数日の愛情は、昔日の友情に勝る
長い長い静寂の後。
月は雲に隠れて、灯りひとつなく、真っ暗闇の中で。
「……闇の魔法って知ってるか?」
自称勇者の声が、響いた。
「たまにいるんだ……現術書素に書き込んだ内容に関わらず……禍々しい魔法が発動するヤツが……恐らく、この世界との対話の齟齬で起こるバグみたいなもんなんだろうが……まさしく、わたしは、それだった……」
「…………」
「闇の魔法を使えるヤツは……酷い差別を受ける……なにせ、魔王になるって言い伝えられてるからな……村ぐるみ街ぐるみ国ぐるみでいじめるんだよ……ひでぇもんだった……まともに幸せだった日は一日もなかった……」
もし、闇の魔法が、己の意思とは関係なく発動するモノを言うのであれば……シキのお約束と誓約もまた当てはまるであろう。
「そんな時、フェリだけが笑いかけてくれた」
暗闇の只中、ぽわっと、温かな光が漏れた。
指先を弾いた勇者の手元がゆらりと光り輝き、幻想的な光源と化して世界を彩る。彼女の美しい横顔が、幸福に染まっていた。
「人間不信に陥ってて、人を拒絶していたわたしに優しくしてくれた。殴られて蹴られて罵倒された後、いつも、腫れ上がった顔を拭いてくれた。わたしのために泣いてくれて、傍にいてくれて、怒ってくれた」
己の辿った人生を吐き出すようにして、彼女は愛をささやく。
「好きだった……大好きだった……愛してたんだ……」
願って、祈って、捧げて――すべてが失せる。
後悔なんて微塵もない、ただひとりに、己の生涯を捧げきった者の表情だった。
「でも、フェリは女の子で、わたしも女の子だった。
この世界のお約束だ。この世界では、女性同士では、結ばれたりしない。少なくとも、表立って祝福されない。その上、わたしは、闇魔法を用いる魔王候補だ。フェリと結ばれでもしたら、あの子がどんな危害を加えられるかわからない。
だから――ずっと、隣にいることだけを願った」
両手を組んだ彼女は、ろうそくを模した己の指で、敬虔な祈りを投じる。
「何度も。何度も。何度も何度も何度も。あの子の隣にいられることだけを願った。フェリしかいなかった。わたしにとってはすべてで、あの子がわたしに笑いかける度、生きている幸福を実感できた」
息を荒げながら、彼女は言葉を発する。
「でも、奪われた。奪われたんだ。急に。突然。唐突に。村に勇者を名乗る男が現れた。そう、オマエの顔だ。オマエみたいな面をしたヤツが、まるで“お約束”したみたいにして、村に現れて『魔王を倒すため、世界中に散らばった四つの宝玉を集めている』と言った。バカげた現実味のないことを、現実のような言外さで言ったんだ」
「……俺の父親?」
「そうだっ!!」
掴みかかられて、歪んだ顔がぐいっと近づく。生暖かい呼気をかけられながら、狂気じみた勢いでぎょろつく目玉を見つめる。
「わたしの前で、オマエの父親は!! まるで!! まるで、最初から、そう決まってるみたいに!! フェリと仲良くなっていった!! 徐々に!! 徐々に!! 私のところに!! フェリが来なくなった!! 殴られた後のわたしの血を拭ってくれる、優しくて繊細な手は!! あの男の頬を、愛おしそうに撫でるようになった!! わたしは!! 待っていたのに!! いつもいつもいつもっ!! 待っていて!! あの子がっ!! ひ、必要だったのにっ!!」
凄まじい勢いで顔を鷲掴みにされて、猛烈な力で顔面を揺さぶられる。狂気と憤怒に支配された彼女は、正気を失うことで自我を保とうとしていたようで、ゆっくりと我に戻っていって「……ごめんなさい」と謝った。
「……勇者は、フェリに一緒に来て欲しいと言った」
「…………」
「わたしは、彼女に『あの男は、最低だ。他の女を誑かしていた。かくいうわたしも、あの男に迫られた』と嘘を吹き込んだ。必死だった。あの男を嫌ってさえくれれば、まだ、勝ち目があると思った。
でも、あの子は、綺麗な微笑みを浮かべて――『なんで、嘘をつくの?』って言った」
体育座りした自称勇者は、ぼんやりと宙空を眺める。
「そして、次の日、フェリはわたしに『勇者様と一緒に行くね。だって、あの人には、私が必要だから』と告げた」
苦笑した彼女は、そっとつぶやく。
「十年もの間、一緒に育んできたと思っていた“友情”は……数日間の“愛情”に簡単に打ち負かされた……わたしにそう言ったあの子は……今までのわたしとの思い出を全部、あの男との思い出で上書きしたみたいだった……並んで食べたパンの味も……木漏れ日の中で、一緒に横たわった温かさも……たまに後ろから脅かしてくるあの子に、仕返しをしたあの時も……ぜんぶ……ぜんぶぜんぶぜんぶ……消え去ったみたいだった……」
なにもかもが容易に想像できて、シキはなにも言えずに口をつぐむ。
「諦めればよかったのに……わたしは、勇者とフェリの旅に無理矢理同行した……シキ、オマエの父親は、とんでもない善人だったよ……自分に妻と息子がいることは忘れていて、己の勇者としての使命しか頭になかったが……ヒロインとの旅につきまとうおじゃま虫を……笑顔で受け入れたよあの男は……」
あぁ、そうだ。お父さんは、そういう人だ。
「旅の間、わたしは、まるで、自分が透明になったみたいに感じた。なにもかもが透き通っていて、わたしを通り抜けていき、己が存在しているとは思えなかった。
そう思えるくらいに、オマエの父親とフェリは愛し合っていた」
笑いながら、勇者は涙を垂れ流す。
「いつも、いつも、いつも、オマエの父親とフェリは、暇さえあれば、口づけを交わし合っていた。なぜか、ふたりの部屋は一緒なのに、わたしだけは別の部屋だった。中でなにをしているのかは、はじめて聞くフェリの声で丸わかりだった」
「…………」
「それでも、わたしは、フェリさえ幸せになればいいと思っていた。
だからわたしは、勇者との旅路で、フェリ以外を救わなかった」
自称勇者の腕に刻まれた『救わなかった』の題名、そして、その下に刻み込まれた救わなかった人々の名前。どれだけの人間を見捨てて、どれだけの罪を背負い、どれだけの苦しみを味わったかを示していた。
「フェリを付け狙っていた男連中を、勇者に気づかれないように殺した。あの男は、絶対に人を殺さなかったからだ。でも、アイツらは、フェリの身体を目当てにしていて、いつ襲いかかるかもわからなかった。
だから、喉に刃を突き立てて、泣きながら命乞いをするヤツが血泡を吹きながら、母親の名前を呼ぶまで刺し続けた」
もういい、と、シキは言いたかった。
もういい。
それなのに、自称勇者は、悲劇を話し続ける。
「殺した感触が……手から抜けなかった……いつまでも、残り続けるんだ……酷いもんだ……いつも、枕元に、殺した連中が立ってる……耐えられなかった……薬草で治療した時だけ、ヤツらが消えるのがわかってから……どんどん、摂取量が増えた……でも、辛くなかったんだ……全部、フェリのためだと思ったから……」
そして、彼女は、笑い始める。なにがおかしいのか、さめざめと涙を流しながら、地獄の底から天国を羨むみたいな声を上げた。
「でも、フェリは、死んだ!! 最後に、魔王との決戦の時に!! まるで、そう定められたみたいに!! 勇者の盾になって死に!! その死を契機に!! 急激に力を増した勇者が、魔王と相打ちになって!! 世界を救ったんだっ!!」
「……お約束」
つぶやいた彼に、微笑を浮かべる彼女はささやく。
「そうだ……そうだよ、シキ……今だからこそわかる……アレは、オマエの力と同じだ……この世界は、お約束に支配されている……フェリはヒロインAにしか過ぎなくて……勇者をかばって死ぬためだけに……生まれてきたんだ……」
顔を覆って蹲った彼女は、まるで小さな子供みたいだった。顔さえ隠せば、誰にも見つからないって思い込む、哀れでバカげた子供みたいだった。
「だから……わたしは……」
彼女は、顔を上げて――噛み切った唇から、赤色の哀憐を流す。
「オマエにだけは……あんなお約束には負けて欲しくないんだ……たのむ……たのむよ、シキ……オマエだけは……オマエだけは……」
彼女の涙の中に、シキは立っていた。
「まけないでよ……」
目の前に立ち尽くす哀憐は、無色透明の禍殃に閉じ込められていた。




