているよ』、とだけあった。
シキは、泣きながら手紙を抱えて、目の前の壁を見上げる。
そこには――しあわせになったシキが描かれていた。
かつての勇者を縛っていた薬草を塗りつけ、描かれていたのは、この世界でたった一枚。たった一枚だけ存在する、やさしい物語。
そのお約束の物語には、しあわせそうに笑顔を浮かべるシキと、手をつなぎ、満面の笑みを浮かべる自称勇者がいた。
『わすれないで』
絵の上には、子供じみた字で、本当の“文字灯”が描かれる。
『わたしは、キミだけの勇者だ』
壁に刺さった釘から下がっている文字灯、己の切なる願いを書き込んだ紙灯籠、母と勇者に挟まれて、笑いながら作成した『しあわせ』の結晶。
勇者の願いの横には、手をつなぐようにして――シキの願いが描かれていた。
『勇者の力になりたい』
「うぁ……ぁ、ぁあ……!」
思わず、崩れ落ちて――
「ぁあ……ぁあああああああああああああ……っ!」
慟哭を上げながら、シキは予感していた。
もう、彼女には逢えないと。
――お約束
あの優しくて哀しそうな笑顔は、なにもかもを捨て去るつもりでいたから。
だから。
だから、シキには、わかってしまった。
「ぁああ!! ぁあああああああああっ!! ぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
たったひとりの勇者は、きっと、世界を救って――すべてを壊す。
その数年後。
シキが、お約束を用いて勇者を救うために、どこかで彼女がしあわせに暮らしていると思い込んだ時。彼の背丈が伸びて、猫背と半目が上手くなり、過去をなるたけ思い出さなくなった頃合い。
三人の勇者と、彼は出会った。
彼女らは言う。
――人をさらって実験材料にしている魔王を、わたしたちは倒さなければいけないんです
お約束によって彼女らの未来を視たシキは、“善い人”であるために同行し、ほぼノーダメージで魔王討伐を成し遂げる。
そう。
そう、これは。
そう、これは、最初から――そういう、物語だった。
わたしは、彼を救いたかった。
名前が――思い出せない。
顔も――忘れてしまった。
声も形もどんな趣味をしていたのかも――亡失の海に沈んでいる。
あれ?
なんで、こんなことしてるんだっけ?
どうして、こんなにも、ひどいことを? たしか? だれかのために?
――お約束
そうだ、お約束。
お約束していた。
あの子と。
あの子だけは、たすけなければいけない。
約束したんだ。
そう、お約束。
たいせつなひと、たいせつなこと、たいせつな――なんだっけ?
あれ? この駒はなに? いつの間にもってたんだっけ? だれかにもらった? よくわかんない。
でも――とても、しあわせなかんじ。
この駒をみるだけで、なんだか、しあわせだ。
あぁ、うん、きっとこの駒の持ち主。この駒をもっている子を、わたしは、救いたかったんだ。
たったひとり。
たったひとりだけの。
たったひとりだけの、たいせつなあのこを。
なんだか、そとがわが、さわがしい。
いつもは、じどうで、しんにゅうしゃを、ころすようにしてるから。あまり、いしきが、そとに、うかぶことは、ないんだよね。
『――ったか!?』
なんだろう、この、とてもなつかしいこえは?
『――ったか!?』
なんだか、とても、あたたかい。
『――ったか!?』
しあわせな、かんじが、する。
『やったか!?』
あれ? あれれ? あれれれれ?
この声。
この声は。
この声と、あの能力は。
『し、しかも……無傷……だと……?』
あぁ、そうだ……そうだ……なんで……なんで、わすれてたんだろう……あの子のこと……わたしを、信じてくれた、たったひとりの……たったひとりの救いたかったあの子のことを……なんで……なんで、忘れてたんだろう……
『魔王様!! 勇者たちは、想像以上に強い!! ココは、一旦、退い――バカな!? 疾い!!』
いつの間にか、魔王と呼ばれるようになったわたしを……あの子は、今でも、勇者だと呼んでくれるだろうか……あぁ……やっと逢えた……長かった……外側と内側は時間の感覚が違うから……数千年ぶりくらいなのかな……あぁ、もう、だいじょうぶだよ……笑えるから……一緒に笑えるから……わたしが……わたしが……キミを……キミだけを……救ってみせるから……
そして、わたしは、数千年ぶりに外側に出て――彼を見つめる。
数千年を経ての邂逅。
昔のわたしによく似た、半目と猫背。
まるで、生き写しみたいで――嬉しかった。
「……大きく」
万感の思いを籠めて、わたしはささやく。
「……大きくなったね」
刃が、迫る。
あぁ、なんだ、もうしあわせはおしまいか。
でも、だいじょうぶ。
シキ、もう、だいじょうぶだよ。
ぜったいに、ぜったいに、ぜったいに、だいじょうぶなんだから。
いまなら、わかる。
わかるんだ。
わかっちゃうんだから。
きっとね、いまのシキなら、しあわせになれる。
うしろにいる、そのおんなのこたちを、たすけようとしたんだよね。
すごいよ。
まるで、ゆうしゃさまみたい。
そんなことが。
そんなことができる、シキなら。
きっと。
きっとさ。
しあわせになれるよ。
みえるんだ。
わたし、がんばったから、みえるんだよ。
しあわせになったシキが。
みえるんだよ。うそじゃない。
だから。
だからさ。
だからさ、そのために。
さいごに。
さいごに、これだけは。
シキのしあわせのために、これだけはいわないと。
「だが、忘れるな、例え儂を倒そうとも第二、第三の魔王が――」
シキ。
わすれないで。
わたしは。
わたしはね。
わた…し……は……
キミだけの……勇者だから……
なにもかもが、とけおちて、あぁ、ふぇり……きらわれていたわたしをすくってくれた……わたしだけのゆうしゃさま……わたし……あなたみたいになりたかった……だから……さいごには……すくわなかったんじゃなくて……
すくえた……よ……




