第1章 心臓移植
久しぶりの休みをもらった今日、セイヤとリサはお出かけの準備に勤しんでいた。リサが前々から欲しがっていたソファとテーブルを買いに行くことになったのだ。
リサは例によってあまり似合っていない深紅の口紅をつけていた。いや、似合っていないというのは、あくまでもセイヤの主観であるのだが……。
まあとにかく、リサの気合の入った厚化粧も済み、二人は自宅マンションを出た。
空は薄い雲を散らせながら青く晴れ渡っていた。春のやわらかい陽光が降り注ぐ。
二人の自宅マンションは治安局の近くにあり、家賃はそれなりに高いが、利便性がよく、新市街の中心地まで歩いて行ける距離にある。
街路樹の木漏れ日がゆらゆらと揺れるお昼時。人々で賑わう繁華街へ入ったところ、募金の呼びかけにセイヤとリサはふと足を止めた。
涙を浮かべている母親らしき人物が5歳くらいの子どもの写真を胸に掲げ、頭を下げていた。子どもが心臓の病気で、もう移植を受けるしか助かる道がなく、海外での心臓移植を希望しているという。そのため莫大な費用がかかるので、どうか助けてくださいと訴えていた。
道行く人の何人かが募金に応じる。ネットを通じての呼びかけもされていたようだが、やはり子を思う生身の母親の姿を見ると胸に迫るものがある。
「トウア国では、子どものドナーがなかなかいないからね……」
リサは気の毒そうにつぶやき、セイヤもその話題に応える。
「子どもの場合、臓器提供は難しいよな。脳死といえど、動いている心臓を提供するのに抵抗感を持つ親も相当いるだろうし」
「けど、子どもも大人も関係なく脳死になったらドナーになることが法で決まっている国もあるよね、どこだっけ?」
「ゴルディアだな。あそこは冷徹で合理主義バリバリのお国柄だからな」
「それで救われる人もたくさんいるんだろうけどね」
「確か、殺人を犯した死刑囚も心臓はもちろんあらゆる臓器を提供することになっているんだよな。誰かの命を奪った代わりに、自分の命をさし出し誰かを助ける……臓器提供こそが償いとする考え方だ」
「う~ん……何だかすごい死刑だね。倫理的にちょっと受けつけられない」
「そうか? 心臓や肝臓、腎臓、小腸、眼球、皮膚を提供して複数の人を助けることが、せめてもの償いになるんじゃないか? 死刑囚も麻酔をかけられてラクに死ねるんだから、絞首刑よりはよほどいい。誰かの命を救い、死刑囚の命を無駄にしないとも言える。諸外国の中ではゴルディア国の社会システムが一番、理にかなっているように思うけどな」
「ほかの国の臓器提供の状況ってどうなっているんだろう?」
「ユーア国は公の健康保険制度がないから、医療費が払えない貧しい人たちが適切な治療が受けられず、事故にあっても放置されて脳死になる場合もけっこうあるようだな。それにドナーとして臓器提供すれば、遺族は金がもらえるそうだ。倫理上、問題があるけど、わりと移植が行われているらしい。あそこは、そういったことを規制しない自由の国だよな」
「それって臓器売買じゃない……」
リサがため息をつきながらも、話を続けた。
「そういえばこの間、臓器売買について取材したアントンの記事が週刊誌に載っていたよね。シベリカではずっと以前から人身売買する組織があちこちにあって、臓器売買もされているっていう……」
アントン・ダラーは、セイヤとリサと同じく未成年養護施設出身の、今はフリーライターをしている男だ。施設にいた子ども時代、セイヤとの間でいざこざがあったものの、大人になってから邂逅、和解して手を組み、ルイ・アイーダの支援を受けて海外で取材することも増えていた。
現在、内乱状態にあるシベリカ国に入るのは難しいが、隣国アリアやその周辺の国で、逃げてきたシベリカ人を取材する機会があり、その時、臓器売買の話を聞いたらしい。
シベリカ中央政府は人身売買や臓器売買を法で禁じているものの、そういったことに手を染めるマフィアを野放しにしており、取り締まりもゆるく、マフィアと中央政府の高官がつながっているという疑惑もあるようだ。
人々の喧騒の中、やつれた母親の募金をお願いする悲痛な声がリサとセイヤの心を刺す。
「あのお母さん、どこの国での移植を希望しているんだろう……」
リサは幾ばくかのお金を募金箱に入れに行った。母親はリサに何度も頭を下げた。
その後、近くの家具店でお手頃なソファとテーブルを買い、配送手続きを済ませたセイヤとリサはシーフードレストランでランチを楽しみ、ショッピングもそこそこに帰途に就いた。
「セイヤって欲しいもの、ないの?」
交差点で信号待ちしている時、何となしにリサは訊いた。ショッピングも、セイヤはリサにつきあうだけで、買いたいものも特にないらしく、あまり関心がなさそうだった。
が、リサのその問いに「そりゃあるけど」とセイヤから意外な答えが返ってきた。
「え、何が欲しいの?」
「……子ども……」
「そうくるか~」
リサは苦笑した。それはさすがに『プレゼント』というわけにはいかない。仕事を続けるなら、産むタイミングを考えないとならないし、今のこれだけ治安が悪化したトウア社会の中では安心して子どもを育てられない。
信号が変わり、横断歩道を渡りながら、セイヤはつぶやいた。
「家族と今の平穏な暮らしが維持できれば、オレはそれで充分だ」
「まあね、後はずっと健康でいられて、おいしい食事ができれば幸せだね」
リサは同意しつつも、こう続けた。
「でもさ、いつか旅行に行きたいな。できれば海外。ま、国内でのんびりするのもいいけど」
「そうだな」
リサの話に頷きながら、セイヤはふと物思いにふける。そういえば結婚式も新婚旅行もなしだったっけ、と。
新婚生活はゼロからのスタートだったけど、二人で力を合わせて家具や家電製品を少しずつ買い揃えていき、まあまあ快適で便利な生活ができるようになった。今は貯金もそこそこある。せっかく経済的に余裕ができてきたんだから、あちこち旅行してみるのもいいかもしれない。
「でも時間的余裕がないかあ」
「ん?」
「いや、いずれ……長い休みが取れる部署に異動願いを出そう。そしたら、いろんなとこ行ってみよう」
歳をとれば、特命チームでの体を張った任務もできなくなる。今、これだけがんばっているのだから、将来、ラクしてもバチは当たらないだろう。
「あ、ちょっとそこ寄ってみない?」
リサがセイヤの腕を引っ張る。横断歩道を渡った目の前にちょうど旅行代理店があった。
「今すぐ行くわけじゃないけどさ、行きたいところを優先順位つけてピックアップするだけでも楽しいじゃない。パンフレットもらっていこうよ」
「ああ、そうだな」
子どもも欲しいけど、もうちょっと二人きりの生活を楽しむのも悪くない。
セイヤとリサは旅行代理店に立ち寄り、そこでしばらくパンフレットを眺める。その中で気に入ったものをいくつかもらい、店を出た。
いつの間にか街は長い影を落とし、夕刻が近いことを示していた。心地よい風が吹き、街路樹の葉擦れの音がさわさわと耳をくすぐる。
オレンジ色の淡い日差しを背に浴びながら、散歩気分で家路に就いた。
そしてその夜は――休日の仕上げとして『夫婦生活のテコ入れ』をし、心行くまで満喫した二人。もちろん、ベッド脇のサイドテーブルの上にある『ゴリラ3兄弟』のぬいぐるみを伏せて置いておいたのは言うまでもない。




