エピローグ 呪縛
――『あの人』がいなくなってから、どのくらい経つのだろう。
サギーは形見となった『指輪』を見つめた。
大切にしまい込んでいたこの指輪を取り出すのは何年ぶりだろうか。……そう、指輪を見ると心がざわめき、寂しいという感情に支配されるので、自分の心の奥底に閉じ込めるかのように取り出さないようにしていた。
なのに、なぜか今日は指輪を身につけたくなった。
――そうか、セイヤとリサの話を聞いたからかもしれない。あの二人は結婚したらしい。
・・・
サギーはシベリカ国の砂漠地帯のある小さな村で育った。
トウア国の生活レベルから較べたらお話にならないほどインフラ整備が遅れていて、電力不足にも悩まされ、生命線である水道も故障が多く、井戸に頼る始末だった。
当時、サギーには結婚を約束した恋人がいた。
がその彼は「二人の未来のために」「この暮らしを何とかしたい」「これから始めるビジネスの資金を得たい」と出稼ぎに行くと言い出し、当時、世界的にも経済大国だったトウア国へ行ってしまった。
3年間トウア国で働けば、シベリカ国では都心部で大きな家を持つことができる、それだけのお金が稼げると言われていた時代だった。
彼は少しでもサギーに便利で豊かな暮らしをさせてあげたかったのだろう。
しかし、彼の約束が果たされることはなかった。
数ヵ月後、トウア国という遠い地で、彼は病気になった。
最初は、ほんのちょっとした風邪だったらしい。
多くの外国人労働者は病気になっても、わざわざ病院に行って治療を受けることはしない。治療費にお金をかけられないし、その分、少しでもお金を貯めて、早く故郷に戻りたい……彼だけではなく皆そう思っていただろう。
当時のトウア国では、働きに来ていた外国人は『トウア国在住1年以上』でないと国が運営する医療保険に入れなかった。外国人は民間の保険に入るしかない。けど、民間の保険会社は貧乏な出稼ぎ労働者なんて相手にしない。こちらもそんなことにお金を使う余裕はない。
劣悪な環境下、働きすぎで体力が消耗していたのか、彼はついに肺炎にかかってしまったが、それでも病院に行かなかったようだ。トウア国に来てまだ間もなく、貯金もできていないのに、保険なしの高額な治療費を払うことなどできなかった。
彼はトウアという異国の地で亡くなった。
高度な医療技術を持つ裕福なはずのトウア社会で、貧しい外国人労働者である彼は治療を受けられずに死んだ。きちんと治療を受けていれば、死なずに済んだはずだ。
それなのにトウア人は自分たちは優しい善なる上等な人間だと思い込んでいる。その余裕ある豊かな暮らしは外国人労働者に支えられているというのに。
サギーは、そんなトウア人に虫唾が走った。そしてトウア国を憎悪した。
――そういえば、リサ……あなたも肺炎になったのよね。でも、あなたは心置きなく手厚い医療を受けることできて元気になった。私の彼はそういった医療も受けられず、ボロボロの安アパートの一室で、独りで苦しみながら亡くなったというのにね……。これって不公平だと思わない?
もちろんトウア国にはトウア国の言い分があるだろう。
もし、トウア国に来る外国人がすぐにトウア国の運営する安価な医療保険制度を利用できるようにしてしまったら――保険料をちょっと納めただけで、本来なら莫大な費用がかかる医療を安く受けることができ――トウア国に旅行気分で来て治療を受けて、また帰国してしまう『治療目的の外国人』が激増する。そして、その後の保険料は納められることはない。その負担はトウア国民が負うことになるのだ。
でもサギーから見れば、トウア国が彼を殺したことに変わりはない。トウア国を恨むのはお門違いだということは頭では分かっていたが、この憎しみは癒えようがなかった。
この『憎しみ』という呪縛を解くには、トウア国に一矢報いるしかない。
彼が亡くなった後、サギーはシベリカ国の対トウア工作員となった。
貧しくさえなかったら、彼は出稼ぎに行くこともなかった。この貧しさから抜け出すには……彼を死に追いやった憎いトウアの富を奪えばいいのだ。
トウアへの復讐がサギーの生きる糧であり、サギーの全て。
この復讐心が正しいのか正しくないのかは関係ない。心に空いた穴を癒してくれるのは憎しみだけなのだから。
当時、サギーが彼の死を知ったのは、彼が亡くなってから10日後だった。
その10日前……つまり彼が亡くなった日に、サギーは彼から送られてきたプレゼントを受け取っていた。
心を躍らせながら包みを開けると――そこにあったのは指輪だった。
この時の幸福感は今も忘れられない。
今のサギーからすれば、おもちゃのような指輪だが――この指輪は何ものにも替えられない宝物となった。
その指輪が送られてきた日はサギーの誕生日であり、人生最大の幸福に浸った日であり――後で絶望に沈むことになる彼の命日となってしまった。
・・・
古びたアパートの窓辺からやわらかい薄日がこぼれる中、形見の指輪は何か語りかけてくるようにキラキラと輝く。
海が近く、潮の臭いが窓から入ってくる。砂漠が近かった内陸部にあるサギーの故郷にはなかった臭い。
思わずサギーは顔をしかめる。この海洋国トウアの臭いに今も慣れることはない。
そう――サギーにはプライオリティはない。トウアをつぶすこと以外には何も――。
憎しみに埋もれながら、サギーはいつまでもいつまでも指輪を眺めていた。




