都合よく目を覚まさない登場人物
「シキ、駄目」
「え~、なんでぇ~?」
別室に用意されていた、木製のたらい風呂。
自称勇者と一緒に入ろうとしていたシキは、母に止められて文句を言い連ねる。
「あんなのと一緒に入ったら、病気を移されるでしょう?
それに――」
「奥サァン!! お背中、お流ししてぇ!!」
メアリは、笑顔のままで聞こえないふりをする。
「そう言えば、お母さん、熱はもう大丈夫なの?」
「うん、ぜーんぜん、へっちゃら!」
むんと唸って、冗談っぽく、シキの母は力こぶを作る。
「わざわざ、裏山にまで、薬草を取りに行ってくれて嬉しかったんだからぁ! やっぱり、うちのシキがナンバーワン可愛い!
ぎゅ~っ!」
「い、いたいよぉ……で、でも、薬草ってお母さんのぶんだけでよかったのかな?」
「ん~? なんでぇ~?」
「村長さんも、よく、薬草を取りに裏山にまで出かけるって言ってたから」
「あぁ、アレは、お母さんとは別件。村長さん、ちょっと、精神的に参ってたから。
薬草は、精神的な苦痛を和らげるのにも使われるのよ。依存性が高いから、あんまり、頻繁に使用したりするのはダメだけどね」
「へぇ、そうなん――」
「奥サァン!! オレ様の背中が、さっきから、奥サァンのことを呼んでますよぉ!?」
ため息を吐いて、シキの母はささやく。
「シキ、よく聞いてね? あの男にシキのことを一任するつもりはないの。例え正しくなかったとしても、お母さんは、シキさえ幸せでいればそれでいいの。間違っていたとしても、お母さん、何度だってこの道を選んでみせるから」
抱き締められて、あやされるかのように背を撫でられる。何度も何度も、存在をその場に刻み込むみたいにして。
「だからね、シキ……もし、なにがあったとしても……お母さんは、シキのことが大好きだからね……」
「うん」
母は「いいお返事」と笑顔になった。
「だーいじょうぶ! 善い行いは神様もわたしも視てる! だから、シキは、立派な善人になりなさい!」
「善い人になったら、お母さんは嬉しい?」
「とっても嬉しい……お父さんと同じ善人になってくれたら……わたしは、それだけで……」
「風呂終わったぁ~!! 全裸で登場してもいいかなぁ~!?」
「ちょっと!! まだ、シキがいるんだからっ!!」
慌てて駆けていった母の背中を見つめながら、シキは呪いに近いその言葉を、繰り返し刻み込んでいく。
――だーいじょうぶ! 善い行いは神様もわたしも視てる! だから、シキは、立派な善人になりなさい!
いずれ、世界を破壊する大魔王たる少年は、この時から救世主妄想を抱いていた。
その日の深夜……こんこんと、窓を叩かれる。
一緒の寝具に入っている母は、シキのことを抱き込んで幸せそうに眠りこけており、まるで“お約束”みたいに起きる気配はなかった。時折、シキの父の名前を呼んでは、なにを勘違いしているのか唇を寄せてくる。
頬をよだれでべとべとにされたシキは、そっと夜具から抜け出して外に出て――円い月を見上げた。
今宵は、月が満ちている。
月光に照らされた村には、淡い蒼色の光路ができあがっていた。
異様なまでの静けさ、シキは、己が見知らぬ場所に来てしまったかのように思う。冷たい夜風が末端にまで染み渡り、丘の上を上がっていく度、まるく融け堕ちたかのような月が青白さを増す。
白。
鮮烈なまでの白。
月よりも白く蒼く、輝いている女性が立っていた。
腰元まで伸ばした長髪に純白のワンピース、素足で立っている彼女は、病的なまでに瞳が際立っていて――血と薬の臭いがした。
「こんばんは」
シキは、その白いワンピースに見覚えがあっ――中性的な声で、彼女は言った。
「こ、こんばんは」
挨拶を返すと、美麗な微笑みをたたえた女性はつぶやく。
「関心しないね」
「……え?」
「よる、であるくの。こどもだけで。あぶない」
一字一字、言い聞かせるみたいにして言って、ニコリと笑んでみせる。だが、その笑顔は、まるで漂白されてるみたいで、一切の感情らしきものが籠められているようには思えなかった。
「あの男に会った?」
「あの男って……誰のこと……?」
「勇者」
月を背景に語り、彼女の陰影が星を覗いているように視える。
「おじさんのことだよね? 会ったよ。ぼくのことをぶん殴った人は、本当に久しぶりだったから。村長さんもなにしても怒ったりしないし、なんだかみんな、前みたいにげんこつ飛ばしてきたりしないよ」
まるで、怖がってるみたいに。とは、付け足さずに口を閉じる。
「あのおじさん、嫌い?」
シキは考えて――頭を振る。
「お母さんが、人を想って怒ってくれる人は良い人だって言ってた。でも、その見極めが難しいから、怒ってばっかりの人を好きになってもダメだって」
「へぇ、良いことを言う」
とてとてと近づいてきた彼女は、ぽんぽんとシキの頭を叩き、ポケットから飴玉を取り出した。
「食べる?」
むわっと、漂ってくる血と薬の臭い……死にかけていた村の老人が、これに近い臭いを発していたのを思い出し顔を背ける。
恐らく、この臭いは、身体に染み付いているもので、どう足掻いたところで落としようがないものなんだろうとシキは思った。
「…………」
ぽりぽりと頭を掻いた彼女は、興味なさげに飴玉を放り捨てる。その場に体育座りして、ちょいちょいと、隣に腰掛けるように指で誘ってくる。
勧められるままに、シキは隣に腰を下ろした。
「勇者と魔王は、一体、誰が選ぶんだろうね?」
ぼんやりと月を眺めた彼女は、ぼそりとつぶやいた。
「……どういう意味?」
「そのままの意味」
つまらなそうに雑草を引き抜いている彼女の腕には注射痕があり、視てはいけないものだと顔を反らす。
「勇者も魔王も、まるで最初からそうあるみたいにして存在してる。お約束みたいに。はい、キミは今から勇者。そこのキミは、明日から魔王。なんて感じで、物語のはじまりからおしまいまで、勇者と魔王は定義づけられてる。
勇者と魔王の成り立ちなんて、どこの誰も、教えてなんてくれない」
「だって、そんなの……そういうものでしょ? この村から出た勇者様だって、平凡な男の人だったってお母さんが言ってたよ?」
「なら、キミは」
彼女は、虚ろな瞳で、宙空を捉える。
「魔王として、この世界のために死ねる?」
「…………」
「もし、それがお約束の条件だとしたら、キミは当たり前のような顔で生命を捧げてみせるのかな?」
――だーいじょうぶ! 善い行いは神様もわたしも視てる! だから、シキは、立派な善人になりなさい!
「うん」
寸分の躊躇いもなく、少年は純粋無垢を口にする。
「死ぬよ。善い人になれるなら」
「……狂ってる、か」
ささやきは風にかき消されて、いつの間にか、彼女は既に立ち上がっていた。
「わたしは、嫌いだよ」
「え?」
「あの男が。勇者が。
だから――」
歪なまでの笑顔で、美しい人は首を傾げる。
「キミも嫌い」
「…………」
「でも、もし、キミが『おじさん』と呼んでいるあの男の言うことに従って、君自身の狂いをなくせたのなら好きになるよ」
「……お約束?」
「わたしは、この世でお約束が一番嫌いだ」
彼女が指を打ち鳴らすと、どこからともなく、自称勇者がシキを呼ぶ声が聞こえてくる。
「また会おうね」
そっと、彼女はシキの額にキスをする。
「救世主様」
風がひときわ強く吹き渡り、思わず両目を腕で守ると――シキの前から、彼女は消えうせていた。




