第1章 事件―アンモン教授惨殺
夏本番前の生ぬるい空気が漂い始める季節となった。
閑静な住宅街の中にある一軒家――アンモン教授の年季の入った古びた自宅には、緑豊かな木々が茂る庭があり、昔ながらの風情を感じさせていた。
この日は静かな夜だった。家族はもう寝静まっており、教授だけがまだ、あくびを噛み殺しながら論文を書いていた。
その時、微かな物音がした。
アンモン教授は顔を上げる。誰かがトイレにでも起きたのか――人の気配に振り返る。
何かが首を引っ掻いたと思った。
と同時に生温かいものが噴出する。それが己の血であることを認識する間もなく、教授の意識は闇に落ち、その後、二度と戻ることはなかった。
鉄臭さが充満していく暗闇の中、命の息吹が消え去り、深い沈黙が降りた。
翌日。
アンモン教授惨殺事件について、さっそくマスコミは騒ぎ立てていた。教授は頸部を切りつけられ、それが致命傷となったという。
「また酷い事件が起きたな」
出勤してきたセイヤとリサに、ジャンが声をかけてきた。
今回、この事件の捜査にはジャンたち特命チームにお呼びはかからず、警察捜査隊が動いていた。
「何だか見せしめのような感じがするよな。工作員の仕業か?」
ジャンは顔をしかめながら吐き捨てた。断定はできないが、その疑いは捨てきれない。
「サギーが関わっている可能性はあるのかな」
リサのつぶやきに、すでに公安とコンタクトをとって確認していたセイヤは応えた。
「いや、公安の話だとサギーにこれといった動きはなかったようだ」
――工作員である疑いが濃厚なサギーは、もとはセイヤとリサとルイが未成年養護施設付設学校高等部にいた時の担任教師でもあった。
シベリカ人とトウア人は人種的には同じであり、外見からは区別がつきにくい。サギーは名前をトウア風に改名し、移民としてトウア国籍を取得し、未成年養護施設付設学校の教員となった。
そこで武力を行使する軍や犯人を射殺することもある治安部隊に嫌悪感を抱かせるような教育を施していた。トウア国の軍や治安部隊の力を削ぐ目的だったのだろう。
こういった教育工作は、トウアに帰化したシベリカ工作員らが教育の場へ潜入し、長い年月をかけて行われていったと推察できた。
おかげで軍と治安部隊への就職競争率は低く、志望者は年々減少傾向にあった。大した志もなく、どこにも就職できないという理由で仕方なく志願してくる者もあった。
その後、サギーは教員をやめ、本格的にトウア社会破壊工作活動にシフトしていったようだ。
が、まだ工作員であるという確実な証拠が挙がってなかった。
今現在、公安隊がサギーを監視しているが、最近はほとんど動きがなく――人手不足でもある公安はサギーだけにかまけているわけにはいかず、監視をゆるくしていかざるを得ないとのことだった。
「ところでルイさん、大丈夫かな。アンモン教授と知り合いなんだろ」
ジャンがセイヤとリサへ視線を向ける。セイヤとリサがルイと親しかったことから、ジャンもそのおこぼれに預かり、ルイとはそこそこの友人関係にあった。
「ええ……メールはしてみたんですけど……とりあえずは元気そうでした」
リサはそう言いつつも、その口調には微妙な空気がはらむ。
トウア国立大学の学生でもあるルイはアンモン教授と私的にも交流があったようだ。
きっとショックだろうと心配になったリサはルイに連絡してみたが『心配してくれてありがとう』と当たり障りのない短い返事がきただけだった。
そう、実はこの頃、ルイから避けられている空気を感じていた。……いや、きっと気のせいだろう、ルイも疲れているのだ、そう思うことにしているのだが。
「アンモン教授、シベリカに批判的な人だったしな。ルイさんもまた狙われるんじゃないか」
ジャンの声に、リサの物思いは断ち切られる。
ジャンが危惧するのも無理はなかった。
今までもルイ・アイーダはシベリカ工作員と疑われる連中に襲われたりしていた。セイヤのおかげで難を逃れてきたが、ルイのシベリカ批判は、トウアにいるシベリカ人への差別を煽ったとして一部のシベリカ人にも恨まれ、工作員ではない一般のシベリカ人少年に怪我をさせられたこともあった。
そんなジャンの心配に、今度はセイヤが応える。
「ルイは常に護衛をつけているし、防弾仕様のクルマを購入して、外出の時は運転手を雇ってクルマでの移動にしています。今も高性能の位置発信器を身に着けているし、それに24時間警備員がいるセキュリティのしっかりしているマンションに越しました。本人もかなり警戒しているようだから大丈夫でしょう」
けど本当は、セイヤはこう説明したかった。
――リサやジャンには知らせてないが『例の作戦』のためルイは特別にトウア国の保護下にあると。
ルイは上流階級に属していた母親から莫大な資産を引き継ぎ、それを資金に亡命してきた同胞のアリア人とネットワークを作り、シベリカの情報を集めていた。その情報やルイの持つネットワークはトウア国にとっても有益なものであり、『作戦』を成功させるために彼女の力がどうしても必要だった。しかし作戦内容含め、このことは機密事項である。
「でも、こういった警備は資産家のルイだからできるんであって、アンモン教授のような一般庶民にはそこまでできないよね」
セイヤの言葉を引き継ぐようにリサがつぶやく。
「だから簡単に工作員の手にかかってしまうよな。……って工作員の仕業だったら、と仮定してのことだけど」
ジャンが深く嘆息した。
アンモン教授は、『反トウア』を掲げ暴走しがちなシベリカ人の若者らを叱咤する存在であり、多くの一般シベリカ人はトウア人と仲良くしたがっていると世に訴えていた人物だった。
その教授が見せしめのように殺された。この事件により、教授に同調していた一般シベリカ人が黙り込んでしまうかもしれない。
セイヤの胸に不安が広がる。
そう、シベリカ工作員らの目的は、トウア人とシベリカ人を反目させ、お互いの憎しみを暴走させることだ。
だから、これを止めようと動いていたアンモン教授を消し、アンモンを応援しようとする一般シベリカ人たちを牽制したのだろう。
世間も当然、シベリカ工作員の関与を疑っていたが――シベリカ工作員はトウア世論からどう思われようが、なりふりかまわず邪魔な人間を消し去る強硬手段に出てきたようだ。
それなのに、こちらは『自白剤使用条件を緩和する法』『スパイ防止法』など国会の審議を待ち、法が整備されて施行されるのは早くて来年からである。
予算が大幅増額されるのも来年だ。治安部隊を強化したくても動けずにいる。
また工作員と疑われる者をこれといった証拠もなく、しょっ引くのは今の法の下ではできない。公安も人手不足であり、監視体制は万全ではない。どこもかしこも穴だらけだった。
これからも凶行を仕掛けてくるだろう工作員らに、人員不足の治安部隊はどこまで対処できるのか……。
いや、すでに自分たちは後手後手に回っている。
だからこそ――『例の作戦』の成功を祈っていた。
・・・
その後、トウア市内で巡回中のパトロール隊員らが何者かに襲われ、拳銃が盗まれる事件が発生した。
パトロール隊員は二人一組で街を巡回するが、二人とも銃撃され失神させられた。それぞれ防弾ベストを着用していたため、軽傷で済んだが、一晩でパトロール隊員二組・計4名が襲われ、拳銃を4丁も盗られてしまった。
一般の素人にできるような犯罪ではなく、シベリカ工作員の関与が疑われた。
それからのパトロール隊は四人一組で行動するようになったが、その分、巡回する地域や頻度が縮小されることとなり、治安回復の道は遠のいた。
トウア社会は恐怖に包まれ、よりいっそうシベリカ人への嫌悪感が増幅され、トウア人の心を黒く染めていく。
それを助長するかのように、さらに事件は頻発した。




