第2章 休日―それぞれの思い
時は瞬く間に流れ、冬から春の変わり目の季節。専門課程も修了し、訓練校卒業式を迎え、セイヤとリサは正式にトウア国治安局中央地区管轄の特殊戦闘部隊配属となった。
久々にまとまった休日を得たが、リサは寮で洗濯や部屋の掃除で時間をやり過ごしていた。
これからは給料が出るので、寮を出て、街で部屋を借りて暮らす者もいたが、リサもセイヤもそのまま寮生活を続けることにしていた。
訓練生時代と違い、寮費や食費は支払わなくてはならないが、かなり安く済む。規則や時間の束縛など多少の不自由さと部屋の小汚さ・狭さが気にならなければ、寮を利用したほうがお得だ。
今日も訓練所に設置されている薄暗い地下室のコインランドリーで、リサは洗濯を始める。
ほかの同期生たちは正式採用を記念して繁華街に繰り出しているようだったが、そんな気になれなかった。街で何をしたいわけでもなく、つきあってくれる友達もいない。
ルイとはたまに電話で話したり、メールのやりとりをするくらいで、養護施設を出てからは会っていなかった。
二層式の洗濯機が音を立てて回る。機械が古いせいか音がうるさく、鼓膜に響いた。
ルイも勉強や研究で忙しそうだし……と思った時、セイヤの顔が思い浮かび、慌てて打ち消す。
とその時――
「せっかくの連休なのに、もったいない過ごし方しているよな」
後ろからそう声をかけられ、リサの心臓が跳ね上がる。
セイヤが洗濯ものを入れたバケツを抱えながら、やってきていた。
「そっちこそ」
何てタイミングで現れるのよと思いつつ、洗濯機が止まったので、あたふたと洗濯したものを取り出しながら、そっけなく振る舞う。
セイヤもこの休日に訓練生用の寮から公務員用の寮へ移ったが、たいして荷物もなかったので、すぐに引越し完了してしまったようだ。
「まあな」
そう応えつつもセイヤはまだ何か話したそうにリサのほうを伺い、突っ立っていた。
「何?」
手を止めたリサはセイヤに目を向ける。
「洗濯終わったら、ちょっと出かけないか?」
「え」
「やっぱり気が進まないか」
「……」
「じゃあ、いいや」
セイヤは空いている洗濯機のほうに向き直り、洗濯ものを放り込んだ。
リサは慌てて返事をする。
「あ……その……行ってみようかな」
洗濯を終えて、昼下がり。セイヤとリサは治安局の食堂で軽く食事を済ませ、繁華街へ出かけることとなった。
さすがに部屋着のままじゃ……とリサは思ったが、ワンピースの類はダンボールに入れて封したままクローゼットの奥のほうにしまい込んでいたので、結局、部屋着に毛が生えたような格好になった。セイヤも普段着なので気にしないことにする。
振り返ってみれば――訓練校に入ってそこの寮生活するようになってから、リサはまだ一度も私用で治安局・治安部隊関連敷地の外に出たことがなかった。
1年ぶりの私的なお出かけ。しかもセイヤと二人っきりだ。
――これってもしかしてデート……。
リサは内心ちょっと心ときめかせながら、しかし、そんな気持ちは否定したいと思いつつ、実に複雑な気持ちでセイヤと並んで歩いていた。
――そうだ、兄さんのことを思えば、こんなことで心をときめかすなんて……。
リサは浮き浮きする気持ちを沈め、自分を戒めた。
時折こうして、奥底に封じたはずの感情が湧き出る。
その度に、床を這う兄から流れ出ていた赤い血を思い出し、心を押し殺す。
セイヤとは今のまま友人としてそこそこ距離を保ったままでいるのが一番、心地よかった。
それ以上、踏み込むことはリサの罪悪感が許さなかった。
青空に雲が出始めるも陽光を遮るほどではなく、早春のやわらかい日差しが降り注ぐ繁華街は人々と車が行き交い、そこそこ賑わっていた。
が、ある路地で、ふと理沙は歩みを止める。
その先にはリサの兄が殺された銀行強盗事件の現場となったトウア中央銀行跡地があるはずだった。さらに周辺では建造物爆破事件もあり、この一帯は一時、封鎖状態にあった。
あれから街の治安は悪化し、ひったくりや傷害事件が頻発していた。昼間でも女性の一人歩きは控えるようにと呼びかけられるありさまだ。
街は賑わっているようには見えるが、街全体の経済状況は低下傾向にある。
当時、新聞では銀行強盗と爆破事件の関連性を示唆する記事が出回った。
通常、人質をとって立てこもり強盗をしても失敗するものだが、近辺で爆破事件が起こり、銀行を取り囲んでいた治安部隊がその対応に追われてしまい、突然の作戦変更に混乱してしまったという。
金を手にした犯人は、あたふたしていた治安部隊の非常線を突破し、爆破にびっくりして逃げ惑う人々にまぎれて逃走を果たした。
その犯人は今も見つからず――
『個人の犯罪とは思えない。何か大きな組織が関わっていたのではないか』『犯人が治安部隊の非常線を突破するとは、逃走を助けて手引きした者がいたに違いない』
――と世間は騒ぎ立てた。
事件後、トウア中央銀行は閉鎖され、別の地域に移転した。
思えば、兄が死んでからリサは一度もあの現場へ行ってない。当時、あまりの辛さにそこに近づくことができなかったのだ。
「でも、今なら」
リサの独り言に、セイヤは反応した。
「ん、何?」
「あの銀行があった場所に行ってみたい。兄さんに報告しなきゃ……治安部隊に入れたこと」
「……そうか……じゃ、行ってみよう」
二人は、リサの兄が殺された場所へ――銀行の跡地に足を向けた。
いつの間にか雲が増え、青空を侵食していた。陽光も徐々に弱まりつつあり、淡い黄昏色が混じる。
高い建物に囲まれた日陰の道を進み、いくつかの角を曲がると、銀行跡地なる目的地にたどり着いた。
現在、銀行のあった場所はどこかの会社の倉庫になっているようで、人通りも少なくなり、その近辺は寂れていた。
あちこちの壁には卑猥な言葉の落書きがされており、道端にはゴミが散乱し、荒んだ表情を覗かせている。
当時の賑わいはすっかり消え去り、このひっそりとした風景は今のリサの心境を表しているかのようだった。
と、そこへ突然「ひったくりーっ」という女性の叫び声が聞こえてきた。
セイヤとリサが振り向くと、女性用のバッグを持って走ってくる三人組の男の姿があった。
「こっちへ向かってくる」
リサは構え、戦闘態勢に入る。
――白昼堂々ひったくり事件が発生するなんて、本当に街の治安が悪くなってしまった。絶対に犯人を逃してはいけない。
「どけ」
三人組のひったくり犯は、セイヤとリサに気づくとナイフを取り出し、見せつけるかのようにかざした。
――逃がさない。
ひったくり犯に向かっていこうとするリサ。
だが、その動きは止められた。
「え?」
リサの手首をセイヤがつかんでいた。そしてさらに後ろから体を抱え込み、完全に動きを封じてしまった。
それどころか三人組の逃走経路を邪魔しないようにとセイヤはリサを抱きかかえながら後方へ引きずり、道を空けた。
おとなしく引き下がったセイヤに抵抗する意思はないと見て、ひったくり犯たちは二人を無視して、そのまま逃げ去っていく。
「何で?」
リサは暴れたが、セイヤは犯人の姿が見えなくなるまで腕を解くことはなかった。
リサの瞳から犯人の姿が遠ざかり、やがて消えた。
ようやくセイヤはリサを放した。
腕から逃れたリサは呆然とした様子でセイヤを見やり、そして犯人が消えた方向を見つめる。
その間、セイヤは携帯電話で治安局に連絡を入れ、犯人の人相や服装、場所、逃走した方向など説明していた。
通報を終えたセイヤにリサは食ってかかる。
「なぜ犯人を逃したの? 私たちは今では専門訓練を受けた治安局の、しかも戦闘を担う特戦部隊所属の隊員でしょ? 恥ずかしくないの?」
しかしセイヤはこう答えた。
「今のオレたちは何も装備していない非番だ。仲間の援護もなく、武器を持った複数の犯人に立ち向かうべきじゃない」
「腰抜け」
「何とでも言ってくれ」
セイヤは自分を罵倒することで気が済むならそうしろ、と言わんばかりだ。
――犯人を目の前にしながら、逃がしてしまった……。
リサの脳裏に血だまりの中で倒れている兄の姿が現れる。
「兄さん……ごめん……」
兄が殺された銀行の跡地へ向けて、リサは跪いた。頭を地面につけ、そのまま動こうとしない。
そんなリサをセイヤは黙って見ているだけだった。
あんなに晴れていたはずの空には、いつの間にか陽光が消え、灰色の雲が重く張り巡らされていた。
その後、セイヤとリサは無言で帰途に就き、警察捜査隊から事情聴取を受けた。
やっと解放され、寮へ戻る別れ際も、リサはセイヤと目を合わせようとしなかった。セイヤも声をかけることなく、女子寮へ入っていくリサを見送った後、自分の部屋へ戻っていった。
空はすっかり夜の帳を下ろしていた。外灯が燈り、あちこちの窓からも明かりが漏れる。
女子寮の2階にある自分の部屋に入ると、灯りも点けずリサはそのままベッドに潜り込んだ。
どこの部屋からなのか、同じく寮生活をしている治安局所属の女子職員や女子隊員たちのおしゃべり声が遠く聞こえてくる。
楽しげな女の子たちの世界は、自分には無縁だ。
今日も出かけるべきではなかった。おとなしく部屋に籠っていればよかったのだ。
――セイヤにも迷惑をかけてしまった……。
もう、リサには分かっていた。冷静になって考えれば、セイヤの判断は正しかった。
あの時、相手は三人で、しかもナイフを持っていた。
もしリサが犯人に立ち向かえばセイヤも巻き込まれただろう。
――私の行動はセイヤを危険に晒すことになったかもしれない。
――兄さんを死なせてしまったように、私はセイヤも死なせたかも……。
リサは自分にぞっとし、思わず両腕を抱え込み身を縮ませた。
ひょっとしたら自分は疫病神かもしれない。
ならば独りでいい。他者とは関わりたくない。いや、関わるべきではない。
それが兄を死なせた自分にふさわしい生き方なのだ。
昼間、ちょっとでも浮ついた気持ちを持ったことが恥ずかしく、リサは苦い思いを噛みしめる。『友人』ならば許されるとつい自分に甘くなってしまった。これからはもっと自分を戒めなくては……。
こうして、久しぶりの休日は後味悪さだけ残して暮れていった。
それからまもなく――
ひったくり犯は見つかり御用となった。犯人は近くに住む貧民層の少年たちだった。
セイヤは、ひったくり犯が自転車もバイクも使っていなかったこと、彼らの身なりや様子、そして街の細かい路地を迷いなく走っていったことから、この街の地理に明るい――すなわちこの近くの貧民街に住む者ではないかと推測していた。
どこか遠くの街へ逃げ切ることも容易ではないだろうから、危険を冒して無理に捕まえなくても、すぐ後から警察隊が捜査をすれば、逮捕は難しくないと踏んだのだ。
セイヤがリサより勝っているのは、男ならではの筋力だけではない。冷静な判断力は、セイヤのほうがずっと上だ。
冷静さを欠いていた自分が間違っていたと認めつつ、リサはセイヤとは距離を置いたままでいた。
セイヤのほうもリサに遠慮しているようで、二人の間には気まずい空気が重く横たわったままだった。
リサは戒めを解くことはなかった。
セイヤとの距離はこのまま縮まないほうがいい。近づけば、またきっと迷惑をかけてしまうだろう。
犯人を目の前にすれば、捕まえたい衝動を抑えられないことをリサは自覚していた。
もう犯人を捕まえることしか生きる意味を見出せない。自分にはそれしか残されていないのだ。
――次は絶対に逃さない。