村人A「」
幼いシキの記憶では、いつも、母親が嘔吐していた。
「わたしが……わたしががんばらなきゃ……あの子を守らなきゃ……あの子の……あの子の母親だ……あの子の母親なんだから……たったひとりの……たったひとりの母親なんだから……わたしが……わたしががんばらなきゃ……」
夫を失くしたばかりの母は、いつも、気丈に振る舞っているように視えた。
男手を失った彼女は、子どもをひとり抱えたままで、十二分に食べていけるだけの貯蓄をもっていなかった。だから、シキの記憶の中の彼女は、いつも食事をするフリをして、井戸の水で腹を異様なくらいに膨らませていた。
「お母さん、おなかいっぱいだから」
そう言って、シキにだけは、普通の食事を摂らせる。
そんなメアリの慈愛がお約束だと思っていたシキは、なんの罪悪感もなく、ばくばくとご飯を食べてすくすくと育った。そんな彼の様子を、本当に幸せそうに、彼女は見つめていた。
「シキ、お母さん、お仕事に行ってくるからね」
母は、いつも、朝早くから仕事に出かける。
仕事に出かける時だけ、彼女の母から貰い受けたと云う美しい仕事着を着込んで、めいっぱいにめかしこんで出かけていく。
そして、深夜に帰ってくる。
朝方まで嘔吐音が響いてきて、朝日が昇る頃には朝食が準備されており、また仕事へと出かけていく。
「がんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃがんばらなきゃ」
夜更け、ふと目を覚ましたシキは、虚ろな瞳で語りかける母親を見つける。
果てのない井戸の深淵、真っ暗闇の水面、映り込む自身の顔……彼女は、一心不乱に、嘔吐の合間につぶやき続けていた。
その頃合いから、村の女性の間で『淫売』とか『娼婦』という忌み名がささやかれるようになったが――ふとした瞬間に、それらの地獄は終わりとなった。
この村出身の勇者が、魔王を討伐したのだ。
玄関の戸口、村長からその便りを聞いた母は、その場にへたれ込み――
「そんなの……そんなの望んでない……」
事切れた人形みたいにして、かくりと首を曲げた彼女は、静かに涙を流しながらささやく。
「そんなの……そんなの……わたしは……望んでない……だれも……だれも……そんなの……そんなの……望んで……なかったのに……わたしは……ただ……普通の……普通の幸せが……」
歓喜に沸き立つ村の中で、母だけが泣き続けていた。
いつまでも、いつまでも。
その幸福を、嘆き続けていた。
明くる日から、母は仕事に出向かなくなり、ふたり向かい合わせで美味しい食事をとれるようになった。もう吐くようなこともなくなって、井戸の水面に『がんばらなきゃ』とつぶやくこともなくなった。
ただ――
「シキは、普通の善い人になってね」
病的に母は、シキにそう言い聞かせるようになった。
「ただ、普通の善い人に。お父さんみたいな、ただの善い人になってね」
この日から、シキは、勇者役をやらなくなった。
彼は、ただの――村人Aになろうと思った。
そう、思っておけばよかったのに。
「光明の案内人ってなんだよ?」
パンをもぐもぐと食べながら、あぐらをかいている勇者が言った。
七色の光を帯びて、宙空を浮遊する紙灯籠に囲まれながら、シキは母と勇者の間に挟まれてもぐもぐと白パンを咀嚼する。木苺の挟まったパンは甘味と酸味が絶妙で、程よい甘味には清涼感があった。
「この村を訪れるお客様たちを出迎える案内人のことですよ! この村一番の美女が選ばれる、とても名誉な役割なの! 今では勇者の魂を導く、あの世とこの世の渡し守という役柄だけれど、わたしが子供の頃は、祝祭を司る天使様のことだったんだから!
小さな頃からずーっと憧れていて、彼からはよく『お前がなれるわけない』なんてからかわれたりしたけど! ついに夢が叶った!」
途中から敬語が抜けたメアリは、心底幸せそうな顔でシキのことを抱き締め、キスの雨を降らせる。
抱き締められながら身をよじるシキは、唐突に動きを止めた母を見上げる。
「……彼にも」
ぼそりと、母は、哀憐を漏らした。
「彼にも……視てもらいたかったな……あの人にも……」
そして、シキの顔を見つめて微笑する。
「本当にシキは、あの人、そっくり……昔のまんま……お父さんは視られないけど、代わりにシキに視てもらおっかな……」
『うん! お母さんの光明の案内人、ずーっと視てるよ!』
「いいおへんじー!! ぎゅーっ!!」
「オレ様もぎゅっ――」
抱きつこうとした勇者は、メアリに片手で首を締められる。
別の意味で「ぎゅーっ!!」されている勇者は、もがき苦しみながらも、歪んだ愛を感じているようだった。
『でも、おじさんも美人だよね! もしかしたら、おじさんも、光明の案内人に選ばれるかもしれないよ!』
そんな風にじゃれついている中、申し訳無さそうな顔をした村長がやって来る。勇者は、なにかを察したかのように目を細めた。
「メアリ、すまん……実は、光明の案内人の件なんじゃが……他の者にやってもらうことになった……」
「……え?」
笑っていたメアリの顔が、すっと哀しげに彩られて――勇者が立ち上がっていた。
「その先のセリフを予言してやるぜ、学名、『ハゲアタマ』。
『実は、そちらにおられる、美しい女性にお願いしたいと思っておってな』だろ? オレ様を元手に商売しようだなんてお断りだ。それに魅了で誰かを惚れさせるのは、もう二度としないと誓ってるんでね」
「あ……ぼく……」
お約束を発動していることに気づき、シキは謝ろうとする。だが、その口を封じ込めるようにして勇者は頭を撫でた。
「お祭り、楽しめよ。ただ、羽目を外しすぎるな。発言と行動、状況にはよくよく気をつけるんだぞ」
「あなた……」
瞠目しているメアリに、勇者はウィンクを飛ばす。
「オレ様が世界で二番目に貴女を愛してるように、貴女もオレ様のことを世界で二番目に愛して欲しいね」
「……ごめんなさい」
メアリは、はじめて、親愛の籠もった表情を勇者に向ける。
「わたしが、世界で一番愛してるのは夫と息子で――この世界には、二番目なんていないの」
「……いいね」
微笑んで、彼女は歩き始める。
「ねぇ!」
後ろ手を振って立ち去ろうとする勇者の背に、メアリは声をかけた。
「戻ってきたら、ちゃんとお話しましょう! あなたがなにを望んでいて! これから先、シキをどう守っていくのか! 一緒に!」
振り向いた勇者の顔には、驚愕が描かれていて、そんな道は考えたことがなかったかのように目を瞬かせる。
そして――笑った。
「お約束どおりなら、オレ様はもう戻ってこれねぇな」
ゆっくりと立ち去っていく彼女は、つぶやきをそっと残していく。
「……帰ってこれたら、全部、シキに話すよ」
勇者の姿が見えなくなって――祝祭が、はじまる。




