教会
霧雨と霞んだ月の下、少女は息を切らしてその建物に辿り着いていた。建物の壁には植物が這うように成長しており、屋根から伸びた十字架にはツタが絡みついている。扉も錆つき、人間に放棄されて自然に半ば侵食されているようにも見えた。
少女は汗と雨粒に身体を濡らし、その頬にはまた別の温かい筋を流している。纏っているのは年頃の子供が着るような服ではなく、飾りも何もない患者衣だった。袖の下から細い腕を覗かせながら扉の取手を掴む。錆が剥がれて手にくっついて来る嫌な感覚を覚えながらも、少女はその扉を開けた。
軋むような嫌な音と共に、その埃っぽい内部が少女の視界に入った。海外の写真でも見覚えがあるような、長椅子が列に並んで中央に走る通路、そして細やかなステンドグラスを背に置かれた祭壇。やはり記憶にある教会で間違いなかった、と少女は思った。しかしあの頃みたいに手入れや人の気配は全くなく、これではまるで廃墟だとも感じていた。それは、この教会の周りに何本も打たれた杭に張られていた、黄色と黒の汚れたテープを目にした時から薄々思っていたが。
――せっかく、全部投げ出して、縋ってきたのに。
少女は既に頬に走った筋を追いかけるようにもう一粒流れた涙を拭いながら、回らない頭で過去の自分に思いを馳せる。朧げな記憶ほど美化されてしまうものとは分かっているつもりだったが、ここにくれたあの時と同じように奇跡が起きてくれるんじゃないかと、そんな確証のない、蜘蛛の糸みたいな希望を信じていたのに。その糸が切れる音が聞こえる気がしていた。
しかしその時、少女の耳が拾ったのは何か湿った音だった。音が響いて出どころが一瞬分からなかったが、祭壇の方からそれがするのが次の音で分かった。
こんな所に、こんな時間に、こんな天気に、何かがいる。少女は教会に足を踏み入れた。床は少女の華奢な身体でも軋むくらいに古びている。いつ底が抜けてもおかしくなさそうで、足取りは嫌でもゆっくりになる。照明はもちろんなく、月光がステンドグラスを通して、祭壇周辺だけを七色に照らしているだけだ。
その湿った音は祭壇の奥から不規則に聞こえている。そこに立って教えを説く神父なんかいるはずがないのに、明らかに何かがいる。少女は思いながらもその歩みを止められない。逃げ出してここに来たんだ、ここからまた逃げ出しても行く先はない。後数歩で祭壇に手が届くくらいにまで気付けば辿り着いている。そして何か液体を踏んだ音がした。雨や土に汚れている上履きのような白かった靴に視線を落とすと、そこに溜まっているのは赤い液体だった。そして視界の端、祭壇の裏から、真っ赤な手が力なく伸びているのを見てしまった。
そこから突然声がした。
「せっかく無視してあげてたのに――」
自分と同じような少女の声がした、と思った次の瞬間には"それ"は立ち上がりながら祭壇の裏から姿を現した。肩まで覆う白い髪、赤い目、感情のない顔、胸、身体、素足。一糸纏わぬ姿のそれは、全身血にまみれている。肘上から先は赤紫色の布のような何かが幾枚も連なり重なり、花びらのように先端を跳ねさせながらオペラグローブのように肌を覆っていた。そしてその手が持っているのは、既に息絶えた人間の……中身。祭壇の裏には獣に喰われたかのように損傷の激しい死体が転がっている。それを見た少女の嗅覚は突然、鉄の臭いを捉えていた。
逃げないと、いけない。少女は思っても、それと目を合わせたまま、動けない。
「――こんな所に、わざわざ来て。何? 幽霊かなんかの噂でもあった? 残念ね……ここにいるのは、あたし」
感情の見えない赤く光った目を少女に向けたまま、笑いかけるかのように頬を緩めるそれ。口の周りは真っ赤に染まり、その奥には尖った牙のような歯が覗いている。
「死にたくないなら、出ていけばいいわ。追いはしない。もし死にたいのなら……もう一歩、こっちにおいで?」