フィーニスの村は、かの有名な勇者の出身地であることから『はじまりの村』とも呼ばれていた
母が死んでから、一年が経った。
「…………」
シキの背は、少し伸びた。それから、猫背と半目になった。
彼は、自分のことを『村人A』と自称し、他人のことを記号で呼ぶようになった。村長も門番も隣の家の住人も、一律して『村人○』である。
たぶん、この世界に勇者が三人いたら勇者Ⅰ号、Ⅱ号、Ⅲ号なんて呼び分けて、魔王が三人もいれば第一の魔王、第二の魔王、第三の魔王なんて呼称しただろう。
それが、シキなりの線引き。
自身を中心とした拒絶の円線を描くことで、シキは、己の能力から他者を守っているつもりだった。
「…………」
陰鬱な表情を浮かべる彼は、口調から態度まで、他人を寄せ付けないようになって様変わりした。
「シ~キ~!」
だが、それ以上に変わったのは――
「ぎゅ~っ! 勇者様のお帰りだぞ~! 寂しかった~?」
「……離せ」
自称勇者だった。
急に背後から抱きついてきた彼女は、ニコニコとしながら、ショートカットにした髪の毛を手櫛で整える。以前のバケモノみたいに長かった髪の毛は、まるで、メアリを模倣したかのような短い髪型に変じていた。
その上で、母の形見でもある白いワンピースを着込み、最初からそうであったかのように女言葉を使ってシキを甘やかす。
そう、あたかも、母親の代わりをするみたいに。
「んも~、なんだよ~、わたし、せ~っかく、早足駆け足忍び足で、スタコラサッサと帰ってきたのに~、なんでそんな淡白な態度とるかなぁ~、悲しいなぁ~、わたし、悲しいなぁ~!」
「いいから、離れろ」
本気で煙たがってることが伝わったのか、勇者はパッと離れる。
「今日の夕飯は、シキの好きなシチューだぞ? うれし? うれし?」
「……いい加減、母親面するのはやめろ」
「なに言ってんの、こんなちっこいのに!」
頭を撫でられて、渾身の力を籠め、手を払いのける。
「俺に構うなっ!!」
「やだね~、べ~!!」
こういうところは、以前のままだ……と思いつつも、シキは、盤面に視線を戻して駒を手にとる。
「なぁに? どしたの? なぁにそれぇ?」
後ろから抱きつかれて、薬の匂いの代わりに香水の香りが漂ってくる。メアリが死んでからこの一年で、薬を抜くために己を縛り上げて、地獄のような苦しみに耐えた成果が如実に表れていた。
「…………」
「ね~? なにそれ~? ね~? ね~、シキく~ん? お~い? なにそれ~? ね~、ね~、ね~?」
「…………」
「ね~ね~ね~ね~ね~ったら~? なにそれなにそれなにそれなにそれ~? ねぇねぇねぇねぇねぇ~? ね~?」
「…………」
丘の上。
涼風に髪の毛を遊ばせたまま、シキは、深い集中の海に潜っていく。マス目に区切られた盤面を視ていると、母の死に際の涙を思い出さずに済んで、ぐるぐると渦巻く吐き気も遠のいた。
シキにとって、この盤面遊戯は特別だった。悲痛を打ち消してくれる、唯一つの手段として、彼の心を救ってくれたのだ。
だから、シキは、暇さえあれば、ひとりでボードゲームをプレイす――顔面が、やわらかいモノに埋まる。
「…………」
視界が暗い。息が吸えない代わり、とても良い匂いがする。こんなにもやわらかいモノは、この世界に存在していただろうか?
「…………っ!」
思い当たって、シキは、全力で後ろに後ずさる。
「んっふっふっふっ!」
シキの顔面に胸を押し当てていた勇者は、邪悪な笑みを浮かべて、顔を真っ赤にしている彼を見つめていた。
「やだ~! シキくんったら、えっちなんだから~! わたしにまで発情しちゃって、隙あらば、若き雄を解き放とうとしちゃうんだから~!」
「お、お、お前が押し付けたんだっ! ぼ、ぼくは、べつになにもしてないっ!!」
「はてさて、この美しき魔性たるわたしと、いつも不貞腐れた面してる陰険なガキンチョ……みなさんは、どっちの主張を信じるでしょう?」
「ふ、ふざけんなっ! ひ、ひきょうも――」
――ゆうしゃさま……みたい……
緩んでいた頬が凍りつき、まぶたを下ろして、世界を半分閉ざした。
「知るか。好きに言いふらせよ」
「…………そ」
哀しげに、勇者は微笑み――満面の笑顔で駆け出した。
「うちのシキが、おっぱい大好きだってー!! うちのシキがーっ!! うちのシキが、みなさんのおっぱい大好きですってー!! 逃げてくださぁーいっ!! うちの淫獣が!! みなさんの豊かな胸部を狙ってまぁーすっ!!」
大声を張り上げながらの全力疾走、既に興味を失っていたシキは、盤面上の勝利経路の計算に立ち戻る。
そこに、影が差した。
「喪に服すなよ」
煙草を咥えた彼女は、ただの煙を吐き出して、シキの隣に腰掛ける。
薬草によるものではない、アレよりは健常な白い煙。ソレを吐き出している間、彼女は、昔みたいな言葉遣いと態度に戻る。
「なぁ、シキ。死者への手向けなんてものは、まるっきり、なんの価値もない生者の自己満足だぜ?」
あぐらをかいた彼女を無視し、シキは駒を前に進める。
「生者は死者のために在り、死者は生者のために在る。
生きとし生けるものは死ぬために在って、死にとし死ねるものは生きるためだけに存るんだ。ソイツは、ただの自然の摂理。法則性であり普遍性。所謂、逃れられないお約束。
上等な葬儀や哀情で飾り付けても、世界は変わりはしないし、そこに付与される意味合いなんてものは存在しねぇのさ」
「…………」
「メアリさんの死は、オマエのせいじゃな――」
盤面を、思い切り、弾き飛ばす。
盛大な音を立ててひっくり帰った盤面から駒が吹き飛んで、そこら中に散らばっていく。
感情を上手く制御できず、フッフッフッなんて、犬みたいな呼気が口から漏れる。ぴくぴくとこめかみが痙攣して、頭にカーッと血が上っていき、ぶっ倒れてしまいそうな怒りに任せ、目の前の女に拳を叩きつけてやりたかった。
「お約束みたいな慰めで!! お母さんを語るなよっ!! そんなもので!! ぼくに寄り添ってくるなっ!!」
「……言ったろ」
苦笑して、勇者は煙を吐く。
「価値なんてねぇって」
憤怒に支配され、目の前の女の胸ぐらを掴む。
ワンピースの襟元が伸び上がって、母の形見がダメになると思いつつも、無表情の勇者に怒気をぶちまけずにはいられなかった。
「お、おまえ……お、おま、おまえは……な、なにが、なにが、いいた、い……お、おか、おかあさんを……ぼ、ぼくのおかあさんをばかに……す……る……な……?」
つーっと、彼女の目の端から、涙がこぼれ落ちる。
あまりにも綺麗に、現実味がないくらい、美しい涙の粒が流れ落ちていった。
一時、怒りすら忘れて、その流涙に見惚れる。
「オマエの……オマエの母親の死を……綺麗に飾るなよ……ただ、静かに、眠らせてやれ……その死に意味なんて見出すな……そこで、立ち止まるなよ……オマエが進まなかったら……あの女性は、なんのために生きてきたんだ……」
胸ぐらを掴み返されて地面に倒され、シキは苦渋で染まった泣き顔を見つめる。
「シキ、答えろっ!! あの女性は、なんのために生きてきた!? なんのためにっ!? 誰のために生きてきたんだっ!?」
シキは、己の下唇を噛み切って、言葉を封じようとした。でもダメで、どうしようもなく、辛い真実を吐き出さざるを得なかった。
「ぼくの……ぼくの……ためだ……」
「だったらっ!! だったら……!!」
ぽたぽたと、温かい雨が、シキの顔を濡らす。
「進めよ……!」
耐えきれず、顔を覆って、シキは泣き始める。みっともない声を上げながら、年相応の泣き方で、むずがる子供みたいに泣き続けた。
ようやく発作がおさまった時、ずっと手を握ってくれていた勇者は、残った片手で煙草を吸いながら夕焼け空を見上げていた。
「……シキ」
橙色に染まった彼女は、そっとつぶやく。
「オマエが……進めるようになったら……言わないといけないって……別れ際、メアリと約束したことがある……聞いて……くれるか……?」
仰向けに倒れ伏したまま、オレンジ色の光を浴びたシキは、来たるべき闇に備えるみたいに首をこくりと振った。
「この村出身の勇者は――」
その真実は――
「オマエの父親だ」
あまりにも、暗すぎた。




